EP 4
家賃月3万円の魔窟『ポポロ・コーポ』と、黄金リーゼントの第6聖獣
昼下がりの日差しが、ポポロ村の西外れに広がる緩やかな丘陵を照らし出していた。
中央通りの喧騒から外れ、舗装の途切れた赤土の小道を歩く中村優太の隣には、規則正しい蹄の音を響かせるケンタウロスの自警団長マンミアが並んでいた。
背中には巨大なパイルバンカー『アグニ』を背負い、白銀の甲冑を陽光に反射させている。
「……あそこに見えるのが、問題の集合住宅『ポポロ・コーポ』だ」
マンミアが槍の手綱を握り直し、苦々しい表情で丘の窪地を指し示した。
優太の視線の先に現れたのは、見渡す限りの異世界情緒を根底から覆す、あまりにも見覚えのある建造物だった。
錆びついたトタン屋根に、ひび割れたモルタル外壁。
外付けの鉄骨階段は赤錆が浮き、手すりには誰のものとも知れない色褪せた布団が干されている。
二階建ての長屋風アパートが、中庭を挟んで向かい合うように『A棟』『B棟』と二棟並び立っていた。
入口の古びた木製看板には、掠れた墨文字で力強く刻まれている。
『ポポロ・コーポ 家賃月額三万円(敷金礼金ゼロ・即入居可)』
「……昭和の高度経済成長期の学生アパートそのものだな」
優太は思わず乾いた笑いを漏らした。
だが、戦術医としての知覚を研ぎ澄ませた瞬間、肌を粟立たせるような異様なプレッシャーが全身を叩いた。
見た目はただのオンボロ木造物件であるにもかかわらず、建物全体を取り巻く大気の密度が異常に高い。
空間の歪み、多重に折り重なった神聖気配と焦熱の残滓、そして何重もの結界干渉が、まるで臨界点直前の原子炉のようにピリピリと空気を軋ませていた。
「外見に騙されるなよ、優太殿。前村長が道楽で建てた格安物件なのだが……安さに惹かれて各地から流れ込んできた入居者たちが、全員揃いも揃って大陸の勢力図を一夜で書き換えかねない連中ばかりなのだ」
マンミアが深いため息をつきながら、アパートの敷地へと足を踏み入れる。
その瞬間だった。
バリバリバリバリッ──!! ドロロロロロロッ……!!
鼓膜を暴力的に揺るがす、けたたましい排気音と魔導スパークの破裂音が、A棟の駐輪場から爆発的に轟き渡った。
大地が小刻みに震動し、アパートの窓ガラスがビリビリと共鳴音を立てる。
「また始まったか……! おい、貴様! 中庭で空ぶかしをするなと何度言えばわかるのだ!!」
マンミアが怒髪天を衝く勢いでパイルバンカーの石突を地面に叩きつけ、駐輪場へと詰め寄った。
土煙が晴れた先、優太の目に飛び込んできたのは──眩いばかりの「黄金の光」だった。
駐輪場の屋根の下に鎮座していたのは、魔導工学と地球の旧車暴走族文化が最悪の形で融合したような、異様な二輪車だった。
天を衝くようにそそり立つ巨大な三段シート。フロントには風防が反り返り、後方へ向けて跳ね上げられた真鍮製の竹槍マフラーからは、紫煙混じりの魔導炎が火の粉となって噴き出している。
タンクの側面には、金文字の螺鈿細工で『天下無敵 爆音天聖号』と彫り込まれていた。
そして、そのマシンの横でスパナを握りしめていた男──。
身長は百八十五センチほど。
紫の特攻服風の長い羽織を肩に掛け、胸元を豪快にはだけさせている。
何より異様なのは、その頭部だった。
重力に真っ向から逆らい、前方に鋭く突き出された、鏡面のように眩く輝く『黄金の巨大リーゼント』。
額からは神獣特有の純白のねじれ角が一本生え、全身からは嵐のような雷光がバチバチと火花を散らしていた。
「あぁん? うるせぇなぁマンミアの姉ちゃんよぉ。文句があんなら、この『爆音天聖号』のキャブセッティングが終わってからにしてくれや! 三次魔導噴射の同調がコンマ一秒ズレてんだよ!」
ドスの効いた、だがどこか愛嬌のある江戸前ヤンキー口調。
男がスパナを指先で回しながら振り返り、琥珀色の鋭い瞳を優太へと向けた。
「……あァ? 誰だテメェは。姉ちゃんの新しい間男か? ずいぶん動きやすそうなグレーのパーカーなんか着込みやがって」
「口を慎め、リキ! こちらは村の臨時医官を務めてくださっている中村優太殿だ! アパートの健康診断と問診に来ていただいたのだぞ!」
「医者ぁ……?」
リキと呼ばれた男は片眉を跳ね上げ、上から下へと優太の身体を品定めするように見つめた。
その男の正体を、優太の脳内データベースが瞬時に弾き出す。
世界樹の理を司る五大聖獣(青龍、白虎、朱雀、玄武、ガオン)のさらに上位に座す、調停と仁義の象徴──『第6聖獣・麒麟』。
神話の世界では平和の象徴として崇められる絶対的存在が、なぜか家賃三万円のオンボロアパートで魔導単車のキャブを弄っているという、脳が焼き切れそうな光景だった。
「初めまして、リキさん。中村優太です。自警団からの要請で、住人の皆様のバイタルチェックと健康相談に伺いました」
優太は一歩も引かず、穏やかな笑顔のまま会釈した。
リキは鼻を鳴らし、スパナを工具箱へ放り投げると、懐からくしゃくしゃになった白箱の紙巻タバコを取り出した。
それを唇の端に咥え、ポケットから安物の着火石を取り出して親指で擦る。
カチッ、スカッ……カチッ、スカッ……。
「チッ……湿気てやがる。肝心な時に火がつかねぇとは、縁起の悪いこった」
舌打ちするリキの前へ、静かに手が差し出された。
優太だった。
優太はジップアップパーカーのサイドポケットから、防水ケース入りの『軍用マッチ』を一本抜き放っていた。
指先のスナップを利かせ、擦り板へと滑らせる。
──シュパッ。
澄んだ摩擦音と共に、硫黄の赤い炎が鮮やかに立ち上がった。
風を遮るように掌を添え、リキの咥えたタバコの先端へと、寸分の狂いもなく炎を運ぶ。
「……使うかい?」
「…………」
リキの双眸が、驚きに見開かれた。
目の前に差し出された火先。
それを持つ優太の指先に、一切の微細な震えがない。
麒麟たる自分が無意識に放っている天災級の神聖圧と雷気を至近距離で浴びながら、呼吸は深く整い、体幹は大地に根を張った大樹のように微動だにしていない。
ただのヤブ医者でもなければ、名声を求めて擦り寄ってくる有象無象でもない。幾重もの修羅場をくぐり抜け、他者の命を背負ってきた男だけが持つ、鋼の静寂がそこにあった。
「……へっ。上等な火じゃねぇか」
リキは口元を不敵に歪めると、差し出されたマッチの炎へタバコを寄せ、深く吸い込んだ。
先端がジュッと赤く灯り、芳醇な煙が立ち上る。
リキが紫煙を空へ吐き出すのを見届けてから、優太はマッチを軽く振って消した。
そして自らもパーカーから、無添加の青い紙巻タバコを一本取り出し、唇に咥えた。
二本目のマッチを擦ろうとした優太の手を、リキの分厚い掌が制した。
「待ちな、兄弟。……火を借りっぱなしじゃ、男が廃るってもんだ」
リキはニヤリと笑うと、親指をパチンと弾いた。
その指先から、バチッと青白い神聖雷の極小スパークが弾け飛ぶ。
雷光が優太の青いタバコの先端へ移り、一瞬で綺麗に着火した。
「すまない、助かるよ」
優太は深く煙を吸い込み、澄んだ秋空へとゆっくりと吹き出した。
青いタバコの重厚なアロマと、白箱の香ばしい煙が、中庭の風の中で緩やかに交錯していく。
「無添加の青か。……渋いもん吸ってんじゃねぇか、優太の兄弟」
「雑味がなくて、頭が冴えるからね。……ところでリキさん、右の肩甲骨から僧帽筋にかけて、かなり強い筋硬結が出ているんじゃないかい?」
「あァ……? なんでそれがわかる?」
リキが目を丸くした。
優太はタバコを指に挟んだまま、リキのライディングポジションを指し示した。
「さっき単車の整備をしていた時、右肘をかばって左半身でトルクをかけていただろ。あの三段シートの角度と絞りハンドルの位置だと、前傾姿勢を維持するために第4・第5頸椎と仙腸関節に持続的な剪断応力がかかる。放っておくと、神獣の強靭な筋力であっても神経圧迫による握力低下や頭痛を引き起こすよ」
「う……痛ぇところ突きやがるぜ。実はここんとこ、アクセルをひねるたびに右腕が痺れてたまらねぇんだよ」
リキがポリポリと黄金のリーゼントを掻いた。
優太はタバコを携帯灰皿へ収めると、薄手の滅菌手袋をはめた。
「少し診せてもらうよ。息を吸って……楽にして」
優太の指先が、リキの首筋から肩口の経穴へと滑り込んだ。
戦術徒手整復とカイロプラクティックの理論に基づく、深層筋への的確なアプローチ。
雷気を帯びた鋼のような筋肉の隙間を縫い、圧迫されていた神経根の歪みを捉える。
「ここだ。息をゆっくり吐いて──」
優太の両手が、ミリ単位の角度でリキの頸椎と肩甲帯へ瞬間的な牽引圧を加えた。
──コキッ。
澄んだ微小な関節音が響いた瞬間、リキの全身を包んでいた青白い火花がふっと収まり、滞っていた霊気の循環が一気に解放された。
「な……ッ!? お、おい……嘘だろ……!?」
リキは右腕をぐるぐると回し、驚愕の声を上げた。
「痺れが……完全に消え失せてやがる! 肩が羽が生えたみてぇに軽ぇぞ! 魔導治癒士の回復魔法でも治らねぇ骨のズレを、指先ひとつで直しやがった……!」
「関節包の引っかかりを解除しただけだよ。でも、筋肉の炎症はまだ残っている。これ、自作の消炎生薬湿布だ。今夜、患部に貼って寝てくれ」
優太がリュックから取り出した湿布を手渡すと、リキはその湿布を両手で押し頂き、熱い眼差しを優太に向けた。
「気に入った……! 気に入ったぜ、優太の兄弟!!」
リキは豪快に笑い声を上げ、優太の右手を万力のような握力で握りしめた。
「タバコの火を交わし、俺の身体の痛みを真正面から取ってくれた男だ! 今日からテメェは、この第6聖獣・リキ兄貴の『マブダチ』だ! 誰かがテメェにケチつけやがったら、この『爆音天聖号』で成層圏まで跳ね飛ばしてやるからよぉ!」
「はは、心強いよ、リキ兄貴」
優太が笑顔で応じると、視界の隅に柔らかな光文字が流れた。
【神話級存在(第6聖獣・麒麟)の神経圧迫解除および信頼獲得を感知】
【重大な健康救護および地域治安の安定:善行ポイント+200P獲得】
【現在保有善行ポイント:3,155P】
「……ふぅ。あの跳ねっ返りのリキを、初対面で手懐けてしまうとはな」
後ろで見ていたマンミアが、呆れたように、だが心底感心したように息を吐き出した。
しかし──リキとの和解で胸を撫で下ろしたのも束の間だった。
突如として、中庭の空気がドスンと重くなり、A棟の一階奥──101号室の窓から、胃袋を直接殴りつけてくるような、強烈極まりない「獣脂とニンニクの濃厚な焦げた匂い」が猛烈な勢いで噴き出してきたのである。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
換気扇から立ち上る凄まじい白煙。
そして、アパートの土台を軋ませるような、地鳴りのごとき怒声が響き渡った。
「スープの濃度が足りん!! ゲンコツの叩き割りが甘いんじゃあぁぁッ!!」
優太の耐衝撃ウォッチが、新たな嵐の接近を告げるように冷たく光った。
家賃三万円の魔窟『ポポロ・コーポ』の狂宴は、まだ幕を開けたばかりだった。
読んでいただきありがとうございます。
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