EP 9
満月の惨劇『熱血全回復カチコミ事件』勃発!
夜空の穹頂に、一切の欠けのない完全なる白銀の円盤が昇り詰めていた。
マンルシア大陸の中央高原を照らす月光は、普段の柔らかな光とは決定的に異なり、大気中の魔力粒子を激しく励起させ、青白い燐光となって大地を隈なく濡らしている。
街道沿いに佇む小料理・BAR『鬼龍』の店内には、ショパンの『夜想曲 第20番 嬰ハ短調 遺作』が、薄暗い間接照明の下で物悲しく響いていた。
カウンターの中央で、中村優太は重厚なロックグラスの丸氷を指先で弄んでいた。
注がれているのは、火山灰土の清冽な湧き水で仕込まれた村の地ウイスキー『サケスキー』。
左手首の耐衝撃デジタルウォッチの液晶画面が、青白い月光を受けて冷たく発光している。午後十時四十五分。気圧は急激に上昇し、大気中の生体電位がピリピリと肌を刺していた。
「……妙だな、龍魔呂。今夜は外の虫の声が一切聞こえない。風も止まっている」
「満月だからな」
バーテンダー用の黒いベストをまとった巨漢・鬼神龍魔呂が、氷を削るアイスピックの手を止めずに低く応じた。
削り落とされた純氷の破片が、カランと小気味いい音を立てる。
龍魔呂は棚のガラス瓶から角砂糖を二粒摘み上げると、自らの口の中へ放り込んだ。
ボリッ、ボリボリッ……。
夜のノクターンに紛れる乾いた破砕音。
角砂糖を奥歯で噛み砕いて嚥下した龍魔呂は、真鍮製のオイルライターを取り出し、親指で弾いた。
カチッ……シュポッ。
澄んだ開閉音と共に静かな黄色のオイル炎が灯り、赤箱の無骨な紙巻タバコに火が移る。
紫煙を天井へと燻らせながら、龍魔呂の漆黒の双眸が、村長公邸の方角の空を睨みつけた。
「来るぞ、優太。……月兎族の血が、天災のスイッチを押しやがった」
──ドォォォォォォォォンッッッ!!!!
龍魔呂の呟きと完全に同時に、大地を震動させる凄まじい衝撃波が村の中央広場から炸裂した。
音速の壁が破られた瞬間に生じる強烈なソニックブーム。『鬼龍』の厚いガラス窓がビリビリと激しく軋み、カウンターのグラスが震える。
「アハハハハッ! 月が綺麗! 世界が輝いてるぅぅッ!! 命が、魂が燃え滾ってるよぉぉぉおおッッ!!」
夜天をつんざく、突き抜けるような超絶ハイテンションの絶叫。
村長公邸の頑強な屋根瓦を粉々に吹き飛ばし、夜空へと垂直に撃ち上がった影があった。
第43代ポポロ村長、キャルル・ムーンハート──。
普段の快活で気配り上手な名村長の面影は、影も形もない。
頭部の長い白い兎耳は黄金の神気を帯びてピンと逆立ち、大きな紅い瞳はリミッターが完全に焼き切れた爛々たる光を放っている。
カーキ色の作業着の袖を千切り捨て、足元には『タローマン』特注の超高張力安全靴。その両手には、月光の魔導を極限まで圧縮した木製ダブルトンファーが、唸りを上げて青白く発光していた。
「今夜は全人類の根性を叩き直す夜だよぉぉッ! 病気も怪我もたるんだ根性も、全部私がまとめて叩き潰して全回復させてあげるぅぅぅッ!!」
ズッシャァァァァァンッッ!!
キャルルが空中で踵を返した瞬間、大気中に巨大な円形の衝撃波が発生した。
マッハ1──音速の壁を軽々と突破した白銀の流星が、ポポロ村の境界線を飛び越え、街道の彼方へと消え去っていく。
「……出撃を確認いたしました」
引き戸がスッと開かれ、漆黒の燕尾服を寸分の乱れもなく着こなした人狼執事リバロンが、音もなく店内にエントリーしてきた。
その手には軍用の長距離暗視双眼鏡と、分厚い革表紙の手帳、そして黒檀の万年筆が握られている。
「優太殿、龍魔呂殿。満月の惨劇『熱血全回復カチコミ事件』の幕開けでございます。……第一波の目標は、南西三十キロ、ルナミス帝国国境直轄『聖ルキア総合大病院』の入院病棟と推定されます」
「総合病院だと……!? なんで病院にカチコミをかけるんだ!?」
優太が飛び起きると、リバロンは片眼鏡の奥の瞳をすっと細め、淡々と万年筆を走らせながら答えた。
「我が主は満月の神気により、治癒能力と破壊衝動が同時に極限突破いたします。重症患者を見過ごすことができず、病魔そのものを『敵』と認識して、音速で病棟へ突入して強制的に完全回復させて回るのです」
「医療行為としては素晴らしいが……突入の仕方が完全に重犯罪テロじゃないか!」
「ええ。ゆえに手帳へ『突入に伴う窓ガラスおよび防壁の損壊補償金』の試算式を記入しているところでございます」
「呑気に計算してる場合か! 追うぞ、龍魔呂!」
「あいよ」
龍魔呂がタバコを灰皿へ押し込み、店の裏手から漆黒の大型アドベンチャーバイクを引き出してきた。
大排気量Vツインエンジンがドッドッドッと腹に響く重低音を響かせ、優太とリバロンを乗せて夜の街道へと弾丸のように飛び出した。
二十分後──ルナミス帝国国境直轄『聖ルキア総合大病院』。
石造りの巨大な白亜の医療施設は、すでに「巨大な破城槌に正面玄関をぶち破られた要塞」のような無残な惨状を呈していた。
防犯用の鉄格子は外側から飴細工のようにへし曲げられ、吹き飛んだ大理石の扉の破片が中庭に散乱している。
病棟の内部からは、ピカピカと眩いばかりの神聖な月光のフラッシュと、キャルルの猛烈な掛け声が轟いていた。
「オラァァァッ! 寝たきりになってる場合かぁぁッ!! 背骨の複雑骨折、全回復ぅぅッ!!」
「あぎゃあぁぁぁッ!? 骨が……骨が激痛と共に一瞬でガチガチに繋がったぁぁッ!?」
「そこの末期魔力枯渇症! 死んだ魚のような目をしてるんじゃないよぉッ! 満月超魔力チャージ、強制フル注入ぅぅッ!!」
「うおおおっ!? 魔力炉がオーバーヒートして全身の毛穴から蒸気が出るぅぅッ!! 走れる! 俺は走れるぞぉぉッ!!」
ドガァンッ! バギィィンッ! ピカーーーッッ!!
木製ダブルトンファーが病室の壁を破砕する音と、神聖治癒魔法の炸裂音。
優太たちが院内へ駆け込んだ瞬間、目の前を通り過ぎていったのは、ギプスを自ら素手で叩き割り、パジャマ姿のまま筋骨隆々の肉体で中庭を雄叫びを上げて全力疾走していく元重症患者たちの群れだった。
「す、すげぇ……! 三人部屋も集中治療室も、全員一瞬で完治して退院していく……!」
優太は戦術医としての観察眼で舌を巻いた。
外傷性ショック、内臓不全、難治性感染症──地球の現代医学でも数ヶ月の入院を要する重篤な病巣が、キャルルの圧倒的な満月神気によって細胞レベルで完全消滅していた。
だが、その奇跡の光景の傍らで、白衣を着た病院長と主任医師たちが、頭を抱えて石畳の上に泡を吹いて卒倒していた。
「お、終わりだ……。今月の入院患者三百名が……全員一晩で全快して帰ってしまった……」
「ベッド稼働率ゼロ……長期入院患者の差額ベッド代も、高額魔導治療薬の処方箋料も……全部消滅した……」
「病院が……今月で倒産してしまうぅぅぅッ!!」
経営破綻の恐怖に泣き叫ぶ医師たち。
そこへ、燕尾服姿のリバロンが音もなく進み出た。
懐から取り出した最高級の封蝋付き書状を、卒倒する院長の胸ポケットへと優雅に差し込む。
「ご安心を、院長殿。ポポロ村役場より『緊急外郭医療救護に対する包括的包括請求書、ならびに施設損壊に伴う債務相殺契約書』でございます」
「へ……? せ、請求書……?」
「ええ。患者三百名の命を瞬時に救命した功績に基づき、貴院が帝国政府から受け取るはずであった『特別難病救済交付金』の八割を、ポポロ村の指定口座へ直接振り替える法的条項を盛り込んでおきました。倒産は免れますよ。……では、失礼」
一秒の狂いもない法務処理。
だが、安堵のため息を吐く暇はなかった。
夜空の向こう──三大国(ルナミス帝国・レオンハート王国・アバロン魔皇国)の軍事境界線に位置する『三叉峡谷合同警備要塞』の方角から、空気を焦がすような爆発音と怒号が連続して響き渡ってきたのである。
「第二波だ……! あのウサギ、今度は軍の駐留所へ突撃しやがったぞ!」
龍魔呂がバイクのアクセルを全開に捻り込んだ。
合同警備要塞の中庭は、まさに「天国と地獄が同時に反復横飛びする阿鼻叫喚の修羅場」と化していた。
「お前ら根性が足りてねぇぇぇええッッ!!」
キャルルがマッハの速度で要塞の石畳を飛び交っていた。
タローマン特注安全靴の踵が、帝国の重装甲歩兵の鋼鉄盾を粉々に蹴り砕く!
ドガァァァンッ!!
「ぎゃあぁぁぁッ! あばら骨が粉砕したぁぁッ!」
兵士が血を吐いて吹き飛んだコンマ二秒後──キャルルは即座にその兵士の胸元へ跳びつき、ダブルトンファーを交差させて至高の満月神気を叩き込んだ!
ピカーーーッッ!!
「だが命は燃やすものだよぉッ! 全回復ぅぅぅッ!!」
「ふぎゃっ!? 骨が治った! 痛みが消えて筋肉がパンプアップしたぁぁッ!?」
「治ったらまた根性を叩き直すッ! 月影流・顎砕きぃぃぃッッ!!」
ゴキィィッ!!
「あぎゃあぁぁぁッ! 顎が外れたぁぁッ!」
「はい全回復ぅぅぅッ!!」
「治ったぁぁぁッ!!」
「もう一発ぅぅぅッ!!」
殴打、粉砕、即座に全回復、そして再び殴打──。
瀕死の絶望と全開の万能感が無限ループで脳幹を直撃し、要塞の屈強な兵士たちの防衛本能と精神回路が完全に焼き切れていた。
「た、助けてくれぇぇッ! 天国と地獄のエレベーターが止まらないぃぃッ!!」
「死ぬほど痛いのに、治るたびに体が絶好調になっていくのが怖すぎるぅぅッ!!」
屈強な魔族の戦士も、レオンハートの獣人兵も、涙を流して抱き合って震えている。
「……極度の急性躁状態、および神気過剰励起に伴う大脳皮質の脱抑制だ。放っておけば、心臓麻痺を起こす前に要塞の兵士全員が重度のストックホルム症候群に陥る」
要塞の城壁の上に滑り込んだ優太は、耐衝撃ウォッチでキャルルの動作周期を計測した。
旋回速度は秒速三百メートル、トンファーの打撃間隔はコンマ零五秒。生身で突入すれば一瞬でミンチにされて全回復させられる。
「知恵と準備を総動員して、あの熱暴走を強制冷却する」
優太は意識を集中させ、視界の隅のシステムインターフェースを呼び出した。
【現在保有善行ポイント:3,857P】
目的は明白だ。暴走する村長の肉体保護、および国境兵士たちの精神的崩壊の阻止。私利私欲は微塵もない。
「頼む……超音速の機動を安全にいなし、中枢神経の興奮を一瞬で遮断する急速冷却・鎮静資材を寄越せ」
【100Pを消費:地球ガチャを実行(残余:3,757P)】
【使用者の明確な制止意志、仲間を守る強い覚悟を感知──特殊判定成功】
【排出等級:SSR(地球先端特殊部隊用・極低温瞬間吸熱フォームグレネード&超高純度生体吸収性急速睡眠ナノパッチ特化セット)】
淡い光が収束し、優太の両手に艶消しブラックの円筒形グレネードと、極小の透明パッチが出現した。
「龍魔呂、頼めるか?」
「……任せとけ」
龍魔呂がレザージャケットの肩を回し、城壁から音もなく中庭へ飛び降りた。
その背中から、天災級の赤黒い闘気が立ち上る。
「あぁん!? 新しい患者見ぃーっけぇぇぇッ!!」
キャルルが跳躍し、マッハ1のトンファー撃が龍魔呂の眉間へ向けて一直線に振り下ろされた!
だが──龍魔呂は引かない。
八極拳の『頂肘』にシステマの脱力を乗せ、鋼の左腕で音速のトンファーの軌道をミリ単位で上方へ受け流す!
キィィィィィンッッ!!
火花が夜空を焦がし、キャルルの体幹が一瞬だけ宙に浮いた。
その刹那──!
「今だ、優太!」
「ブレイクッ!!」
優太が投擲した吸熱フォームグレネードが、キャルルの足元で炸裂した!
大気中の熱量を一瞬でマイナス五十度まで奪い去る特殊ゲルが、キャルルのタローマン安全靴をふわりと包み込み、音速の推進力をゼロへと減速させる!
体勢を崩したキャルルの背後へ、優太がシステマの歩法で滑り込んだ。
大東流合気の『手鏡』でキャルルの右腕の自由を奪い、左手でナノパッチを彼女のうなじ──延髄の経穴へとピタリと貼り付けた!
「大脳辺縁系の興奮を強制遮断、メラトニン受容体の急速活性化!」
ジュワッ、とナノパッチから高純度鎮静成分が頸動脈血流へと浸透していく。
「あ……れ……? 急に……まぶたが……おも……」
キャルルの黄金の瞳から光がスッと引いていき、ピンと逆立っていた白い兎耳が、パタンと力なく垂れ下がった。
ダブルトンファーがカラリと地面に落ち、キャルルの小さな身体が脱力して優太の腕の中へと倒れ込んできた。
規則正しい、穏やかな寝息。
熱暴走は、完全に鎮静化された。
「……ふぅ。初期鎮圧、完了だ」
優太が額の汗を拭うと、中庭に倒れ伏していた数百名の三大国兵士たちが、フラフラと立ち上がった。
全員の身体からは傷一つ消え去り、かつてないほど健康的な筋肉が盛り上がっている。
兵士たちはキャルルの寝顔を見つめ、次いで優太と龍魔呂を見つめると──感極まったように一斉にその場へ跪いた!
「姐御ぉぉぉぉぉぉぉッッ!!」
「あんなに激しく殴られたのに、こんなに体が軽いなんて……! これぞ真の愛のムチだぁぁッ!」
「一生ついていきます、ポポロ村長殿ぉぉぉッ!!」
割れんばかりの崇拝の歓声。
その熱狂の中、優太の視界の隅に黄金の光文字が滑らかに流れた。
【天災的集団暴走の無傷鎮圧および国際駐留軍の完全救護を感知】
【重大な人命防衛および地域調停:善行ポイント+500P獲得】
【現在保有善行ポイント:4,257P】
西の空が、かすかに白み始めていた。
満月の狂乱の夜は終わりを告げ、ポポロ村のしたたかな朝──莫大な経済的勝利と、さらなる日常の幕開けがすぐそこまで迫っていた。
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