EP 5
竜王の濃厚豚骨テロと、炎の家族会議
中庭に立ち込める白煙は、もはや火災報知器が鳴り響いてもおかしくないレベルに達していた。
モルタル外壁の換気扇からゴオオオと噴き出しているのは、焦がしニンニクの刺激臭と、数日間強火で煮詰め続けた魔獣の骨髄脂が放つ、暴力的で濃厚極まりない豚骨の蒸気だった。
あまりの脂分に、中庭の敷石はツルツルと滑り、頭上の物干し竿に干された洗濯物が瞬時に重油のような匂いを吸い込んでいく。
「ぐ、息が詰まる……! デュークめ、また中庭に向けて換気ダクトを全開にしおって……!」
ケンタウロスの自警団長マンミアが、白銀の甲冑の籠手で鼻を覆いながら眉をひそめた。
中村優太はタクティカルリュックから取り出した医療用マスクを素早く口元へ装着し、左手首の耐衝撃デジタルウォッチで脈拍を確認した。毎分七十二。平常心だ。
「マンミアさん、101号室の住人だな?」
「そうだ。屋台ラーメン『竜の髭』を営む頑固親父……その正体は、かつて太古の神話大戦で大地を焼き払ったとされる三巨頭の一角、竜王デュークだ。……優太殿、気をつけてくれ。あの男、仕込みの最中に邪魔をされると、神界の主神すら消し炭にする気性の持ち主だ」
マンミアの忠告を背に受け、優太はA棟101号室の鉄扉の前へと立った。
表札には、太い油性ペンで乱暴に『デューク』とだけ殴り書きされている。
──ドガァァァァンッッ!!
ノックをするよりも速く、扉の内側から鉄槌が大地を破砕するような凄まじい地鳴りが轟いた。
床板が跳ね上がり、扉の隙間からシューシューと高圧の過熱蒸気が漏れ出す。
「スープの濃度が足りん!! ゲンコツの叩き割りが甘いんじゃあぁぁッ!!」
優太は迷いなくドアノブを回し、白煙の渦巻く室内へと足を踏み入れた。
六畳一間の土間と化した部屋の中央には、ドラム缶ほどもある特注のミスリル製寸胴鍋が二基、赤々と滾りながら鎮座していた。
鍋の下にガスコンロなどない。
上半身裸にねじり鉢巻き、油染みのついた黒い前掛けを巻いた身長二メートル超の巨漢──竜王デュークが、鍋底に向けて直接、喉の奥から真紅の『炎熱ブレス』をゴォォォと極限まで絞り込んで放射していた。
その筋骨隆々の背中には、黒光りする頑強な竜鱗と巨大な角。右手には、身の丈ほどもある超重量級の鉄製スレッジハンマーが握られている。
ドゴォォォッ!!
デュークはまな板の上に置かれた大人の胴体ほどもある『ロックバイソンの大腿骨』へ向けて、ハンマーを容赦なく叩き落とした。骨髄が飛び散り、粉砕された骨が真っ白に泡立つ寸胴へと放り込まれる。
「血抜きに丸二日、骨の破砕に半日……まだだ、まだ豚骨の髄液が乳化しきっておらん! 我が求める究極の『ドロ系極濃豚骨』には、あと三千度の火力と三時間の撹拌が必要じゃあぁぁッ!!」
「親父ぃぃぃぃぃッッ!! いい加減にしろって言ってんだろぉがぁぁぁッッ!!」
ズッシャァァァンッ!!
天井の薄いベニヤ板が激しく踏み抜かれそうな勢いで、二階から怒号が降ってきた。
外階段を駆け下り、101号室のドアを蹴破らんばかりに飛び込んできたのは、赤髪を短く逆立てた屈強な青年だった。
身にまとっているのは、ススと鉄粉で汚れた作業用革エプロン。背中には、灼熱の魔力を帯びた巨大な鍛造槌を背負っている。
A棟201号室の住人──半神の鍛冶青年ヒエンだった。
「昼間からアパート全体を豚骨の燻製部屋にしてんじゃねぇよ! 俺が今朝干したばっかりの作業着が、全部お前の油ギトギトスープの匂い吸い込んで台無しなんだよ!!」
「黙れヒエン!! 我が至高のスープの仕込みを邪魔する者は、実の息子であっても容赦はせんぞ! 貴様の鍛冶仕事の槌音こそ、繊細なスープの対流を乱す雑音じゃ!」
「繊細なスープだと!? ドラム缶みたいな寸胴をブレスで直火焚きしてる怪獣がどの口で言ってんだ! 換気扇のフィルターくらいタローマートで買ってこいクソ親父!!」
火花を散らす父と息子の睨み合い。
竜の咆哮と半神の闘気が激突し、六畳間の窓ガラスがビリビリと悲鳴を上げる。
だが──その極限の修羅場を、さらなる「天災」が一瞬で叩き潰した。
「やかましいんじゃあぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!!」
ドォォォォォンッッ!!
中庭を挟んだ向かいの女子棟──B棟101号室の窓が粉々に吹き飛び、紅蓮の劫火を翼のように広げた影が、マッハの速度で突進してきた。
土間に着地したのは、ボサボサに乱れた長い赤髪に、色褪せた割烹着を羽織った絶世の美女──世界調停者にしてヒエンの実母、不死鳥フレアだった。
その瞳は完全に血走り、目の下には絶望的な漆黒の隈が刻まれている。手には研ぎ澄まされた菜切り包丁がギラリと握りしめられていた。
「太郎ぉおお! 寝かせてぇええッ!!」
フレアは包丁の切っ先をデュークの鼻先一ミリへと突きつけ、喉が千切れんばかりの絶叫を叩きつけた。
「誰のせいで今週の睡眠時間が合計四時間だと思ってんのよ! 夜中に骨を叩き割る『ゴッ! ガガッ!』って音のせいで、ウトウトするたびに心臓が跳ね上がるのよ! 大陸全土の魔獣間引きと、未踏ダンジョンのヤクザ神への差し入れ業務で過労死寸前なの! その上、ヒエンの夕飯の支度までワンオペで背負わされてんのよ! この穀潰しのトカゲ親父ぃぃぃッッ!!」
「ぬ、ぬぅ……! フレア、貴様、我の崇高なるラーメン道を穀潰しとは何事か!」
「うるさい! 崇高なラーメンで一銭でもアパートの家賃を払ったことがあるの!? 毎月毎月、タローソンの廃棄弁当を漁ってるトカゲ配達員に変装してタダ飯食わせてもらってるくせに、偉そうな口利くんじゃないわよ!!」
「ぐっ……な、なぜそれを知っておる……!」
最強の竜王が、妻の正論マシンガンを浴びて一歩後ずさった。
ヒエンも母親の鬼気迫る形相に気圧され、鍛造槌を背中に隠して小さくなっている。
「……あの、失礼します」
その殺伐とした修羅場の中央へ、静かに足を踏み入れたのは中村優太だった。
優太は荒れ狂うフレアの手首から、合気の手鏡の要領で優しく包丁を受け取り、テーブルの上へと滑らせた。
「フレアさん、重度の自律神経失調と慢性睡眠剥奪による急性過覚醒状態です。瞳孔散大、脈拍は毎分百二十を超えています。これ以上の血圧上昇は脳血管攣縮を引き起こしますよ。まず、この深呼吸用高濃度酸素ボトルを吸ってください」
「え……? あ、吸気……? スゥーー……ハァーー……」
優太が差し出した医療用酸素マスクを口に当て、フレアが深く息を吸い込む。純粋な酸素が血中に行き渡ると、逆立っていた紅蓮の闘気がスッと収まり、へなへなと椅子に座り込んだ。
「そしてデュークさん」
優太は寸胴鍋の前に歩み寄り、立ち上る蒸気とスープの表面をペンライトで照らし出した。
「骨を粉砕して強火で煮立てるのは結構ですが、灰汁と過酸化脂質が完全に混濁しています。骨の髄から出るゼラチン質と脂質が結合して乳化する臨界温度は摂氏九十五度から百度前後。ブレスの直火で千度を超える高熱を加え続ければ、旨味成分であるイノシン酸が熱変性して分解し、ただ焦げた骨粉の苦味と酸化した重い油だけが残りますよ。……だから、いくら時間をかけても納得のいく味にならないんです」
ピタリと、デュークの動きが止まった。
黄金の竜瞳が、驚愕に見開かれる。
「な……ッ!? 熱変性……イノシン酸……!? 貴様、我がスープの欠陥を、匂いと見た目だけで見抜いたというのか……!?」
「戦術医として、生化学と熱力学の基礎を修めていますからね。……デュークさん、フレアさん、ヒエン。知恵と準備を尽くせば、騒音も悪臭も出さずに、最高の極上スープを短時間で完成させることができます」
優太は意識を集中させ、視界の隅のシステムインターフェースを呼び出した。
【現在保有善行ポイント:3,155P】
目的は、崩壊寸前の神話級一家のメンタルケア、および集合住宅の公衆衛生と騒音問題の解決。私利私欲は一切ない。
「頼む……家庭の平穏を取り戻し、極上の仕込みを成功させる調理支援装備を寄越せ」
【100Pを消費:地球ガチャを実行(残余:3,055P)】
【使用者の明確な調停意志、打算なき医療・衛生改善の覚悟を感知──特殊判定成功】
【排出等級:SSR(地球工業用・業務用超大型圧力寸胴鍋&活性炭極厚換気フィルター&特殊耐熱アク取り不織布ロール一式)】
淡い光の収束と共に、土間に鈍いステンレスの輝きを放つ巨大な業務用圧力鍋と、高密度の排気浄化フィルターが出現した。
「ヒエン、力を貸してくれ。この活性炭フィルターを換気ダクトの外側に固定してくれ。お前の鍛冶の技術なら、一分で完璧に取り付けられるはずだ」
「お、おう! 任せとけ!」
ヒエンが手早く工具を取り出し、換気口にフィルターをガチリと装着する。その瞬間、外へ漏れ出していた猛烈な獣脂の悪臭がピタリと遮断された。
「デュークさん、骨とスープをこの圧力鍋に移します。この不織布シートを表面に浮かべてください。酸化した微細な灰汁だけを吸着し、必要な脂質とコラーゲンだけをスープに戻します。そして火力をブレスではなく、安定した中火に絞って三十分だけ圧力をかける。骨の芯にある髄液を一瞬で溶出させます」
「ぬ……うむ!」
デュークは優太の指示に従い、職人の真剣な目つきでバルブを締めた。
圧力が上がると共に、シューッと静かな蒸気音だけが室内に響く。ハンマーで骨を叩き割る轟音も、荒れ狂うブレスの咆哮も、そこには一切なかった。
三十分後──。
プシューーーーッ……!
安全弁から減圧蒸気が抜かれ、デュークが分厚いハンドルを回して圧力鍋の蓋を開け放った。
その瞬間、土間いっぱいに広がったのは、先ほどまでの焦げ臭い刺激臭とはまるで異なる、気品すら漂う甘く芳醇な豚骨のアロマだった。
「こ……これは……!?」
デュークが木杓でスープをすくい上げ、息を呑んだ。
黄金色の脂の玉が美しく輝き、スープそのものはポタージュのように滑らかで、一切の焦げや灰汁の濁りがない。完璧に乳化を遂げた、究極の濃厚白湯だった。
「骨のカルシウムが完全に溶け出し、コラーゲンがゼラチン化して乳化を安定させています。雑味はゼロ、旨味成分のグルタミン酸とイノシン酸が理想的な比率で結合していますよ」
「す、素晴らしい……! 我が求めていたスープが、わずか三十分で……!」
デュークは震える手でドンブリを並べると、一気に麺を茹で上げ、スープを注ぎ、特大の肉厚チャーシュー、青ネギ、そして極太メンマを豪快に盛り付けた。
「おい、フレア、ヒエン! 食え! 我が渾身の一杯じゃ!」
四つのドンブリが土間のテーブルへ並べられる。
フレアとヒエン、そしてマンミアと優太が席に着いた。
フレアがおずおずとレンゲを手に取り、白濁したスープを一口すすった。
その瞬間──フレアの赤い瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……美味しい。信じられないくらい、優しくて……深い味……」
「う、うめぇぇぇぇッ!!」
ヒエンがドンブリを抱え、極太麺を一気にすすり上げた。
「脂っこくないのに、ガツンと濃厚なコクが喉を突き抜けていく! チャーシューが口の中でホロホロ崩れて、スープの旨味と混ざり合って止まらねぇぞ! 親父……すげぇよ、これ本物だよ!」
「ヒエン……フレア……」
デュークは腕を組み、照れ隠しのように顔を背けながら、太い鼻を鳴らした。
マンミアも夢中で箸を進め、スープを最後の一滴まで飲み干した。
「見事だ、デューク殿。この味なら、村の屋台でも大行列ができるに違いない。……そして何より、音が静かになったのが本当に助かる」
【集合住宅における重大な騒音・悪臭公害の完全解決を感知】
【神話級一家のメンタルケアおよび家庭和解:善行ポイント+300P獲得】
【現在保有善行ポイント:3,355P】
視界の隅に浮かぶログを確認し、優太は静かに胸を撫で下ろした。
一杯の温かい料理が、どれほど強大な存在であっても、その心を解きほぐす。
食後、優太は外へ出て、中庭のベンチに腰を下ろした。
秋風が吹き抜ける中、ジップアップパーカーから無添加の青い紙巻タバコを取り出し、軍用マッチを擦って火を灯す。紫煙をゆっくりと澄んだ青空へ吐き出した。
隣では、リキ兄貴が黄金のリーゼントを揺らしながら、白箱のタバコを燻らせてニヤリと笑っていた。
「やるじゃねぇか、優太の兄弟。あの偏屈なトカゲ親父の鼻っ柱を、科学とやらでへし折って家族を仲直りさせちまうとはよぉ」
「いや、デュークさんのラーメンへの情熱が本物だったからだよ」
優太が笑みを返した、その時だった。
──ヒュゥゥゥゥゥ……ッ。
中庭の空間が、突如として不気味な重力歪曲を起こし、ピンと張り詰めた妖気で満たされた。
見上げれば、A棟二階の203号室のベランダに、深紅の豪奢なチャイナドレスをまとった絶世の妖艶な美女──南方を司る聖獣・朱雀が優雅に姿を現し、長い煙管をくゆらせながら妖しい流し目を投げかけていた。
そして向かいのB棟二階の窓からは、青龍、白虎、玄武の三神が、殺気を孕んだ複雑すぎる視線を朱雀へ向けて注ぎ合っている。
中庭の片隅で、頭を抱えたメカライオン──聖獣ガオンが、猛烈な胃痛に耐えかねて地面に突っ伏していた。
「う……胃が……回路がショートする……誰か……誰か胃薬をくれ……」
優太はタバコの灰を落とし、苦笑いと共に立ち上がった。
ポポロ・コーポの狂乱は、さらに底知れぬ泥沼の昼ドラ劇へと突入しようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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