EP 8
マンミアの25歳未婚クライシスと、炎上トカゲのノルマ3倍地獄
秋深まる高原の朝気は、肌を刺すような冷たさを帯び始めていた。
ポポロ村の街道沿いに佇む小料理屋『鬼龍』の二階、中村優太の即席診療所では、窓ガラスの縁にうっすらと白い霜が降りている。
優太はグレーのジップアップパーカーの襟元を正し、左手首の耐衝撃デジタルウォッチを操作した。午前七時二十五分。心拍数は毎分六十八、体温三十六度五分。極めて良好なコンディションだ。
トントンと階段を降りて一階の店舗へ足を踏み入れると、静かな空間を満たしていたのは、J.S.バッハの『無伴奏チェロ組曲 第3番 ハ長調』だった。
快活でありながら、どこか求道者の厳格さを漂わせる重低音の旋律。
厨房の奥では、黒い前掛けを締めた巨漢・鬼神龍魔呂が、鏡面のように研ぎ澄まされた本焼き包丁で、透き通るような白首大根を小気味よく輪切りにしていた。寸胴からは、焼き干しと昆布の澄んだ黄金出汁の湯気が立ち上っている。
「おはよう、龍魔呂」
「……おう。朝飯だ」
カウンターに滑り出してきたのは、炊きたてのサンライスの麦飯、ネギオから譲り受けた世界樹ネギをたっぷり浮かべた熱々の味噌汁、そして香ばしく皮目を炙った秋鱒の塩焼きだった。
優太は手を合わせ、丁寧に箸を運ぶ。脂の乗った鱒の塩気と、世界樹ネギの濃厚な甘みが口蓋で溶け合い、寝起きの五臓六腑へじんわりと滋味が染み渡っていく。
綺麗に平らげると、流し台へ立ってスポンジを手に取り、手際よく器を洗い上げた。
【日常の労働(皿洗い)を感知】
【善行ポイント:+1P獲得(累計3,757P)】
「日々のルーティンこそ、有事の際の体幹を支えるな」
「相変わらず几帳面なこった」
龍魔呂が短く息を漏らし、棚のガラス瓶から取り出した角砂糖を二粒、迷いなく口の中へ放り込んだ。
ボリッ、ボリボリッ……。
小気味いい破砕音が静かな店内に響き渡る。ブラックのポポロ・コーヒーで喉を潤した龍魔呂は、赤箱の無骨な紙巻タバコを取り出し、真鍮製オイルライターを親指で弾いた。
カチッ……シュポッ。
静かな黄色の火が灯り、立ち上る紫煙を天井へと燻らせる。
優太も無添加の青い紙巻タバコに軍用マッチで火をつけ、紫煙をゆっくりと吹き出した。
「さて、今日は自警団詰所の救急薬品の棚卸しに行ってくるよ」
「自警団詰所か。……優太、胃薬と精神安定剤のストックを余分に持っていけ」
龍魔呂がタバコを挟んだ指先を見つめ、どこか遠い目をしながら忠告してきた。
「胃薬? マンミアさんか?」
「ああ。……今朝、帝国郵便の定期便が届いたんだがな。マンミアの元同期の近衛騎士共から、結婚披露宴の招待状と、生まれた赤ん坊を抱いた家族写真の絵葉書が、束になって詰所の私書箱へ投函されてやがった」
「……あ」
「臨界点突破だ。今朝のあいつは、歩く指向性対戦車地雷よりタチが悪いぞ」
優太は思わず苦笑し、リュックのサイドポケットに鎮痛消炎パッチと生薬エキスを多めに詰め込んで店を出た。
村の中央広場に面した自警団詰所の木製扉の前まで来ると、すでに内部から尋常ならざる「圧縮蒸気の排気音」が漏れ聞こえていた。
プシューーーーッ! キィィィィィィンッ!
優太が恐る恐る引き戸を開けると、詰所の執務室は極寒の気圧と焦熱の殺気が混ざり合い、凄まじい嵐のような空気が渦巻いていた。
部屋の中央に仁王立ちしていたのは、上半身は凛々しき白銀の甲冑、下半身は見事な白毛の軍馬というケンタウロスの女性騎士──自警団長マンミアだった。
背中に背負った身の丈を超える巨大杭打ち槍──パイルバンカー『アグニ』のシリンダーが赤熱化し、床の石畳を蹄で激しく踏み鳴らしている。
「なぜだ……! なぜなのだぁぁぁッ!!」
マンミアは両手に握りしめた金箔押しの手紙の束を睨みつけ、血走った瞳から大粒の悔し涙をボロボロとこぼしていた。
「帝国騎士学校の同期だったルシアが……先月、第三子を出産したと……!? 『マンミアちゃんも早く良い人見つけてね♡』だとぉぉぉッ!? さらに副団長だったカレルまで、貴族の令嬢と電撃結婚だとぉぉッ!? なぜだ! 槍の腕前も、馬術も、戦術理論も、私の方が常に首席だったはずだぞ! なぜ私には、浮いた噂どころか、夜な夜な兵舎で冷え切った蹄を手入れする日常しかないのだぁぁぁッ!!」
ドゴォォォンッ!
アグニの石突が床を強打し、石畳に派手な亀裂が走る。
机の上に置かれた日めくりカレンダーを見れば、村長キャルルの細やかな配慮によって『25日』のページは綺麗に破り捨てられ、『24日の翌日』と手書きで修正されていた。だが、同期からの手紙に並ぶ「二十代半ばの慶事」という現実の刃が、マンミアの柔らかな乙女心を容赦なく滅多刺しにしていた。
そこへ──ガラリと無邪気に扉が開かれた。
「おーっすマンミアさん! 朝の村外れのパトロール、異常なしだったぜぇ!」
入ってきたのは、タローマン特注の作業ズボンを泥だらけにした竜人の青年、イグニス・ドラグーンだった。
外の寒気に鼻を真っ赤にし、屈強な胸を張って報告しようとした、その瞬間──。
「う……うぅ……鼻の奥がムズムズする……ハッ……ハッ……」
「おい、イグニス! 待て、口を塞げ!」
優太が咄嗟に叫んだが、遅かった。
「ハックションッッ!!!!」
ゴオォォォォォォッッッ!!
竜人の強力なくしゃみと共に、喉の奥の火炎袋から超高熱の火炎ブレスが派手に暴発した。
業火は執務室の壁面を直撃し、自警団の公用掲示板、今週のパトロール報告書、そして壁に掛けられていた『冬期備品管理台帳』が一瞬にして真っ黒な消し炭へと灰燼に帰した!
室内を包み込む、焦げ臭い煙と沈黙。
「あ……」
イグニスが青ざめ、口元を両手で押さえて硬直する。
その背後で、マンミアの全身から立ち上る蒸気が、プシューからゴオオオオという怒号の重低音へと変貌した。
「き……貴様ぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」
カチャリ、ガシュゥゥン!
パイルバンカー『アグニ』の撃鉄が跳ね上がり、極太の破城杭がイグニスの眉間わずか一ミリへと突きつけられた!
「我が心の平穏を乱したばかりか、公用書類と備品台帳を炭化させただとぉぉッ!? この歩く火気厳禁トカゲめ! 木造アパートを出禁になっただけでは飽き足らず、詰所ごと灰にする気かぁぁぁッ!!」
「ひ、ヒィィィィィッ!? す、すいません! 寒暖差アレルギーです! 故意じゃないんですぅぅッ!!」
イグニスが涙目で床に平伏した、まさにその時だった。
「おや……? 朝から随分と景気の良いキャンプファイヤーでございますね」
スッ、と音もなく煙の向こうから現れたのは、仕立ての良い漆黒の燕尾服を寸分の乱れもなく着こなした人狼執事、リバロンだった。
金色の瞳に片眼鏡を光らせ、手には純白のシルクのハンカチを携えている。
その顔には、極上の紳士的な微笑みが張り付いていた。……だが、その背後に渦巻く威圧感は、氷点下の絶対零度だった。
「リ、リバロンさん……!」
イグニスの喉がヒュッと鳴る。
リバロンは優雅に燕尾服の胸ポケットへ指を滑り込ませると、一枚の薄い金属光沢を帯びた名刺をシャキリと抜き放った。
その鋼鉄すら両断する名刺の角を、平伏するイグニスの首筋の頸動脈へ、ミリ単位の狂いもなくピタリと添える。
「イグニス殿。昨夜の広場のボヤ騒ぎに続き、今朝は村の重要公文書の焼損。……私の鼻腔は、あなたが言い訳を考える際に分泌する特有の、濁った汗の匂いを正確に捉えておりますよ」
「め、滅相もございませんッ! 反省してます! 心から反省してますぅッ!」
「結構。では、行政手続きに移りましょう。消失した台帳の再発行手数料、および壁面の再塗装費用として……」
リバロンは懐から万年筆を取り出し、手帳へ流れるような筆致で数式を走らせた。
「本日の東山林における開墾作業のノルマを、通常の『三倍』に設定いたしました。日没までに巨石三十個の破砕と、水路五十メートルの掘削を完遂してください。……何か、不服でも?」
「さ……さんばいぃぃぃぃぃッ!?!? ツルハシが折れる! 俺様の筋肉が粉々になっちまうよぉぉぉッ!!」
「ご安心を。完遂できなかった場合、明日の給与からさらに二万円を天引きし、ニャングル殿の直営採石場へ無償ボランティアとして派遣する手筈も整えてありますので♡」
「行きまぁぁぁす!! 今すぐツルハシ担いで掘ってきまぁぁぁすッ!!」
イグニスは悲鳴を上げ、脱兎の勢いで詰所から飛び出し、東の山林へ向けて土煙を上げて爆走していった。
破壊魔が去り、再び静まり返った詰所執務室。
リバロンが名刺を胸元へ戻し、マンミアの前へ優雅に進み出た。
銀のトレイの上に載せられていたのは、湯気立ち上る極上のアッサムティーと、硝子皿に盛られた艶やかな焼き菓子だった。
「マンミア殿。今朝焼き上がったばかりの、糖分控えめの特製ブルーベリータルトでございます。どうぞこちらで、張り詰めたお心を休めてください」
「リ、リバロン……すまぬ……。私としたことが、取り乱して面目ない……」
マンミアはアグニの安全装置をかけ、消え入りそうな声でタルトを口に運んだ。上品な甘みと酸味が口に広がり、張り詰めていた肩の力がふっと抜ける。
そこへ、中村優太が静かに歩み寄った。
「マンミアさん、バイタルを診せてください。……深呼吸を」
優太は手袋をはめ、マンミアの手首の脈を測った。
「心拍数毎分九十五、軽度の頻脈と交感神経の過剰興奮です。社会的規範や他者のライフステージの変化に対する過剰な焦燥感──いわゆる『年齢規範性ストレス症候群』の急性エピソードですね」
「う……うむ……。医官の言う通りだ。頭では分かっているのだ……。人は人、自分は自分だと。だが、同期の家庭の温もりを目にするたび、私という存在が世界の片隅に取り残されたような、胸を締め付ける孤独が襲ってくるのだ……」
強大な戦士であるマンミアが、耳を伏せて少女のように項垂れる。
優太の瞳に、患者の心の痛みに寄り添う真摯な光が宿った。
視界の隅に、システムインターフェースを展開する。
【現在保有善行ポイント:3,757P】
目的は、村の国防を担う要人の自律神経失調の寛解、および慢性不眠と孤独感の緩和。私利私欲は微塵もない。
「頼む……精神的緊張を根本から解きほぐし、深い安心感を与える医療ケア資材を寄越せ」
【100Pを消費:地球ガチャを実行(残余:3,657P)】
【使用者の純粋な救護意志、他者の孤独を癒やす覚悟を感知──特殊判定成功】
【排出等級:SSR(天然植物由来高純度リラックスアロマ精油&超音波温熱ミストディフューザー&安眠生薬ハーブティー特化セット)】
淡い光が収束し、白磁の美しい超音波ディフューザーと、ラベンダーやカモミールを凝縮した精油ボトルが出現した。
優太は手早く水を張り、精油を数滴垂らしてスイッチを入れる。
きめ細やかな温熱ミストがふわりと立ち上り、詰所の焦げ臭さを一瞬で上書きして、森の奥深くのような安らぎに満ちた香りが部屋いっぱいに広がった。
「マンミアさん、目を閉じて、このミストをゆっくり吸い込んでください。副交感神経を優位にし、扁桃体の興奮を沈静化させる天然の芳香療法です。そして夜は、このハーブティーを温かいお湯で淹れて飲んでください。……あなたは一人ではありませんよ。この村の誰もが、あなたの実直さと強さに命を救われ、深く敬愛しているんですから」
「優太殿……」
マンミアの瞳から、今度は安堵の涙が一筋こぼれ落ちた。荒々しかった呼吸が穏やかに整い、強張っていた表情に柔らかな温もりが戻ってくる。
【自警団長の重度精神的危機の鎮静および健康維持を感知】
【村落防衛中枢の保全貢献:善行ポイント+200P獲得】
【現在保有善行ポイント:3,857P】
夜の帳が下り、満天の星が寒冷な高原の夜空に瞬く頃──。
村外れの広場、自警団詰所の裏手に張られたタローマン特注の耐火ドームテントの前には、焚き火の温かな明かりが揺れていた。
地面に座り込んでいたのは、ノルマ三倍の山林開墾を泥まみれになりながら根性で完遂し、全身の筋肉をプルプルと痙攣させているイグニスだった。
「う……腕が上がらねぇ……。ツルハシが骨身にしみるぜ……」
「よくやり遂げたな、イグニス」
蹄の音を忍ばせて歩み寄ってきたのは、甲冑を解き、厚手の毛布を肩に羽織ったマンミアだった。
その手には、タローマートの夜間半額セールで勝ち取ってきた『苺のショートケーキ』のパックが一つ握られている。
マンミアは焚き火の前に腰を下ろすと、プラスチックのナイフでケーキを真っ二つに正確に切り分け、半分を紙皿に乗せてイグニスへ差し出した。
「食え。……糖分を補給せねば、筋肉の修復が遅れるぞ」
「マンミアさん……! う、うめぇ……! 生クリームが疲れた五臓六腑に染み渡るぜ……!」
イグニスが涙を流してケーキを頬張る。
マンミアも自らの分をフォークで小さく口へ運び、夜空を見上げた。
「……おい、イグニス」
「へ? なんすか?」
「お前……今年で、いくつになった?」
「え? 俺様っすか? ……今年で、にじゅうご……」
「…………」
マンミアの瞳が、焚き火の炎を映してじっと揺れた。
「……そうか。お前も……『あの年齢』か……」
「な、なんで急にそんな湿っぽい目で見るんすか!? 背筋がゾクゾクするんすけど!」
奇妙なシスター&ブラザーの連帯感。
その焚き火の脇へ、ザッ、ザッ、と重厚な足音が近づいてきた。
「……冷えるな」
現れたのは、黒革のジャケットに身を包んだ百九十センチの巨漢──鬼神龍魔呂だった。
手には、湯気を立てる銀色の魔法瓶と、三つの陶器の湯呑み。
龍魔呂は無言のまま焚き火の横に腰を下ろすと、琥珀色の澄んだ液体──ポポロ特産の陽薬茶を湯呑みへ注ぎ、その皿の端へ、棚から持ち出してきた白くて四角い角砂糖を二粒、コトリと静かに添えてマンミアの前へ差し出した。
「飲め。……冷えた身体には、出汁と生薬の茶が一番効く」
「あ……ま、マスター……!」
マンミアの顔が、焚き火の赤さとは比べ物にならないほど、一瞬で耳の先まで真っ赤に染め上がった。
普段は処刑人のような威圧感を放ちながら、ふとした瞬間に見せる、あまりにも無自覚で不器用な男の気遣い。
マンミアは両手で震えながら湯呑みを受け取り、角砂糖を口に含んで熱い茶をすすった。
「あ……温かい……とても、温かいです……!」
「そうかい。ならいい」
龍魔呂はぶっきらぼうに応じると、自らの口へ角砂糖を放り込んだ。
ボリッ、ボリボリッ……。
小気味いい破砕音が夜の静寂に響く。
真鍮ライターを取り出し、親指で弾く。
カチッ……シュポッ。
揺らめく黄色の炎で赤箱のタバコに火を灯し、紫煙を夜空へと静かに吐き出した。
横で見守っていた優太も、無添加の青いタバコを燻らせ、穏やかな笑みを浮かべた。
だが──。
夜空を見上げた優太の視線が、東の空に浮かぶ月に留まった。
「……丸いな」
今夜の月は、ほぼ真円に近づいていた。
そして明晩──完全な真円を描くであろう『満月』の光。
遠く村長公邸の屋根の上で、可憐な白い兎耳が、夜風に吹かれてピクリと不穏に跳ね上がったのを、夜の静寂だけが確かに目撃していた。
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