EP 3
小料理屋『鬼龍』のチェロと、狂気のポポロ村
大排気量Vツインエンジンの重低音が、ゆるやかな丘陵地帯に心地よく反響していた。
優太はバイクの後部座席で、治療を終えて眠りに落ちた獣耳の少年をしっかりと腕の中に抱きかかえていた。大腿部に巻いた高機能止血ガーゼと包帯は微動だにせず、少年が規則正しく刻む寝息の温もりが、優太の胸元に伝わってくる。
やがて、なだらかな下り坂を抜けたところで、眼下に広大な集落の全景が姿を現した。
青々とした田園と火山灰土の黒土がパッチワークのように広がり、中央を貫く街道沿いには赤レンガや石造りの家並みが並んでいる。
一見すれば、絵画のように長閑で平和な辺境の農村風景だった。
──だが、戦術医としての優太の動体視力と空間把握能力は、その長閑さの裏に潜む「致命的な異常性」を次々と捉えていた。
「……おい、龍魔呂」
「あァ?」
「あの村の入り口にある風車小屋……屋根の隙間から突き出てるの、四連装の対空魔導機関砲座じゃないか?」
「よく気づいたな。ドンガン製の油圧式だ。ついでに言うと、あぜ道の下には対戦車用の指向性地雷が等間隔で埋まってやがる」
「農村の防衛レベルを軽く逸脱してるだろ……。それに、あっちの青い看板の建物はなんだ? どう見ても日本の二十四時間営業コンビニにしか見えないんだが」
「『タローソン』だな。深夜になると廃棄弁当を巡ってヒモニートの狼や半神の青年が血で血を洗う争奪戦をやってる。その隣がホームセンター兼作業着屋の『タローマン』だ」
街道を走るバイクの前を、防毒マスクを装着した農夫が鍬を担いで横切っていった。
足元を見ると、拳骨大のニンニクに手足が生えた謎の球根植物が、畑から身を乗り出して「ねぇねぇ! オジサン昨日何時に寝たの? 目の下のクマやばくない!?」と甲高い声で喚き散らしている。農夫は無言のまま、鍬の柄でそのニンニクの頭をゴリッと叩いて黙らせていた。
「……ツッコミが追いつかないな」
「慣れろ。ここは三大国の緩衝地帯、大陸一危険な限界集落『ポポロ村』だ」
龍魔呂は事も無げに言ってバイクを減速させた。
村の中央広場に差し掛かると、少年の親とおぼしき獣人の夫婦が血相を変えて駆け寄ってきた。優太がバイクから降り、少年を無事に両親の腕へ引き渡すと、夫婦は涙を流して何度も頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……! 野盗に襲われたと聞いて、もう駄目かと……!」
「大腿動脈の裂傷でしたが、止血と初期輸液は完璧に終わっています。あと三日ほど安静にさせれば傷口は塞がりますよ。念のため、清潔な水で患部を保ってください」
【人命救護の完了および村民の感謝を感知】
【善行ポイント:+100P獲得(累計1,250P)】
視界の隅に小さく浮かんだシステムログを確認し、優太は胸を撫で下ろした。少年の笑顔と両親の安堵の涙を見られただけで、駆けずり回った甲斐があったというものだ。
「腹が減っただろ。行くぞ、優太」
「ああ」
龍魔呂に促され、街道から一本入った閑静な路地へと足を踏み入れた。
石畳の路地の突き当たりに、黒塗りの杉板と磨き抜かれた白木が美しい、純和風の佇まいを見せる二階建ての家屋があった。
軒先には、藍染めの暖簾が静かに揺れている。
そこには力強い筆文字で、一文字ずつ刻まれていた。
『小料理・BAR 鬼龍』
ガラガラ、と引き戸を開けて中に入ると、外の喧騒が嘘のように遮断された。
店内には、一本の檜から削り出された見事なカウンター席と、奥に二つの小上がり。無垢の木肌が間接照明に温かく照らされ、微かな研ぎ澄まされた刃物油と、芳醇な出汁の香りが鼻腔をくすぐる。
そして、静寂の空間を満たしていたのは、深みのある低音の弦の調べだった。
J.S.バッハの『無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV 1007』。
木造の店内に染み渡るような、穏やかで、それでいてどこか求道者の祈りにも似た厳かな旋律。
「……バッハか。異世界でチェロの音色を聴くことになるとは思わなかったな」
「昼はこれにしてる。耳が休まるからな」
龍魔呂はレザージャケットを脱いでハンガーに掛けると、黒い前掛けを腰にきゅっと締め直した。
その瞬間、全身から漂っていた処刑人の凶悪なオーラが完全に消え失せ、年季の入った板前の静けさへと様変わりする。手洗い場で入念に手を洗い、白木のまな板の前に立つと、仕上砥石で鏡面のように研ぎ澄まされた本焼きの和包丁を手に取った。
「何にする? ……と言っても、昼は出汁の効いた煮物と米くらいしかねぇがな」
「龍魔呂のおまかせで頼む。東京の味から離れて、胃袋が和食を求めてるんだ」
「あいよ」
トントントン、と軽快な包丁の音が店内に心地よく響き始める。
寸胴から立ち上る湯気は、乾燥させた昆布に似た海草と、燻製された魚の香ばしいアロマを含んでいた。
龍魔呂が無駄のない流れるような手際で小鉢と平皿を整え、優太の前のカウンターへことりと並べる。
「お待ち。月見大根の出汁煮と、ピラダイの塩焼き、サンライスの麦飯に陽薬草の吸い物だ」
湯気を上げる料理の数々に、優太の目が自然と見開かれた。
透き通るような飴色に煮込まれた大根には、繊維の奥までたっぷりと黄金色の出汁が染み渡っている。塩を振って皮目をパリッと焼き上げられた魚の身からは、上質な脂がじわりと滴っていた。
「……いただきます」
箸を取り、大根を一口運ぶ。
舌の上でほろりと崩れた瞬間、上品な旨味が口蓋いっぱいに爆発した。雑味が一切なく、芯まで熱々の出汁が、戦いと転移で緊張していた五臓六腑へじんわりと染み渡っていく。
麦飯をかき込み、魚の塩焼きを口に運ぶと、香ばしさと淡白ながら力強い旨味が後を引く。
「美味い……! めちゃくちゃ美味いぞこれ。料亭の味だ」
「当たり前だ。出汁の引き方一つで、人間の寿命は伸び縮みするからな」
龍魔呂はぶっきらぼうにそう返しつつも、わずかに満足そうに目を細めた。
優太があっという間に平らげると、龍魔呂は銀のポットを傾け、二つのマグカップに黒褐色の液体を注いだ。
立ち上るのは、ビターチョコレートのような重厚なコクと、柑橘類の爽やかな酸味が混ざり合った芳醇な香り。
「ポポロ・コーヒーだ。村の火山灰で育った豆を深煎りにしてある」
「いい香りだな。いただきます」
優太がブラックのまま口をつけると、力強い苦味の後にすっきりとした甘みが抜け、頭の芯がすっきりと冴え渡った。
ふと視線を前に戻すと、龍魔呂がカウンターの隅からガラス瓶を取り出していた。
中に入っているのは、白くて四角い角砂糖の山。
龍魔呂はその角砂糖を二粒指先で摘み上げると、湯気立つコーヒーには目もくれず、そのまま自らの口の中へ放り込んだ。
ボリッ、ボリボリッ……。
奥歯で容赦なく砕かれる、なんとも乾いた小気味いい破砕音。
龍魔呂は無表情のまま咀嚼し、喉を鳴らして飲み干すと、ブラックのコーヒーをぐいと煽った。
「……龍魔呂」
「なんだ」
「それ、コーヒーに入れるための砂糖じゃないのか?」
「甘ったるい液体を飲む趣味はねぇ。だが、脳に即効性のあるブドウ糖は必要だ。噛み砕くのが一番手っ取り早い」
「合理的すぎて何も言えねぇよ……」
優太が思わず苦笑すると、龍魔呂はカウンターに両肘をつき、煙草盆から赤箱の紙巻タバコを取り出した。優太もまた、パーカーのポケットから無添加の青い紙巻タバコを咥える。
カチッ、シュポッ、と真鍮ライターの静かな火が灯り、二つの紫煙がチェロの音色の中へと溶けていった。
「で、優太。この村を見て、どう思った?」
「どう思ったって……さっきも言ったが、農村にしては異常すぎる。対空機関砲に指向性地雷、コンビニにホームセンター。一体どういうパワーバランスで成り立ってるんだ?」
「話せば長くなるが……一言で言えば、この村の行政は今、完全に『破綻』してる」
龍魔呂は煙を天井へ吐き出しながら、冷めた目で淡々と語り始めた。
「つい先月まで、この村にはロップっていう七十歳の村長がいたんだ。ところがそのジジイ、隣町の親善ゲートボール大会に出場した際、対戦相手の富裕な魔族貴婦人──妖艶な未亡人と電撃的に恋に落ちやがった」
「……ゲートボールで熟年恋愛か。平和で結構なことじゃないか」
「問題はその先だ。ジジイは村の金庫を丸ごと解約して、数千万円相当の積立金全額を懐にねじ込んだ。新聞記者が嗅ぎつけて突撃取材に来た時、ジジイは明後日の空を見上げて口笛を吹きながら『ピピ〜ピピピ〜♪ ワシは知らん、何も知らんよ〜』とシラを切り通し、そのわずか三時間後には魔導飛行船のファーストクラスで未亡人と雲の上へ高飛びした。いわゆる『高飛びラビリンス事件』だ」
優太は咥えていたタバコを取り落としそうになった。
「横領逃亡かよ! 最悪だな!」
「ああ、最悪だ。しかも着服された金の中には、この村特有の悪魔の治安システム──『暴行しない券』の積立金が含まれてた」
「……なんだその不穏すぎる名前の券は」
「緩衝地帯の山賊や強盗団が各家庭を回って売りつける、みかじめ料のサブスクリプションだ。『今月この券を買えば、ウチの組はアンタの家を襲わない』っていう定額プランだな。家族四人以上なら二十パーセント引きの家族割、十八歳未満ならカツアゲ免除の学割まで完備されてた」
「ヤクザの福利厚生が手厚すぎるだろ! 行政が機能してないにも程があるぞ!」
「その金を村長が全額持って逃げたせいで、山賊への支払いがストップした。さっきお前が助けたガキを襲ってた連中も、そのみかじめ料の徴収が滞った腹いせに略奪へ走った三流の野盗だ」
龍魔呂の双眸の奥に、わずかに冷たい光が走る。
子供を食い物にする外道への怒り。だが、彼が暴発しないのは、優太がその暴力を先回りして無力化し、子供の日常を守り抜いたからだった。
「今はどうやって村を維持してるんだ?」
「流れの冒険者だった月兎族の娘──キャルルが、担ぎ上げられて第43代村長をやってる。あと、元帝国辺境騎士団長でケンタウロスの自警団長マンミア、それから人狼の筆頭執事と猫耳の銀行屋が、なんとか村を回してる状態だ」
「……癖の強い連中しかいないな」
「お前もその仲間入りだ、優太」
龍魔呂がニヤリと口角を上げた。
「この村にはまともな医者がいねぇ。あの手際のいい外傷外科の腕前があれば、引っ張りだこだぞ。うちの二階、部屋が空いてる。診療所代わりに使って構わねぇよ」
「いいのか? 家賃は払えないぞ。着の身着のままで転移してきたからな」
「金はいらねぇ。……食い終わった皿を洗え。それでチャラだ」
龍魔呂が顎でシンクを指す。
優太は目を丸くした後、肩をすくめて立ち上がった。
「皿洗いか。悪くない取引だ」
優太が袖をまくり、スポンジを手に取ってカウンターの皿を洗い始めた瞬間──。
【日常の労働(皿洗い)を感知】
【善行ポイント:+1P獲得(累計1,251P)】
頭の中に、確かな通知音が鳴り響いた。
派手な人助けだけじゃない。日常の泥臭い労働、誰かの役に立つ小さな積み重ね。そのすべてが、この世界で生きていくための力に変わる。
「よし……まずはこの村の溝掃除でも探すとするか」
「やめとけ。ポポロ村の側溝には、喋るニンニクや酒に酔った狼が詰まってて掃除どころじゃねぇぞ」
紫煙の漂う『鬼龍』の店内に、二人の小さく笑い合う声が響いた。
しかし、そんな穏やかな午後は長くは続かない。
村の行政崩壊を嗅ぎつけた大国の黒い影が、すぐそこまで迫っていた。
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