第三章 ムーンキャピタルの悪臭と、氷血公爵のゼロ距離包囲網
交易商隊の旅立ちと、美の都への招待状
夜明け前の冷気が、高原の木立を深い藍色に染め上げていた。
ポポロ村の中央広場には、出発を控えた大型の魔導牽引車や頑強な積載馬車が十数台並び、朝靄の中に威容を現している。
荷台には、頑丈な留め金を施されたオーク樽や桐の木箱が天井近くまで隙間なく積み上げられていた。
村の火山灰土が育んだ最高品質の『ポポロシガー』、月兎族の秘術によって月のマナを極限まで凝縮した奇跡の万能薬『月光薬』、そして肉厚でジューシーな旨味を閉じ込めた乾燥『肉椎茸』。どれも大陸中の貴族や富豪が目の色を変えて買い求める、この限界集落が誇る至高の特産品だった。
「気ぃ抜くなよお前ら! 木箱の角ひとつ傷つけたら、その分だけ給料から天引きやからな! ロープのテンションは三重にチェックや!」
まだ薄暗い広場に、ゴルド商会支店長ニャングルの鋭いダミ声が響き渡る。
金糸のベストを羽織り、三角の猫耳をピクピクと忙しなく動かしながら、小脇に抱えた特注魔導金算盤の珠を目にも留まらぬ速さでパチパチと弾いていた。
その喧騒から一本路地に入った先、小料理・BAR『鬼龍』の店内は、別世界のように厳かな静けさを保っていた。
木造の店内に染み渡っているのは、J.S.バッハの『無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調』。
深遠な低音の弦の響きが、檜の一枚板カウンターをかすかに震わせている。
厨房の奥では、黒い前掛け姿の巨漢・鬼神龍魔呂が、砥石で鏡面のように研ぎ澄まされた本焼き包丁で、透き通るような白身魚を手早く切り落としていた。
「おはよう、龍魔呂」
「……おう。座れ、朝飯だ」
中村優太がカウンター席に着くと、湯気を上げる膳がことりと差し出された。
炊きたてのサンライスの麦飯に、香ばしく皮目を炙った秋鱒の塩焼き、世界樹ネギを惜しみなく浮かべた熱々の味噌汁、そして細切りにした月見大根の浅漬け。
遠征前の慌ただしさを微塵も感じさせない、寸分の狂いもない和の朝食。
「いただきます」
優太は箸を取り、丁寧に咀嚼した。
脂の乗った鱒の旨味と塩気が、麦飯の素朴な甘みと重なり合い、澄んだ出汁の温もりが冷えた身体の隅々へ染み渡っていく。
戦術医として数々の修羅場を想定してきた優太にとって、この滋味深い一杯こそが、いかなる過酷な環境にも動じない精神の体幹を作り上げる礎だった。
器をきれいに平らげた優太は、自然な所作で立ち上がり、厨房の流し台へ向かった。蛇口を捻り、スポンジに泡を立てて手早く皿を洗い上げる。清潔な布巾で水滴を拭い、水切り棚へ伏せた瞬間、視界の端に淡いシステムログが走った。
【日常の労働(皿洗い)を感知】
【善行ポイント:+1P獲得(累計5,759P)】
「どんな遠征の前であっても、足元の日常を整えておくことが最大の危機管理だな」
「相変わらずマメなこった」
龍魔呂が低く鼻を鳴らし、棚のガラス瓶から取り出した角砂糖を二粒、口の中へ放り込んだ。
ボリッ、ボリボリッ……。
静かな店内に、小気味いい破砕音が響き渡る。
ブラックのポポロ・コーヒーを一息に煽った龍魔呂は、赤箱の無骨な紙巻タバコを取り出し、使い込まれた真鍮製オイルライターを親指で弾いた。
カチッ……シュポッ。
澄んだ開閉音と共に静かな黄色のオイル炎が灯り、立ち上る紫煙を天井へと燻らせる。
優太もまた、グレーのジップアップパーカーのポケットから無添加の青い紙巻タバコを取り出し、軍用マッチを擦って火を灯した。
二つの紫煙が、朝の柔らかな空気の中で静かに溶け合っていく。
「準備は万全か、優太」
「ああ。外傷救急キット、各種抗生物質、広域解毒剤、それに予備の点滴パックも揃えてある。……ニャングルが言うには、今回の目的地は相当に風変わりな街らしいが」
「風変わりどころじゃねぇよ。……月の女神カグヤの直轄都市『ムーンキャピタル』。表向きは白亜の宮殿とシャンパンタワーが煌めく美の都だが、実態はインフラをドブに捨てた虚飾の掃き溜めだ」
龍魔呂の漆黒の双眸が、東の空を睨みつけるように細められた。
「あの街の貴族共は、見栄と色恋のためなら平気で他人の生き血を啜る。……ま、飯のタネを運ぶ商隊にケチをつけてくるなら、相応のケジメをつけさせるだけだがな」
「ああ。頼りにしてるよ、相棒」
二人はタバコを携帯灰皿へ消すと、荷物を手に取り店を出た。
広場へ戻ると、出発の準備は最終段階に入っていた。
商隊の中央には、オーバーサイズのパーカーにスパッツ、足元には『タローマン』特注の頑丈な安全靴を履いた第43代村長キャルル・ムーンハートが立っていた。
腰には愛用の木製ダブルトンファーが下げられ、長い白い兎耳をピコピコと緊張気味に揺らしている。
「優太さん、龍魔呂さん、おはようございます! 今回のムーンキャピタル交易、村長として同行させていただきますね!」
「おはよう、キャルル村長。満月の疲れは残っていないかい?」
「うぅ……優太さん、その話はなしですぅ……! 思い出したらまた穴に入りたくなっちゃいます……!」
キャルルが両手で耳を伏せて顔を赤らめる。
その背後から、音もなく優雅に進み出たのは、仕立ての良い漆黒の燕尾服をまとった人狼執事リバロンだった。
片眼鏡の奥の瞳をすっと細め、手にしたクリップボードを掲げる。
「ご安心ください、優太殿。我が主の心拍数、血圧ともに平常値へと復帰しております。……なお、留守中の村の治安維持につきましては、自警団長のマンミア殿と、反省開墾ノルマを終えたイグニス殿に全権を委託してまいりました」
「うむ! 任せておくがいい!」
蹄の音を響かせ、白銀の甲冑をまとったケンタウロスの女性騎士マンミアが歩み寄ってきた。背中には身の丈を超えるパイルバンカー『アグニ』が鈍い光を放っている。
「留守中の防衛線は完璧だ。怪しい山賊や不審者が接近した際は、即座に誘導バズーカと魔導戦車で迎撃する。……キャルル殿、優太殿、道中くれぐれも気をつけてな」
「マンミアさん、ありがとう! 村をよろしくお願いしますね!」
「あ、あの〜! キャルル様ぁ〜! わたくしも……わたくしもお供しますわぁ〜!!」
バタバタと駆け寄ってきたのは、色褪せた芋ジャージをまとった人魚族の少女、リーザ・シーランだった。
鼻の穴にはピカピカに磨かれた五円玉を大事そうに詰め、手には使い古された木製のみかん箱を抱えている。
「ムーンキャピタルは美と芸術の都と聞き及びましたの! わたくしの至高の路上ライブを披露すれば、シャンパンタワーの泡のごとく金貨が降って湧いて、一瞬で大スターですわぁぁっ!!」
「あかんあかん! お前は絶対に留守番や!」
ニャングルが算盤の角でリーザの額をコツンと小突いた。
「前回の遠征で『ふ〜ん石』を落としまくって荷馬車の車軸を狂わせた前科を忘れとらんぞ! 大人しくタローマートの裏で草むしりでもしときぃ!」
「ぎゃふんっ!? ひ、酷いですわニャングル様ぁぁぁっ!!」
泣き叫ぶリーザをマンミアが優しく引き剥がす。
賑やかな見送りの声に包まれながら、商隊の大型魔導牽引車がブロロロと重厚なアイドリング音を鳴らし始めた。
「よし、全員配置についたな! 商隊、出発進行やでぇぇッ!」
ニャングルの号令と共に、車列がゆっくりと動き出した。
龍魔呂が漆黒の大型アドベンチャーバイクに跨がり、優太をサイドカーに乗せて、商隊の先頭へと滑り出る。
大排気量Vツインエンジンのドッドッドッという重低音が、高原の朝気を力強く切り裂いていった。
ポポロ村を背にして街道を東へ進むにつれ、景色はなだらかな高原の緑から、緩やかな起伏が続く赤土の平原へと移り変わっていった。
街道はよく整備されており、時折すれ違う旅の隊商や冒険者たちが、完全武装の魔導重火器を備えたポポロ村の車列を見て、驚愕の面持ちで道を譲っていく。
正午過ぎ、街道沿いの休憩所で小休止を取った際、優太たちは牽引車の天幕の下で地図を広げた。
ニャングルが煙管からプカリと紫煙を吐き出し、広げた羊皮紙の沿岸部を指先でトントンと叩く。
「ええか、優太ハン、キャルル。これから乗り込む『ムーンキャピタル』はな、月の女神カグヤが道楽で創り上げた、全大陸で最もイカれたメガシティや」
「イカれた、ですか……?」
「せや。都市のコンセプトは『全女性が息をするだけで溺愛され、豪奢なシャンパンタワーが煌めく美の都』や。高級美容サロンにジュエリー工房、ナイトラウンジにギャラ飲み派遣……街全体がキラキラした恋愛ファンタジーの舞台装置として設計されとるんや」
「わぁ……! 聞くだけなら、夢のような素敵な街に聞こえますけど……」
キャルルが紅い瞳を瞬かせる。
だが、リバロンが冷ややかに片眼鏡を押し上げ、深くため息を吐き出した。
「問題は、その美名の下に隠された『物理的現実』でございますよ、村長」
「物理的現実?」
「統治者である女神カグヤが、都市予算の百パーセントを『見た目の映え』と『恋愛イベントの演出』だけに注ぎ込んだ結果……近代都市に必須であるはずの下水処理施設、ゴミ焼却設備、公衆衛生管理といった基礎インフラの整備が、驚くべきことに『ゼロ』のまま放置されているのです」
「……下水が、ゼロ?」
優太は思わずタバコを咥えたまま絶句した。
戦術医として、公衆衛生の崩壊がいかなる惨劇をもたらすか、その恐ろしさは身に染みて理解している。
「せやねん! 道路の側溝には貴族共の屋敷から垂れ流された汚物がそのまま溜まり、真夏も真冬もドブの腐敗ガスが立ち込んどるんや!」
ニャングルが頭を抱えて唸った。
「ほんで連中、その耐え難い悪臭をどうやって解決しとると思う? ……街角の魔導噴霧器から、超高濃度の高級香水を二十四時間ぶち撒けて誤魔化しとるんや! 下水と高級香水が一対一で混ざり合った、致死性の『スメルハザード』地帯……! あれを嗅いだ瞬間、ウチの脳内の算盤の珠が全部弾け飛んだわ!」
「なんて不衛生な……! そんな環境、コレラやチフス、赤痢といった水系感染症の温床そのものじゃないか!」
優太の瞳に、医療従事者としての強い怒りと危機感が灯る。
華美な虚飾で塗り固め、足元の泥と病魔から目を背ける統治。それは優太の最も嫌悪する欺瞞だった。
「さらに厄介なのが、あの街の軍事トップにして『氷血公爵』と呼ばれる男……ヴァルター・フォン・アーデルハイトや」
「氷血公爵……ルナミス帝国北部方面軍の総司令官ですね。帝国最強クラスの魔剣士と聞いています」
優太が応じると、ニャングルはひどく複雑な、見てはいけないものを見たような顔で顔面を歪めた。
「その男がな……カグヤの仕組んだ『強制溺愛プログラム』のせいで、脳内のソーシャルディスタンスのブレーキが完全に粉砕されとるんや」
「ソーシャルディスタンスの崩壊?」
「前回の商談でな、ウチは見たんや……。その公爵が、街の転生令嬢エミリアはんの顎を無言でグイッと持ち上げて、顔面距離二センチのゼロ距離で十五分間微動だにせず見つめ合っとる姿をな……! 愛の囁きちゃう、ただの公道ストーカー不審者事案やろが! どういう顔して商談の書類渡せばええねん! 脳がバグるわ!!」
ニャングルの魂の叫びに、キャルルが頬を引きつらせ、龍魔呂が呆れたように角砂糖をボリボリと噛み砕いた。
「……まともな奴は一人もいねぇのか、あの街は」
「ええ、皆無でございます。ですが、だからこそ我が村の『ポポロシガー』や『月光薬』、そして新鮮な農産物は、あの腐敗した貴族たちへ数十倍の価格で売りつけることが可能なのです」
リバロンが冷徹に微笑み、手帳の算定式を示した。
「莫大な外貨を合法的に毟り取り、ポポロ村の財政基盤をさらに盤石なものとする。……それが今回の交易の真の目的でございますよ」
「なるほどな。……金儲けも結構だが、もし街の衛生状態が限界に達しているなら、戦術医として放置するわけにはいかないな。知恵と準備を尽くして、街の病巣ごと切除する作戦も視野に入れておこう」
優太が不敵に笑うと、龍魔呂もまた薄く口元を歪めた。
「……面白い。行くぞ、優太」
夕刻近く──。
なだらかな丘陵の尾根を越えた瞬間、前方の視界が一気に開けた。
夕陽に照らされた水平線の彼方に、白亜の大理石で築かれた無数の尖塔と、クリスタルの巨塔群が夕映えを浴びて神々しく輝いていた。
海からの湿り気を帯びた風が吹き抜ける。
大陸最大の美の都──『ムーンキャピタル』。
だが、風に乗って微かに鼻腔をかすめたのは、潮の香りでも、爽やかな夕風でもなかった。
噎せ返るような濃厚な薔薇の香水のアロマの奥底から、確かに漂ってくる──ツンと鼻を突く下水と腐敗の不穏な臭気だった。
「……来たな」
優太は耐衝撃ウォッチのベゼルを回し、白亜の巨塔を見据えた。
虚飾の都に渦巻く悪臭と、歪んだ愛の包囲網。
ポポロ村のしたたかな男たちの新たな戦いが、今まさに幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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