EP 4
氷血公爵のゼロ距離追尾と、九尾の去勢クライシス
大理石の噴水広場に、凍てつくような冷気と、耐え難い下水香水の異臭が渦巻いていた。
中村優太の手によってエミリアの華奢な身体が引き戻された後も、帝国北部方面軍総司令官『氷血公爵』ヴァルター・フォン・アーデルハイトは、石像のようにその場に佇んでいた。
プラチナシルバーの長い髪が、冷気を帯びた海風にふわりと揺れる。
彫刻のように整った美貌には、怒りも、焦燥も、いかなる人間的感情の揺らぎも浮かんでいない。ただ透き通るような青い瞳だけが、獲物を狙う鷹のように、優太の背後に隠れたエミリアへと真っ直ぐに注がれていた。
「……エミリア。戻れ」
低く、大気を微細に震わせる氷の美声。
ヴァルターは右手をわずかに差し出したまま、無言で一歩、前へと足を踏み出した。
その足取りには、一切の躊躇がない。
スッ……スッ……スッ……。
音がしない。軍靴の底が石畳を踏みしめる摩擦音すら極限まで殺し、まるで空間そのものを滑るように間合いを詰めてくる。
二メートル、一・五メートル、一メートル──。
普通の人間であれば、他者と対峙する際に無意識に設けるはずの「社会的境界線」を、公爵は何の頓着もなく平然と踏み越えていく。
「ひ、ひぃぃぃっ! 来ないで! ジリジリ寄ってこないでぇぇぇッ!!」
エミリアは優太のグレーのパーカーの背中を両手でギュッと掴み、涙目で悲鳴を上げた。
「ほら見てください優太さん! あの目! 完全に獲物の首根っこを狙うスナイパーの目ですよ! 会話する距離じゃない! そのまま歩幅を緩めずに私の顔面二センチまで突進してくる気ですわ、あの男!!」
「止まりなさい、公爵閣下」
優太は一歩前に進み出て、両手を自然体に広げてヴァルターの進路を遮った。
左手首の耐衝撃デジタルウォッチを操作し、公爵の微細な生体反応を視覚と聴覚でスキャンする。
瞳孔の対光反射、頚動脈の拍動数、表情筋の筋緊張度。
「心拍数毎分四十八、徐脈傾向。瞬目の回数は一分間にわずか二回。表情筋の運動単位はほぼ完全脱力状態だ」
優太の瞳の奥に、戦術医としての怜悧な光が宿る。
「ヴァルター公爵、あなた自身にはエミリアさんを害する敵意も、性的な興奮すらも存在していない。……だが、頭頂葉における『空間定位アルゴリズム』が、外部からの強制介入によって致命的なバグを起こしている。相手との物理的距離を認知するニューロンが完全に麻痺し、『対象の呼吸圏内に自らの身体を重ねる』ことだけが唯一の正解であると錯覚させられている状態だ」
「……問答無用だ」
ヴァルターの青い瞳が、わずかに細められた。
腰に佩いた魔剣の鞘から、キィィンと耳障りな絶対零度の燐光が漏れ出す。
「我が名はヴァルター・フォン・アーデルハイト。帝国北部方面軍の全権を預かる者だ。我が愛を阻むいかなる障害も、この氷刃の前に平伏せよ──」
公爵の左手が柄にかかり、抜刀の構えに入ろうとした、まさにその時だった。
──モゾモゾッ、モサッ。
「……ふぎゃ?」
エミリアの汚れたフリルドレスの裾の奥から、何かが這い出してきた。
現れたのは、雪のように純白の毛並みを持つ、手のひらに乗るほど小さな子狐──九本のふわふわとした尻尾を扇のように揺らす、妖狐の聖獣『コン太』だった。
真ん丸い黒曜石のような瞳、ぴんと立った愛らしい三角の耳。一見すれば、誰もが思わず抱きしめたくなるような至高のマスコット的存在である。
「あらぁ……! 可愛い白狐の仔犬ちゃんですわ!」
荷台の陰から見ていたキャルルが、思わず頬を緩めた。
だが──エミリアの表情は、一瞬で引きつった。
「だ、駄目っ! コン太、今出てきちゃ駄目ぇぇぇッ!!」
エミリアの悲鳴も虚しく、子狐は「クゥ〜ン……♡」と喉を甘く鳴らしながら、エミリアの足首へと擦り寄った。
……しかし、その仕草。
純真無垢な動物の甘え方ではない。
鼻先をいやらしくヒクヒクと動かし、エミリアのふくらはぎの匂いを深々と吸い込むと、その黒い瞳の奥に、居酒屋のカウンターで赤ら顔になった中年オヤジ特有の、濁りきったドスケベな光がギラリと灯ったのである。
「ハァ……ハァ……! エミリアたん……! 今日のドブと香水の混ざったスモーキーな匂いも……ゾクゾクするほどたまんねぇぜぇ……! もっと……もっと吸わせろぉぉぉッ!」
「喋ったぁぁぁぁぁッ!? しかも声が完全に薄汚いオッサンのそれやないかい!!」
背後で見ていたニャングルが、算盤を放り出しそうになりながら絶叫した。
人狼執事リバロンも片眼鏡の奥の瞳を鋭く尖らせ、身構える。
「いけません、優太殿! エミリア殿の精神的パニックに伴い、彼女の体質──無自覚の固有権能『絶対愛憐』のフェロモン波が、臨界点を超えて放射されております!」
「なに……!?」
優太が視線を戻した瞬間、大気中に淡い桃色の微細な燐光がブワッと霧のように立ち込めた。
それは他者の理性を麻痺させ、無条件でエミリアに対する狂気的な庇護欲と執着を暴走させる、天災級のパッシブスキルだった。
その高濃度フェロモンを至近距離でダイレクトに浴びてしまったコン太の全身が、バチバチと赤黒いスパークを散らし始めた!
「グルルルルァァァッッ!! ダメだ……! 理性のタガが……何千年も耐えてきた聖獣の理性が……粉々にブチ折れそうだぁぁぁッ!!」
ボフンッッ!!
白煙と共に、子狐の身体が瞬時に大型犬並みのサイズへと肥大化した。
九本の純白の尻尾が逆立ち、血走った眼球孔から涎をダラダラと垂らしながら、エミリアの腰元へと跳びかかろうとする!
完全に発情暴走モード──異種間性的興奮過剰の極致に達していた。
「エミリアたぁぁぁん!! 俺と一つになろうぜぇぇぇッ!!」
「ぎゃあああああああああっっっ!? コン太がケダモノになったぁぁぁッ!!」
エミリアは涙と鼻水を撒き散らしながら、優太の腕にしがみついて絶叫した。
「誰か! 誰かハサミを持ってきてぇぇぇッ!! 今すぐコイツの玉袋をチョン切って、完全なオカマ狐にしてやってぇぇぇぇッッ!! 去勢だ! 去勢手術を一秒で執刀してぇぇぇぇええッッ!!!!」
「待てエミリアたん! それだけは! 男の誇りだけは勘弁してくれぇぇぇッ!!」
正面からはゼロ距離で無表情のまま抜刀しようと間合いを詰める氷血公爵。
足元からは涎を垂らして飛びかかろうとする九尾の巨大聖獣。
そして挟まれた社畜令嬢の去勢コール。
現場は、一瞬にして脳が焼き切れるような狂乱の坩堝へと叩き落とされていた。
「……トリアージ区分、即時介入(赤タグ)だ」
優太は深く息を吸い込み、耐衝撃ウォッチのアラームを解除した。
混沌極まる状況であっても、戦術医としての思考は絶対零度のように研ぎ澄まされている。
「キャルル、龍魔呂! 連携するぞ! 公爵の抜刀を牽制しつつ、暴走する聖獣を生け捕りにする!」
「了解です! 月影流・間合い塞ぎぃぃッ!」
タローマン特注の安全靴が石畳を激しく蹴り砕いた。
キャルルが白銀の突風となって割り込み、抜刀しかけたヴァルターの鞘と鍔の隙間へ、木製ダブルトンファーの角を電光石火で滑り込ませた!
ガチンッッ!!
火花が散り、ヴァルターの魔剣の切っ先が完全に鞘の内側でロックされる。
「な……ッ!?」
「公爵閣下! 女の子が嫌がっているのに間合いを詰めるのは、レオンハートの騎士道精神にも反します!」
キャルルが紅い瞳を凛と光らせて公爵の進路を塞ぐ。
同時に──背後から、ズゥゥンと大気を押し潰すような足音が響いた。
鬼神龍魔呂が、漆黒のバイクから静かに降り立ち、ヴァルターの副官たちの射線上に立ちはだかっていた。
手にした真鍮製オイルライターを、親指で弾く。
カチッ……。
硬質な開閉音。
火は灯さない。だが、龍魔呂の巨躯から放たれた天災級の赤黒い威圧感が、介入しようとしていた帝国兵三十名の四肢をその場に縫い付けた。
「……動くな。医者の手術台を荒らす奴は、骨ごとミンチにする」
完璧な退路遮断と露払い。
その刹那の隙に、優太は意識を集中させ、視界の隅のシステムインターフェースを呼び出した。
【現在保有善行ポイント:5,659P】
目的は明白だ。暴走した聖獣の安全な生体鎮静、および不可逆な外科的損傷(去勢)の回避と、公爵の狂気的な接近の物理的遮断。私利私欲は微塵もない。
「頼む……高密度の神聖生体を傷つけずに瞬時に鎮静させ、安全なソーシャルディスタンスを強制維持する現代医療・拘束デバイスを寄越せ!」
【100Pを消費:地球ガチャを実行(残余:5,559P)】
【使用者の明確な救護意志、生命の尊厳を守る強い覚悟を感知──特殊判定成功】
【排出等級:SSR(地球先端大型動物用・超高圧空気式無痛麻酔ダーツガン&ナノテク急速鎮静フェロモン中和ペプチド弾&高反発エアバッグ式パーソナルサークル展開器一式)】
淡い光の収束と共に、優太の両手に艶消しブラックのカーボン製エアライフルと、円盤状の特殊デバイスが出現した。
「コン太、お前の男の尊厳は俺が守ってやる! 大人しく眠れ!」
優太はシステマの脱力歩法で飛びかかってきたコン太の側頭部へ滑り込み、銃口を狐の臀部の筋肉組織へと向けた!
引き金を絞る──!
パシュッッ!!
圧縮空気の炸裂音と共に、無痛ニードルを備えたナノテク鎮静弾がコン太の大腿筋へと寸分の狂いもなく打ち込まれた!
中和ペプチドが血流に乗って大脳辺縁系へと到達し、暴走していた受容体を瞬時に正常化させていく。
「ほぎゃあぁぁぁん……!? 急に……急に賢者モードが……大宇宙の真理が……見えてきたぜ……ガクッ」
ドサリと、コン太は白目を剥いてその場に倒れ伏し、再び手のひらサイズの子狐へと縮みながら、幸せそうな寝息を立て始めた。
「去勢手術を回避、急速薬理的沈静完了だ」
優太はコン太の首根っこを優しくつまみ上げると、手早く気道を確保してエミリアの腕の中へと預けた。
そして息をつく間もなく、足元の円盤状デバイスを、依然として間合いを詰めようとしていたヴァルター公爵の足元へと滑らせた!
カチリ、ボンッッ!!
高圧炭酸ガスが一瞬で解放され、公爵とエミリアの間に、直径一・五メートル、厚さ三十センチの強靭な半透明ウレタンエアバッグが、ドーム状の防護壁となって勢いよく展開された!
ヴァルターの軍靴が、エアバッグの弾力に阻まれてピタリと制止する。
「な……これは何だ?」
ヴァルターが氷のような瞳を瞬かせ、目の前に立ちはだかった柔らかな壁を手袋で押した。
どれほど力を込めようと、高反発のエアクッションがその衝撃を優しく吸収し、一歩たりとも先へ進ませない。
「これが、現代医学と行動心理学が推奨する『適正対人距離・一・五メートルサークル』です」
優太はエアバッグの向こうの公爵を指差し、堂々と宣告した。
「愛を語るなら、そのサークルの外から声を届けなさい。相手のパーソナルスペースを力ずくで侵害する者は、騎士でも紳士でもなく、ただの侵入者に過ぎませんよ」
大理石の広場に、清々しい静寂が満ちていった。
エアバッグの向こうで、ヴァルター公爵は自らの手を見つめ、次いでエミリアの顔を見つめ──初めて、その彫刻のような眉根を微かに寄せた。
「……適正対人距離、だと……?」
氷の仮面に、かすかな亀裂が走り始めていた。
【神獣の性的狂乱の無傷鎮静および重要要人間の衝突完全阻止を感知】
【重大な公衆治安維持および医療調停:善行ポイント+300P獲得】
【現在保有善行ポイント:5,859P】
視界の隅に流れる黄金のログを見届け、優太は深く息を吐き出した。
しかし、ポポロ村商隊の前に立ち塞がる真の病巣──ムーンキャピタルの腐敗した貴族たちと、街全体を覆う致死性スメルハザードとの戦いは、まだ始まったばかりだった。
読んでいただきありがとうございます。
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