第一章 戦術医と死を呼ぶ料理人〜限界集落ポポロ村の悪党処刑カルテ〜
異世界の緩衝地帯と、善行ガチャの戦術医
肺腑を突く大気の匂いが、東京のそれとは決定的に異なっていた。
アスファルトの照り返しや排気ガスの微粒子ではなく、幾重にも重なる青草の青臭さと、遠くの火山から微かに運ばれてくる硫黄の混じった澄んだ冷気。どこまでも広がる抜けるような青空の下、風が波打つ大平原を吹き抜けていく。
「……なるほど。これが話に聞く、異世界転移ってやつか」
中村優太は、息を深く吐き出しながら自身の両手を見つめた。
二十五歳、防衛医科大学校の学生。身長百八十二センチ、体重七十四キロ。身にまとっているのは、見慣れた動きやすいグレーのジップアップパーカーに色落ちしたジーンズ、そして履き古したスニーカーという現代日本のラフな格好のままだ。
左手首には、秒単位の脈拍測定にも耐えうる頑丈な耐衝撃デジタルウォッチ。背中には、日常のあらゆる危機を想定して組み上げたタクティカルリュックがしっかりと背負われていた。
彼が置かれた状況を説明するかのように、視界の隅に半透明の光文字が浮かび上がっていた。
【固有権能:善行システム&地球ガチャ】
【現在保有善行ポイント:100P】
【詳細規程:
日常の良き行い、労働、人助けにより善行ポイント(GP)が蓄積されます。
・皿洗い:1P〜
・溝掃除:50P〜
・害獣・魔物退治:100P〜
・人助け(軽度):100P〜
・人助け(重度):1,000P〜
・人助け(重大):5,000P〜
・地域・社会的貢献:5,000P〜
※自作自演、故意による危機の誘発は即時ペナルティ・スキル停止となります。
1回100Pを消費することで『地球ガチャ』を実行可能。使用者の運命力、打算なき勇気、他者を護る覚悟に応じて排出等級が変動します】
「マッチポンプは厳禁、か。至極真っ当だな」
優太は独り言ちて、薄く唇を綻ばせた。
かつて渡米した際、元特殊部隊の教官から叩き込まれた言葉がある。
『兵士は市民に地獄を見せないために、自ら地獄の中に浸かって泥を払うのが役目だ。打算で引き金を引く奴から先に死ぬ』
その教えは、医を志す優太の倫理観とも深く共鳴していた。困っている者を救うのに損得勘定など持ち込まない。ただ目の前の命を拾い上げ、日常へ還すこと。それが彼の絶対的な信条だった。
優太はリュックのサイドポケットを探り、無添加の青い紙巻タバコを一本咥えた。風を手のひらで遮り、軍用マッチを擦って火を灯す。紫煙を肺腑に満たし、ゆっくりと空へ吐き出すと、思考が冷徹なまでに研ぎ澄まされていった。
──その静寂を、切り裂くような金属音と悲鳴が破った。
「ひっ、助けてっ……!」
「逃げられると思ってんのかガキが! その服の銀ボタンだけでも街じゃいい値になるんだよ!」
乾いた街道の先、数百メートルほどの雑木林の縁から、複数の下卑た怒声と子どもの泣き叫ぶ声が響いてきた。
優太は咥えていたタバコを携帯灰皿へ瞬時に押し込み、リュックのチェストストラップを締め直した。耐衝撃ウォッチのベゼルを回転させ、即座に現場へと駆ける。足音を極限まで殺し、起伏を利用して死角から接近する動きは、軍事教練を受けた者のそれだった。
視界が開けた先、血生臭い光景が広がっていた。
粗悪な革鎧をまとい、錆びた山刀を手にした三人の野盗。その足元には、頭部に小さな丸い獣耳を生やした十歳前後の少年が倒れ伏していた。
少年の右太ももには、刃物で切り裂かれた深い裂傷が刻まれている。鮮紅色の血液が拍動に合わせて間欠的に噴出していた。
(大腿動脈の損傷疑い。出血性ショックまで猶予は三分もない)
優太の脳内にある『TCCC(戦術的戦傷救護)ガイドライン』のアルゴリズムが、冷徹にカウントダウンを開始した。
敵は三人、刃物所持。こちらは一人。
『一人で無双は禁止』──それが優太の戦術原則だった。だが、仲間がいないこの極限状況において、目の前の命を見捨てる選択肢など毛頭存在しない。打算なく、恐怖を排し、ただ純粋な救命の意志が彼の体幹を鋼のように安定させた。
「おい、その汚いナタを引け」
静かだが、野盗たちの鼓膜を震わせる通る声が響いた。
野盗の頭目が驚いて振り返る。
「あァ? なんだてめぇは。変な服着やがって……旅行者か? 余計な首突っ込んでんじゃねえぞ!」
「警告は一度だけだ。その子の止血処置が必要だ。退かないなら、戦術的無力化に移行する」
「ほざけ、ガキがァ!」
先頭の男が山刀を大上段に振り上げ、間合いを一気に詰めてきた。
優太の呼吸は乱れない。彼が修めた武術は、八つの実戦流派を現代戦術に統合した『無双薙刀流』。
男の踏み込みに対し、優太は一歩も引かず、むしろ前へと滑り込んだ。八極拳の『頂肘』にシステマの脱力と運動量転換を乗せ、男の右腕の振り下ろしを掌底で受け流す。激突の瞬間、合気の手首返しで男の重心を崩し、柄頭を顎先へと最短距離で叩き込んだ。
ゴッ、と鈍い骨伝導音が響く。
男は白目を剥き、山刀を取り落として膝から崩れ落ちた。
「なッ……!? てめぇ、何やりやがった!」
残る二人が色めき立ち、左右から挟撃の態勢を取る。
優太は腰のベルトから、特注の『折りたたみ式ワスプ薙刀』を抜き放った。カチリ、と強固なロック音が響き、黒染めの頑強なシャフトが伸びる。刃先は高圧ガス噴射機構の理論を組み込んだ特殊鋼。
「二人同時に来るなら、重心の低い方から崩す」
優太は薙刀の石突を鋭く突き出し、左の男の膝蓋骨を的確に強打した。悲鳴を上げて姿勢を崩した男の頸動脈へ、流れるような薙ぎ払いで峰打ちを食らわせる。残る一人が背後から刃を突き出してきたが、優太はすでにその軌道を見切っていた。ブラジリアン柔術の体捌きで懐へ潜り込み、大東流合気の『四方投げ』の要領で男の腕を極め、地面の岩へと叩きつけた。
わずか十数秒。
三人の野盗は、骨折と脳震盪により完全に戦闘能力を喪失し、大地に呻き声を響かせるのみとなった。
【ログ:悪党の無力化および人命防衛を感知】
【善行ポイント:+150P獲得(累計250P)】
機械的な通知が視界に流れたが、優太の関心はすでにそこにはなかった。
彼は薙刀を素早く畳んで背中に収めると、少年の傍らへ膝をついた。
「しっかりしろ、もう大丈夫だ」
「う……あ……あしが……あつい……」
少年の顔色は蒼白を通り越し、唇は紫色に変色し始めている。脈拍は微弱かつ頻脈、冷汗が額を覆っていた。
大腿部の創傷は深く、動脈からの出血が止まっていない。リュックから自前の止血帯を取り出し、大腿部近位に巻いて締め上げるが、損傷部位が関節に近く、通常の圧迫固定だけでは止血が極めて困難だった。より高密度の止血ガーゼと、血管を直接確保するためのサージカルクランプ、そして急速輸液が必要だった。
(手持ちの装備じゃ、病院までの搬送持続時間を稼ぎきれない……!)
思考が火花を散らす中、優太の視界に『地球ガチャ』のアイコンが明滅した。
1回100P。
何が出るかは分からない。だが、この少年の命をここで終わらせるわけにはいかない。見返りも、神の評価も関係ない。ただ純粋に、この小さな鼓動を繋ぎ止めるという強い覚悟が、優太の胸の底から湧き上がった。
「頼む……この子の命を救えるものを寄越せ!」
【100Pを消費:地球ガチャを実行】
【使用者の運命力、打算なき献身を感知──特殊判定成功】
【排出等級:SSR(戦術医療キット・完全仕様)】
空間が淡く歪み、優太の目の前に頑強なミリタリーグリーンのハードケースが出現した。
バックルを跳ね上げて開くと、そこには軍用規格の生体溶解性高機能止血ガーゼ、血管鉗子、局所麻酔薬、減圧針、そして浸透圧調整済みの高機能代用血漿輸液パックが完璧に整頓されて収まっていた。
「上等だ……! 医療行為を開始する!」
優太は滅菌手袋を素早く装着し、躊躇なく処置に入った。
傷口を清潔な生理食塩水で洗浄し、露出した動脈の断端を血管鉗子で的確に把持。高機能止血ガーゼを創腔内へ隙間なくパッキングし、強い持続圧迫を加える。同時に、少年の腕の静脈へ針を通し、急速輸液のルートを確保した。
一秒の狂いもない、戦場外科の神業。
優太の額から大粒の汗が滴り落ちたが、その手元はミリ単位で一切ブレることはなかった。
数分後──。
間欠的な出血が完全に停止し、少年の荒かった呼吸が次第に穏やかな寝息へと変わっていった。失われていた脈拍に確かな力強さが戻り、頬にわずかな赤みが差す。
「……ふぅ。初期蘇生、完了」
優太は手袋を外し、深く息を吐き出した。
少年がうっすらと瞼を開き、潤んだ瞳で優太を見上げる。
「おにいちゃん……ぼく……しぬの……?」
「死なないよ。傷は全部塞いだし、血も止まった。君は助かったんだ」
優太は穏やかな笑顔を浮かべ、リュックから取り出した高カカオチョコレートの包みを小さく割り、少年の口元へ運んでやった。
「口の中でゆっくり溶かしてごらん。体温を上げて、頭をスッキリさせてくれる特効薬だ」
「……ん……あまい……おいしい……」
少年の顔に、安堵の涙と共にかすかな笑顔が広がった。
【重大な人命救助を達成:善行ポイント+1,000P獲得(累計1,150P)】
頭蓋内に響くアナウンスを背に、優太は少年の頭を優しく撫でた。
しかし、戦術医としての警戒心が、大気の微かな振動を捉えていた。
──ズゥゥゥン……ドッドッドッドッ……!
遠くの地平線から、大地を揺るがすような腹に響く重低音が近づいてくる。
それは魔獣の足音ではない。
大排気量のピストンがガソリンを爆縮させ、大気を震わせる──漆黒の大型アドベンチャーバイクのエキゾーストノートだった。
巻き上がる土煙の向こうから、常人を遥かに凌駕する巨大な体躯の影が、凄まじい威圧感と共にこちらへと直進してくる。
(……何者だ?)
優太は少年を背中に庇い、静かに立ち上がってその影を見据えた。
運命の歯車が、この瞬間、音を立てて噛み合い始めていた。
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