EP 2
真鍮ライターの着火音と、死を呼ぶ四番
地平線を震わせる咆哮は、秒を追うごとにその密度を増していた。
乾いた赤土を巻き上げ、大気を暴力的に切り裂いて突進してくる黒い塊。
それは中世風の石造りや木造が点在するこの大陸の景観には到底そぐわない、極めて高精度な工業の結晶──大排気量Vツインエンジンを剥き出しにした、漆黒の大型アドベンチャーバイクだった。
キュルルルッ、とブロックパターンのオフロードタイヤが土煙を豪快に跳ね上げ、街道の脇へ制動をかける。
アイドリングの低音が腹の底へずしりと響く中、車体から一人の男が静かに足を下ろした。
「……デカいな」
中村優太は治療を終えたばかりの少年を背にかばい、身構えながら男を観察した。
身長は優に百九十センチ、体重は八十四キロ前後。
身にまとっているのは、黒をベースに深紅の差し色が施された特注のレザージャケットと、無骨な黒革のパンツ、そして頑強なエンジニアブーツ。胸元にはワインレッドのタートルネックが覗き、左手首には時を経て鈍い黄金色の光沢を帯びた、ブロンズケースの機械式ダイバーズウォッチが巻かれていた。
短く刈り込まれた黒髪に、彫りの深い鋼のような横顔。一切の贅肉を削ぎ落とした肉体からは、百戦錬磨の武闘家特有の、沈黙した威圧感が濃密に立ち込めている。
だが、優太が何よりも戦慄したのは、男の両目に宿る“色”だった。
光を吸い込んで一切反射しない、漆黒の底なし沼。
それはかつて優太が米国の教官から聞かされた、地獄の底を素手で這いずり回り、自らの命すら駒として擦り潰してきた本物の殺人機械──伝説の処刑人「死を呼ぶ四番(DEATH4)」のそれだった。
男の視線が、地面に転がって呻き声を上げる三人の野盗へと向けられる。
大気が一瞬で氷点下まで凍りついたかのような錯覚。
男の右手がジャケットの内ポケットへと滑り込み、重厚な金属の塊を取り出した。
使い込まれた真鍮製のオイルライター。
親指が跳ね上がり──。
カチッ……。
静寂の平原に、澄んだ金属の開閉音が硬質に響き渡った。
その直後、男の周囲の陽炎が赤黒く歪み、空間そのものを圧殺するような凶暴な闘気が爆縮する。
男は野盗たちの頸椎目掛けて、文字通り音もなく踏み出そうとしていた。子供を傷つけた外道を、影も残さずミンチへ変える処刑の執行。
「待て。もう終わった」
優太は咄嗟に前に出た。
逃げず、怯えず、だが明確な制止の意志を込めて、男と野盗の射線上に割り込む。
「そいつらはすでに骨折と脳震盪で無力化してある。この子の止血も完全に済んだ。……これ以上の暴力は、戦術的にも医療的にも無駄だ」
男の動きが、ピタリと静止した。
底なしの闇を湛えた双眸が、優太の顔を、そして優太の背後でちょこんと座り込んでいる獣耳の少年へと移る。
少年の太ももには、軍用の滅菌包帯と高機能止血ガーゼが狂いなく巻かれ、出血は一滴も漏れ出していない。点滴チューブが腕に固定され、顔色にはすでに血色が戻っていた。
何より少年は、優太から貰った高カカオチョコレートを両手で大事そうに口へ運び、口元を緩めて小さく笑っていた。
「……泣いて、ねぇな」
低く、地響きのように重い声が漏れた。
男の瞳の奥にあった底なしの暗黒が、潮が引くようにスッと薄れていく。
張り詰めていた殺気が完全に霧散し、大気に吹き抜ける風が元の穏やかさを取り戻した。
男は手にしていた真鍮ライターをポケットへ戻すと、反対側のポケットから白くて四角い塊──角砂糖を二粒取り出した。
それを迷うことなく口へ放り込むと、奥歯で豪快に砕いた。
ボリッ、ボリボリッ。
静かな平原に響く、なんとも小気味のいい破砕音。
先ほどまでの絶対的な死神の気配はどこへやら、男はひどく人間臭い、気だるげな表情で溜息を吐き出した。
「子供の泣き声が聞こえた気がして、すっ飛ばしてきたんだが……余計なお世話だったらしいな」
「いや、助けに来てくれたんだろ。ありがたいよ。俺は中村優太。……見ての通り、ただの医学生だ」
「ただの医学生が、三人相手に合気とシステマを使い分けるかよ」
男は口元をわずかに歪め、自嘲気味に呟いた。
「俺は鬼神龍魔呂。この先のポポロ村で、小料理屋のマスターをやってる」
「鬼神……龍魔呂?」
「珍しい苗字だろ。気にすんな」
「いや、そこじゃない。……あんた、もしかして東京出身か?」
優太の問いかけに、龍魔呂の眉がわずかに跳ね上がった。
「品川だ。お前は?」
「新宿だ。……今年で二十五になる」
「奇遇だな。俺も二十五だ」
二人の視線が交錯する。
異世界の乾いた風が吹き抜ける中、奇妙な沈黙が流れた。だがそれは、互いの間合いを測るような警戒の沈黙ではない。同じ泥水をすすり、同じ街の空気を吸い、そして理不尽な運命によってこの大陸へ投げ出された者同士にしか分からない、無言の交歓だった。
「……一本、いくか?」
龍魔呂がレザージャケットの内側から、使い古された赤箱の無骨な紙巻タバコを取り出した。
優太はフッと息を漏らし、自らのジップアップパーカーのポケットを叩く。
「悪いな、自分のがある」
優太が取り出したのは、無添加の青い紙巻タバコ。
それぞれが一本を口元に咥える。
優太はサイドポケットから防水ケース入りの軍用マッチを抜き、擦り板へ走らせた。シュパッ、と硫黄の赤い炎が立ち上り、青いタバコの先端を赤く染める。
同時に、龍魔呂が真鍮製ライターを親指で弾いた。
シュポッ。
今度は殺気のない、ただ静かな黄色のオイル炎が灯り、赤箱のタバコに火が移る。
二つの紫煙が、マンルシア大陸の澄み渡る蒼穹へと吸い込まれていった。
「……悪くないタバコだ」
「無添加だからな。肺に重いが、頭は冴える」
優太が煙を吐き出しながら言うと、龍魔呂はふっと目を細めて、転がっている野盗たちに視線を落とした。
「このゴミ共、どうする? 首を撥ねて道端の肥やしにしても、この大陸じゃ誰も文句は言わねぇが」
「だめだ。目の前で殺しを見せたら、あの子の傷の手当てが無駄になる」
優太は迷いなく首を振った。
「命を救うために泥を払うのは大人の役目だが、子供にその泥を食わせる必要はない。……それに、生かして村へ突き出した方が、背後の組織や情報を引き出せる。処刑するにしても、然るべき筋を通すべきだ」
龍魔呂はタバコを咥えたまま、じっと優太を見つめた。
その言葉の奥にある、一切のブレがない倫理観。打算も保身もなく、ただ純粋に「子供の日常」を守ろうとする強い覚悟。
「……気に入った」
龍魔呂は短く呟き、紫煙を吹き消した。
「お前のその甘っちょろい綺麗事、嫌いじゃねぇよ」
「綺麗事を通すために、知恵と準備と悪知恵があるんだよ。……一人で無双する気はない。手伝ってくれるか?」
「飯のタネを運んできてくれた客人を、野垂れ死にさせる趣味はねぇな」
龍魔呂はバイクのリアキャリアから頑丈な牽引ロープを放り投げ、野盗たちの手首をプロの手際で縛り上げていった。抵抗する気力すら残っていない男たちは、ただ震えながら大地に転がされる。
「そのガキは、ポポロ村の住民だ。村まで運ぶぞ。俺のバイクの後ろに乗れ」
「助かる。少年の点滴を固定しながら同乗する」
優太は少年を抱き上げ、安心させるようにその頭を撫でた。少年はこくりと頷き、優太の胸元にしっかりと掴まる。
ドッドッドッドッ……!
再び火が入った大排気量エンジンの咆哮が、大平原に力強く鳴り響いた。
バイクに跨がる二人の背中には、それぞれが背負う過去の重みと、決して譲れない魂の芯が宿っていた。
「おい、優太」
「なんだ?」
「村に着いたら、うちの店に寄れ。……出汁の効いた温かいもんでも食わせてやる」
「それはありがたいな。楽しみにしとくよ、相棒」
漆黒のマシンは土煙を上げ、高原の彼方──大陸一危険で、最も騒がしい限界集落「ポポロ村」を目指して加速していった。
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