EP 2
白亜の美の都と、致死性スメルハザードの洗礼
白亜の巨塔が青空を突き刺すように聳え立つその光景は、遠目にはまさに神話に語られる地上の楽園そのものだった。
マンルシア大陸東部沿岸──月の女神カグヤが統治するメガシティ『ムーンキャピタル』。
外郭を取り囲む城壁は純白の大理石で磨き抜かれ、陽光を浴びて真珠のような光沢を放っている。城門の左右には豪奢なクリスタルの噴水が涼やかな飛沫を上げ、虹のアーチが美しく架かっていた。
ポポロ村の交易商隊を率いる大型魔導牽引車と積載馬車の車列が、巨大な正門『ルナ・ゲート』の前へと滑り込む。
先頭を走る漆黒の大型アドベンチャーバイクのサイドカーから、中村優太は軽く身を乗り出し、街の偉容を見上げた。
左手首に巻かれた耐衝撃デジタルウォッチの液晶画面を確かめる。午後一時四十分。気圧、湿度ともに安定している。
「……すごいですね、優太さん! あんなに高い塔がいくつも並んでいて、街全体が宝石箱みたいです!」
後ろの荷台から身を乗り出した第43代村長キャルル・ムーンハートが、紅い瞳をキラキラと輝かせた。
オーバーサイズのパーカーにスパッツ、足元には『タローマン』特注の頑丈な安全靴。腰に下げた木製ダブルトンファーを揺らしながら、長い白い兎耳をピコピコと嬉しそうに動かしている。
だが──その隣で、人狼執事リバロンが静かに片眼鏡の位置を直しながら、深くため息を吐き出した。
「我が主。どうかその鋭敏な嗅覚のリミッターを、今すぐ最小限まで絞り込んでください。……門をくぐった瞬間、あなたのその純真な夢は、粉々に砕け散ることになりますよ」
「え……? リバロン、どういうこと……?」
ガタゴトと重厚な音を立てて、白銀の彫刻が施された巨大な城門がゆっくりと開かれた。
商隊の車列が、その門の敷居を一歩踏み越えた、まさにその瞬間だった。
──ボワッッッッ!!!!
目に見えない「見上げるほどの悪臭の壁」が、正面から車列全体を丸ごと呑み込んだ。
「ぎゃああああああああああああっっっっ!?!?!?」
悲鳴を上げたのは、商隊の総責任者である猫耳商人ニャングルだった。
金糸のベストを身にまとい、小脇に特注魔導金算盤を抱えていたニャングルは、鼻孔に空気が入ったコンマ一秒後に白目を剥き、荷台の上を摩擦熱で煙が出る勢いで転げ回った!
「く、臭ぁぁぁぁぁぁぁぁいッッ!! なんやこれぇぇぇッ!? ドブや! ドブと腐った卵と便所の底のヘドロを三日間煮詰めたような悪臭に、超高級な薔薇とバニラの香水をドラム缶ごとブチ撒けて強制撹拌したような、狂気の地獄ガスやぁぁぁッ!! 脳内の算盤の珠が全部融解して蒸発するわ! 防毒マスク! 誰か防毒マスクを買わせぇぇぇぇッッ!!」
「う……うぐっ……! な、なんですかこれぇぇぇ……!?」
キャルルもまた、両手で鼻と口を必死に覆い、涙をポロポロとこぼしながらしゃがみ込んだ。
人狼執事リバロンに至っては、純白のシルクのハンカチを口元に三重に当てながら、美しい青銀の狼耳をペタリと頭蓋に張り付かせ、眉間に深い皺を刻んでいる。
「ぐ……私の特級の嗅覚鑑識能力が……仇となりました……。アンモニア、硫化水素、スカトール、メチルメルカプタン……。そしてそれを覆い隠すための、合成ムスクとダマスクローズの超高濃度エステル香料……! まさに、物理的に息の根を止めに来る『致死性スメルハザード』でございます……!」
バイクを止めた鬼神龍魔呂も、黒革のジャケットの襟元を引き上げ、渋面を作っていた。
棚の瓶から取り出してきた角砂糖を二粒、素早く口の中へ放り込む。
ボリッ、ボリボリッ……。
乾いた破砕音を響かせ、喉を鳴らして飲み干した龍魔呂が、低く吐き捨てるように呟いた。
「……ひでぇ匂いだ。食材が腐り落ちた生ゴミの臭気と、安手の化粧品の粉っぽさが気道を焼きやがる。……こんな場所で出汁を引いたら、一秒で香りが死ぬぞ」
「ああ、料理以前に、公衆衛生学的に完全なレッドゾーンだ」
中村優太は冷静に状況を分析していた。
防衛医大で培った戦傷外科学と感染症疫学のデータが、視界の前の異様な光景と合致していく。
大通りを見渡せば、建物は確かに白亜の豪奢な宮殿風建築が立ち並んでいる。
歩道を行き交うのは、華やかなレースのドレスをまとった貴婦人たちや、金ボタンのフロックコートを着た貴族の紳士たちだ。
だが──その足元だった。
幅の広い目抜き通りの両脇にある側溝には、蓋すらされておらず、上流の貴族邸や高級レストランから垂れ流された未処理の汚水、残飯、そして人糞や馬糞がドロドロの黒いヘドロとなって滞留し、ブクブクと腐敗ガスの泡を噴き上げていた。
貴婦人たちは裾を汚さないよう、顔を青ざめさせながら爪先立ちでその汚水溝を飛び越えている。
そして、その悪臭を相殺するために街角の至る所に設置されていたのは、巨大な真鍮製のモニュメント──『魔導パフューム・タワー』だった。
プシューーーーッ! シュババババッ!
タワーの頂点から、霧状になった高純度の高級香水が、二十四時間休むことなく大気中へと猛烈な勢いで高圧噴射されている。
結果として生み出されていたのは──下水の腐敗臭を消すどころか、腐敗ガスの分子と人工香料の分子が最悪の化学反応を起こして結合した、嗅いだ者の三半規管と呼吸器を直接破壊する「甘ったるい地獄の猛毒気流」だった。
「お、お兄様……今日も街は……とても芳しい薔薇の香りで満ちておりますわね……オエッ」
「あ、ああ……君の美しさに比べれば、この華やかな都の香りなど……ウッ、ゲホッ、ゲホッ!」
すれ違う貴族の男女が、涙目を必死に笑顔で誤魔化しながら、ハンカチを口に押し当てて咳き込んでいる。
虚飾のプライドを守るために、街全体が巨大な酸欠・中毒部屋の中で我慢比べをしているような、狂気の光景だった。
「……統治者の怠慢ここに極まれり、だな」
優太の瞳の奥に、戦術医としての怜悧な怒りが宿った。
見た目の美しさと恋愛イベントに国家予算を全振りし、人間が生きるための根本である下水道と廃棄物処理を完全に放棄した都市。
このまま放置すれば、夏季の気温上昇に伴ってハエやネズミが媒介する腸チフスやコレラ、ペストの大規模アウトブレイクが起きるのは時間の問題だった。
「ニャングル、キャルル、少しの間だけ息を止めてくれ。……今、防護装備を展開する」
優太は意識を集中させ、視界の隅のシステムインターフェースを呼び出した。
【現在保有善行ポイント:5,759P】
目的は明白だ。同行する商隊員たちの気道熱傷および急性ガス中毒の阻止、ならびに公衆衛生防衛体制の確立。打算も売名もない、純粋な救護の意志。
「頼む……高濃度の硫化水素と複合有機ガスを完全に吸着遮断し、視野と通気性を両立する現代最高峰の呼吸保護具を寄越せ」
【100Pを消費:地球ガチャを実行(残余:5,659P)】
【使用者の明確な防疫意志、仲間を守る強い覚悟を感知──特殊判定成功】
【排出等級:SSR(地球先端特殊部隊用・アクティブ換気ファン内蔵型タクティカル防毒マスク&交換用活性炭複合HEPAフィルター50基&広域悪臭中和触媒スプレーセット)】
淡い光の収束と共に、牽引車の荷台の上に、艶消しオリーブドラブの大型耐衝撃クレートがドンと出現した。
優太は手早くラッチを跳ね上げ、中から軽量ポリカーボネート製のスタイリッシュなタクティカル防毒マスクを取り出した。
顔の下半分を隙間なく覆い、左右に小型のマイクロ換気ファンと高機能活性炭カートリッジが配置された最新鋭の装備だ。
「キャルル、まずこれをつけてくれ。ストラップを頭の後ろで締めるんだ」
「は、はいぃっ……!」
キャルルが震える手でマスクを装着し、バックルをカチリと固定する。
優太がファンのスイッチを入れると──。
スゥーー……シュコー……。
極小のモーターが静かに作動し、フィルターを通った完全な無臭・清涼な空気がマスク内を満たした。
「ふ、ふぁぁぁぁ……! 空気が……空気が美味しいですぅぅぅ……!!」
キャルルの紅い瞳に、生き返ったような光が戻った。
優太は続けて、荷台でのたうち回っていたニャングルの顔面へマスクを押し当て、ストラップを一気に締め上げた。
「ぶはぁぁぁぁぁッッ!? す、吸える! 息が吸えるでぇぇぇッ!!」
ニャングルが涙を流して胸を押さえる。
「生き返ったわ……! 優太ハン、あんたほんまに神様や! このマスクがなかったら、ウチの命の帳簿が今ここで強制決済されるところやったわ……!」
「リバロン、龍魔呂、商隊の全員分もある。全員に配備してくれ」
「感謝いたします、優太殿。まさに慈雨のような処置でございます」
リバロンが優雅にマスクを受け取り、手際よく御者や護衛たちへと配り広げていく。
龍魔呂も無言でマスクを受け取ると、首元にかけ、真鍮ライターをポケットから取り出した。
カチッ……。
開閉音だけを鳴らし、火は点けずに蓋を閉じる。
周囲の可燃性メタンガスの濃度を警戒した、百戦錬磨の処刑人ならではの咄嗟の判断だった。
「……ガスに引火したら街ごと消し炭だな。タバコは宿に着くまでお預けだ」
「賢明な判断だ、龍魔呂。……よし、車列の周囲に触媒スプレーを散布しながら、ゴルド商会の提携宿舎へ急ごう」
優太は高圧スプレーを手に取り、荷台の周囲の空気に霧を噴射した。
特殊な酸化分解酵素が、立ち込める悪臭分子を瞬時に水と二酸化炭素へと分解し、商隊の周囲数メートルだけが奇跡のような無臭の安全地帯へと塗り替えられていく。
白亜の並木道を抜けて進むポポロ村の車列。
その異様な「全員が黒いタクティカルマスクを装着し、平然とした顔で進む集団」に対し、道端でハンカチを口に当てて噎せ返っていたムーンキャピタルの市民や警備兵たちが、羨望と驚愕の眼差しを一斉に向けた。
「な、なんだあの者たちは……!?」
「あの口元の黒い魔導具は何だ!? なぜあいつらは、この高貴なる花の香りの都で、一滴の涙も流さず息をしているのだ……!?」
「く、くれ……! その口元の器具を私に売ってくれぇぇぇッ!」
貴族の紳士が馬車から身を乗り出して叫ぶが、ニャングルはマスク越しに「商談は明日以降や! 今は命が惜しいんじゃ!」と手を振って一蹴した。
やがて、目抜き通りの突き当たり──白亜の大理石で築かれた豪奢な貴族街の一角に、ひときわ巨大な噴水広場が見えてきた。
その広場の中央で、優太の視線が、ある「決定的に異様な光景」を捉えてピタリと静止した。
大理石の噴水の縁。
そこに立っていたのは、二人の男女だった。
一人は、透き通るような白銀の長髪をなびかせ、氷のように冷涼な青い瞳を持つ、長身痩躯の貴公子──帝国北部方面軍総司令官にして『氷血公爵』ヴァルター・フォン・アーデルハイトだった。
濃紺の軍服に豪奢な金糸の飾緒をつけ、腰には冷気漂う魔剣を佩いている。その美貌は彫刻のように完璧であり、周囲の空気が凍りつくほどの冷徹なオーラを放っていた。
──だが、その男が取っている「姿勢」が、あまりにも異常だった。
「………………」
ヴァルターは、目の前に立つ一人の小柄な令嬢の顎を、革手袋をはめた右手でグイッと真上に持ち上げていた。いわゆる『顎クイ』の姿勢である。
しかし、その距離感。
二人の鼻先と唇の距離は、わずか『二センチ』。
ヴァルターは一切の瞬きをせず、一言の言葉も発することなく、吐息が直接相手の睫毛を揺らす超至近距離のまま、能面のような無表情で令嬢の瞳をじっと見つめ続けていた。
すでに十五分間、その姿勢のまま微動だにしていないことは、背後に控える側近たちの絶望的な死んだ魚のような目を見れば明白だった。
そして、その顎を掴まれている被害者──。
淡い栗色の髪をハーフアップにし、フリルのついた上品なドレスを着た華奢な少女──シフォンヌ男爵家の転生令嬢、エミリアだった。
エミリアは両手をだらりと下げ、額に無数の青筋をピキピキと浮き上がらせながら、虚空を睨みつけていた。
その瞳の奥には、前世で都内のブラック商社で終電まで擦り切れるように働かされていた元社畜OL特有の、底知れぬ怨嗟と殺意が渦巻いている。
「……おい、公爵」
エミリアの唇が、至近距離の男へ向けてピクピクと痙攣しながら動いた。
「顔が良いのは認めるけどな……近ぇんだよ!! 息がかかって鬱陶しいんだよ!! パーソナルスペースって言葉を義務教育で習わなかったのかこの筋肉ダルマぁぁぁッ!! ……あとそれ以前になぁ……!!」
エミリアは広場中に響き渡るような、魂の底からの絶叫を大気へ向けて叩きつけた。
「溺愛とか顎クイとかどうでもいいから、今すぐ街にバキュームカーを呼べぇぇぇぇぇッッ!! この街、ドブ臭すぎて死んじゃうよぉぉぉおおおッッ!!!!」
「……出たで、優太ハン」
マスク越しにニャングルが、額を押さえて深いため息をついた。
「あれが、この美の都の『生ける災厄』や……。脳がバグるやろ?」
「……ああ。戦術医として、そして一人の人間として、治療の緊急度は文句なしの最優先(赤タグ)だな」
優太は耐衝撃ウォッチの盤面を叩き、静かに歩み出した。
下水道崩壊都市の衛生改革と、距離感の崩壊した氷血公爵の精神治療──。
ポポロ村の戦術医による、前代未聞のメガシティ大手術が、今まさに幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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