EP 3
転生社畜令嬢エミリアの絶叫と、バキュームカー待望論
大理石の噴水広場に木霊した悲痛極まりない絶叫は、白亜の街並みに漂う甘ったるい香水の霧をビリビリと震わせていた。
「溺愛とか顎クイとかどうでもいいから、今すぐ街にバキュームカーを呼べぇぇぇぇぇッッ!! この街、ドブ臭すぎて死んじゃうよぉぉぉおおおッッ!!!!」
ドレスの裾を泥の跳ね返りで汚した華奢な少女──シフォンヌ男爵家の転生令嬢エミリアは、肺腑の底から魂の叫びを絞り出し、肩で激しく息を乱していた。
前世において、都心のブラック商社で終電間際までエクセルと格闘し、胃薬をエナジードリンクで流し込んでいた元社畜OLの怨嗟。彼女の瞳には、過労死寸前の満員電車で揺られていたあの頃と同じ、濁りきったハイライトのない絶望が宿っている。
──だが、その魂の叫びを真正面から浴びせられている当の男は、眉毛の一筋すら動かしていなかった。
「………………」
帝国北部方面軍総司令官にして『氷血公爵』ヴァルター・フォン・アーデルハイト。
プラチナシルバーの長髪を風になびかせ、冷涼な青い瞳を持つ彫刻のような美男子は、黒革の手袋をはめた指先でエミリアの顎をクイッと真上に持ち上げたまま、完全な静止画のように固まっていた。
その距離、わずか二センチ。
吐息が互いの唇を微かに掠め、睫毛が触れ合わんばかりの超至近距離。ヴァルターの端正な美貌からは、周囲の噴水の水滴が凍りついて霧散するほどの冷気オーラが漂っているものの、その視線はエミリアの瞳の奥をレーザーのように射抜いたまま、瞬き一つしない。
背後に直立不動で控える軍服姿の副官や騎士たちは、全員が「また始まった……」と言わんばかりの死んだ魚のような目を浮かべ、天を仰いでいた。
「あの、閣下……すでに十五分が経過しております……」
「公道における一般市民へのゼロ距離接触は、帝都心療内科のガイドラインに抵触する恐れが……」
側近たちの消え入りそうな進言も、公爵の耳には一ミリも届いていない。
月の女神カグヤが都市全域に施した『強制溺愛プログラム』の魔導バグと、エミリアが自覚なく放つパッシブスキル『絶対愛憐』の相互干渉。二つの狂気が正面衝突した結果、公爵の脳内にあるパーソナルスペースの安全装置は、跡形もなく焼き切れていた。
「……おい、離せって言ってんだろ筋肉ダルマ! 息がかかる! 顔が良いのが余計に腹立つ! ソーシャルディスタンスを思い出せぇぇぇッ!」
エミリアが必死にもがくが、北方戦線を素手で鎮圧してきた魔剣士の握力は万力そのものだ。顎を固定されたまま首を振ることすら叶わず、少女の顔面は酸素欠乏と悪臭の複合ダメージで急速に土気色へと変わりつつあった。
「……重度の急性低酸素血症、および揮発性悪臭成分による気道攣縮だ。呼吸補助が必要だな」
大理石の噴水の影から、迷いのない静かな足音が歩み出た。
グレーのジップアップパーカーの袖をまくり、黒いタクティカル防毒マスクを装着した青年──中村優太だった。
優太は左手首の耐衝撃デジタルウォッチを操作し、エミリアの頸動脈の拍動を目視でカウントしながら、公爵の間合いへと一切の殺気を消して滑り込んだ。
「何奴だ」
ヴァルターの青い瞳が、獲物を射抜く氷の刃となって優太の喉元を捉えた。
全身から立ち上るマイナス五十度の凍結闘気。常人であれば、その威圧感だけで肺が凍りついて膝をつくはずの神話級のオーラだ。
だが、優太の呼吸は乱れない。
歩法はシステマの脱力と運動量転換。優太はヴァルターの凍えるような殺気を正面から受け止めることなく、空気の対流をなぞるように身を沈めた。
大東流合気柔術『手鏡』──。
優太の薄手のグローブをはめた両手が、エミリアの顎を掴んでいたヴァルターの手首の腱へと、水滴が落ちるような滑らかさで触れた。相手の力に逆らわず、骨格の運動連鎖に沿って梃子の支点をわずかにズラす。
──スッ。
万力のように固定されていた公爵の指先が、不可思議なほど抵抗なくエミリアの顎から外れた。
拘束を解かれたエミリアの華奢な身体を、優太は左腕でふわりと抱き留め、そのまま後方の安全圏へと滑らかに引き戻した。
「な……ッ!?」
ヴァルターの氷のような表情に、初めて微かな驚愕の波紋が広がった。
帝国最強の魔剣士の握力を、力任せではなく、ただの体重移動と関節の角度操作だけで無力化されたのだ。
側近たちが一斉にサーベルの柄に手をかけようとしたが、優太の後方から響いた「音」が、その場の空気を物理的に圧殺した。
──ズゥゥゥン……。
漆黒の大型アドベンチャーバイクに腰掛けた巨漢・鬼神龍魔呂が、レザージャケットのポケットから取り出した真鍮製オイルライターを親指でカチリと弄んでいた。
火は灯さない。だが、その男が纏う純度百パーセントの「死の質量」が、広場全体の気圧をドスンと跳ね上げていた。
「……医者の邪魔をすんな。首が繋がってるうちに引け」
低く、地底から響くようなドスの効いた声。
ヴァルターの副官たちが息を呑み、抜刀しかけた手をピタリと凍りつかせた。
「エミリアさん、深呼吸だ。これを口に当てて」
優太はリュックから、商隊に配備したのと同じ小型換気ファン内蔵のタクティカル防毒マスクを取り出し、エミリアの口元へと素早く装着させた。
ファンのスイッチを入れると、活性炭複合HEPAフィルターを通った澄み切った清涼な酸素が、密閉されたマスク内へと勢いよく送り込まれる。
「スゥーー……ハァーー……! ゲホッ、ゴホッ! ……スゥーーーーッ……!」
エミリアは両手でマスクを必死に押さえ、貪るように空気を吸い込んだ。
ドブ川の腐敗臭も、吐き気を催す薔薇の香水も、一切存在しない。ただただ純粋で、冷涼な無臭の空気。
「ふ、ふぁぁぁぁぁぁ……! な、なんですかこれ……! 空気が……臭くない……! 頭が割れそうだった偏頭痛が、スーッと引いていく……!」
エミリアの瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「現代日本のオフィスの味がする……! 空気清浄機のフィルターを通した、文明の香りがしますわぁぁぁん!!」
「過換気症候群の一歩手前だったね。血中酸素飽和度は回復している。……はい、これはポポロ村特産の『ポポロ珈琲飴』だ。ブドウ糖とカフェインで脳の血流を整えてくれる」
優太が差し出した茶色い包み紙の飴玉を、エミリアはおずおずと口の中へ放り込んだ。
舌の上に広がったのは、深煎り珈琲の上品な苦味と、太陽芋の水飴の優しい甘み。
「おいしい……! ちゃんと本物のコーヒーの味がする……! 香水で煮詰めたような偽物のお茶とは全然違う……!」
エミリアは地面にへたり込んだまま、優太を見上げた。
「あ、あの……! あなた達は一体何者なんですか!? この素晴らしいマスクと飴はどこから……!?」
「ポポロ村の交易商隊です。俺は臨時医官の中村優太。……見ての通り、ただの戦術医ですよ」
「戦術医……!?」
そこへ、タローマン特注の安全靴を鳴らしながら、キャルルが心配そうに駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか、エミリアさん! 怪我はありませんか!?」
「あ、はい……体は平気ですけど、精神が限界突破してました……」
エミリアはマスク越しに深いため息をつき、広場の噴水の向こう──依然として彫刻のように佇むヴァルター公爵を忌々しそうに睨みつけた。
「聞いてくださいよ優太さん、キャルルさん! 私、前世では都内の商社でサービス残業月百四十時間、終電逃してサウナ泊まりの社畜だったんです! 過労死寸前の電車内で、変なブランド狂いの女神から『人生リセットあげる♡』って適当に異世界へ放り出されて……! 男爵令嬢に転生したまでは良かったのに……!」
エミリアの元社畜マシンガントークが火を吹いた。
「なんなんですかこの街はぁぁぁッ!! 『全女性が息をするだけで溺愛される美の都』だぁ!? 白亜の宮殿の足元に下水管が一本も通ってないってどういう設計ミスですか!! 貴族の屋敷から垂れ流された汚物が側溝で発酵して、真夏も真冬もメタンガスが出っぱなし! それを誤魔化すために街角から高濃度の香水をぶち撒けて、街全体が巨大な毒ガス室じゃないですか!!」
「ごもっともですわ」
小脇に魔導金算盤を抱えたニャングルが、マスクの調整弁をカチリと鳴らしながら歩み寄ってきた。
「ウチもさっき正門くぐった瞬間、あまりのスメルハザードに脳の算盤が爆発しかけたで! カグヤの姉ちゃん、都市計画の教科書を焚き火にくべて暖を取ったんかと疑うレベルのインフラ放棄や!」
「そうなんですよぉぉぉッ!」
エミリアが激しく同意して首を縦に振る。
「ドレスの裾はヘドロまみれ、窓を開ければ硫化水素、舞踏会に行けば香水酔いで全員トイレでリバース! そんな地獄絵図の中で、あの公爵が『お前が欲しい……』とか言って顔面二センチまで詰め寄ってくるんですよ!? 愛の囁きじゃない、ただのホラーです! パーソナルスペースを返せ! 壁ドンも顎クイもいらないから、今すぐ日本からバキュームカーと高圧洗浄車をチャーターしてこいって話なんですよぉぉぉッ!!」
魂の底からの叫びに、優太は深く頷いた。
臨床医学と公衆衛生の観点から見ても、エミリアの怒りは百パーセント正しい。
下水が滞留した都市は、ただ臭いだけでは済まない。大腸菌、サルモネラ菌、赤痢菌、そして致死性のコレラ菌がネズミやハエを媒介して爆発的に増殖し、ひとたび大雨が降れば街全体が感染症の坩堝と化す。
「よく耐えてきたね、エミリアさん。……あなたの言う通りだ。人間が尊厳を持って暮らすために、下水道と廃棄物処理に勝る優先事項はない」
優太は立ち上がり、静かに噴水の前に立つヴァルター公爵へと向き直った。
公爵は、自身の腕からエミリアが奪われた後も、相変わらず氷のような冷徹な瞳を崩さず、優太を見据えていた。
「……貴様、何者だ。私のエミリアから、その薄汚れた手を離せ」
低く、大気を凍らせるような声。
だが、その声のトーンにも、呼吸の間隔にも、一切の感情の揺らぎがない。怒っているわけでも、嫉妬しているわけでもない。まるでプログラムされた命令を実行するためだけに動く、冷たい自動人形のようだった。
「ヴァルター公爵閣下。戦術医として、あなたに明確な診断を下します」
優太は一歩も引かず、公爵の青い瞳を真っ直ぐに射すくめた。
「あなたの取っている行動は、求愛でも愛情表現でもありません。公道における重大なストーカー事案であり、相手の尊厳を著しく侵害するパーソナルスペースの侵害です。……そして何より、この街の悪臭と不衛生を放置したまま愛を語るなど、統治者として根本的な順序が破綻していますよ」
「何……?」
「知恵と準備を尽くせば、この街のドブの底に溜まった病魔も、あなたの崩壊した距離感も、すべて外科的に切除してみせます。……商談の前に、この都市の大掃除を始めさせてもらいましょう」
優太の瞳に、獲物の病巣を捉えた執刀医の光が宿った。
その瞬間、視界の隅に柔らかな黄金の光文字が展開された。
【極限環境における要救護者(転生令嬢)の初期救命および精神的保護を感知】
【善行ポイント:+100P獲得(累計5,759P)】
虚飾に塗れた美の都を揺るがす、戦術医とポポロ村の衛生改革が、今まさにその第一歩を踏み出そうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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