第二章 狂乱のポポロ・コーポと怪奇食材の晩餐
村長邸の食卓格差と、エルフ姫の無限臓器スキーム
秋の訪れを告げる高原の冷気が、ポポロ村の屋根瓦を白く濡らしていた。
遠くそびえる活火山の頂からは清冽な風が吹き下ろし、肥沃な黒土と朝露に濡れた薬草の香りを運んでくる。
街道沿いに佇む小料理屋『鬼龍』の二階、間借りしている診療所の窓際で、中村優太は軽く柔軟体操を終え、グレーのジップアップパーカーのファスナーを引き上げた。
左手首に巻かれた耐衝撃デジタルウォッチの液晶画面を確かめる。午前七時十五分。
階段を軋ませることなく一階へ降りると、仕込みの進む厨房から、鼻腔を心地よく刺激する芳醇な出汁の香りが漂っていた。
静かな店内に流れているのは、J.S.バッハの『無伴奏チェロ組曲 第1番』。深く、祈りにも似た重低音が、檜のカウンターを微かに震わせている。
奥では、黒い前掛け姿の巨漢・鬼神龍魔呂が、鏡面のように研ぎ澄まされた本焼き包丁を無言で振るっていた。まな板の上で、透き通るような白身のピラダイがミリ単位の狂いもなく切り分けられていく。
「おはよう、龍魔呂」
「……おう。朝飯だ」
カウンターに置かれたのは、炊きたてのサンライスの麦飯、薄切りの大根と油揚げの味噌汁、そして香ばしく皮目を炙った焼き魚の小鉢。
優太は手を合わせ、丁寧に箸を運んだ。雑味の一切ない滋味深い旨味が、胃壁を優しく温め、全身の血流を呼び覚ましていく。
器をきれいに平らげると、流し台へ立ってスポンジを手に取り、手際よく皿を洗い上げた。
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「地道な備えこそ最大の保険だな」
「毎朝ご苦労なこった」
龍魔呂が苦笑混じりに呟きながら、棚のガラス瓶から取り出した角砂糖を二粒、口へ放り込んだ。
ボリッ、ボリボリッ……。
小気味いい破砕音が店内に響き渡る。ブラックのポポロ・コーヒーで喉を潤した龍魔呂は、赤箱の無骨な紙巻タバコを取り出し、真鍮製オイルライターを親指で弾いた。
カチッ……シュポッ。
静かな黄色の火が灯り、立ち上る紫煙を天井へと燻らせる。
優太も無添加の青い紙巻タバコに軍用マッチで着火し、互いに一息吐き出した。
「これから村長邸へ定期健診と、診療所の薬品備蓄の申請に行ってくるよ」
「あァ……あの屋敷か」
龍魔呂はタバコを挟んだ指先を見つめ、どこか憐れむような目を向けた。
「朝飯の時間帯は特に気をつけろよ。あそこの食卓は、三大国の国境紛争よりも業が深い。……胃薬を持って行った方がいいぞ」
「胃薬? そんなに荒れてるのか……?」
優太は首を傾げつつ、救急用タクティカルリュックを背負って店を出た。
村の中央広場に面した石造りの行政庁舎兼村長公邸。
正面玄関を抜け、公邸奥のリビングダイニングへと足を踏み入れた瞬間、優太の視界に飛び込んできたのは──絵に描いたような「資本主義の残酷な格差社会」だった。
部屋の中央に置かれた長いマホガニー調の食卓。
その上座には、可憐な白い兎耳をピンと立てた第43代村長キャルルが腰掛けていた。
彼女の前に並んでいるのは、ポポロ村の公費と年収から賄われた、健康的かつ極めて贅沢な朝食メニュー。
黄金色に香ばしく焼き上げられた分厚い米麦草トースト、カリカリに焼かれた特選厚切りベーコンエッグ、新鮮な自家製人参と赤玉ねぎのシャキシャキサラダ、そして絞りたての高純度野菜ジュース。芳醇なバターとローストポークの香りが湯気と共に立ち上り、見る者の食欲を否応なく刺激する。
──対して、その真向かいの下座。
「………………」
色褪せた青い芋ジャージに身を包み、背中を丸めて座り込んでいたのは、自称・帝都の正統派地下アイドル、人魚族のリーザ・シーランだった。
鼻の穴にはピカピカに磨かれた五円玉を大事そうに詰め、目の下に深い隈を刻んだ虚ろな瞳で、自らの皿を凝視している。
リーザの前に置かれていたのは、黒く焦げ付いた硬いパンの耳が二本。ひび割れた殻の固茹で卵が一つ。そして、今朝がた近隣の土手で自らむしり取ってきたとおぼしき、タンポポとオオバコの葉をすり潰しただけのドロドロの青汁サラダだった。
「……おはようございます、皆さん」
優太が思わず引きつった声で挨拶すると、キャルルがパッと兎耳を揺らして振り返った。
「あ、優太さん! おはようございます! 朝の検診ですか? どうぞ座ってください!」
「お、おはようございますの……優太様……」
リーザが蚊の鳴くような声で応じる。
その瞬間、リーザの腹の虫が「グゥ〜〜ッ……キュルルル」と、まるで飢えた野獣の遠吠えのような音を派手に奏でた。
キャルルの皿から漂うベーコンの香ばしい匂いが、無慈悲にリーザの鼻腔を拷問している。
「……リーザちゃん、それ、本当に足りてるの?」
キャルルが心底心配そうに小首を傾げると、リーザはビクッと肩を震わせ、胸を張って鼻の五円玉を指先でクイッと押し上げた。
「フ、フン! な、何を仰いますのキャルル様! アイドルたるもの、日々の体型維持とデトックスは基本中の基本ですわ! 道端の野草には豊富なミネラルと大地の生命力が凝縮されておりますの! 資本主義の豚が好むような脂ぎった肉など、わたくしの高潔な腸内環境には不要ですのよ……!」
プルプルと震える指先でパンの耳を持ち上げ、前歯でカリッと削り取るリーザ。あまりの硬さに顎がカクッと鳴る。
「……でも、昨日タローマートで安売りしてた卵、まだ余ってるからフレンチトースト焼いたんだけど……食べる?」
キャルルが苦笑しながら、蜂蜜とバターがたっぷり染み込んだ黄金色のフレンチトーストの皿を差し出した。
次の瞬間──。
ズザザザザザザザッッ!!
「食べますぅーーーーッッ!! 神様仏様キャルル様ぁーーーーッッ!!」
ゼロコンマ二秒。
リーザは椅子を蹴倒し、床の上を摩擦熱で煙が上がる勢いでスライディング土下座を決め、両手でキャルルの足首にすがりついた。その瞳には滝のような涙が溢れ出ている。
「あぁっ! 小麦と卵と糖分の暴力! 生きてて良かったですわぁぁぁん!!」
「は、はいはい、落ち着いて……! ちゃんと噛んで食べてね!」
キャルルが慌ててトーストを渡すと、リーザはリスのような猛烈な速度で咀嚼し、涙を流しながら胃袋へとバキュームしていった。
「……壮絶だな」
優太が額に手を当てていると、背後から音もなく優雅な足音が近づいてきた。
燕尾服を寸分の狂いもなく着こなした人狼執事のリバロンが、銀のトレイを携えて静かに一礼する。
「おはようございます、優太殿。今朝も我が主の屋敷は、生存競争の厳しさを物語っておりますよ。……リーザ様は今月の路上ライブの収益が五円玉四枚のみでございまして、村の共益費の支払いが完全に焦げ付いている状態でございます」
「五円玉四枚って……二十円か。それは餓死する寸前じゃないか」
「ええ。ですが、我が公邸における真の『危険因子』は、あちらの御方でございます」
リバロンが片眼鏡の奥の瞳をすっと細め、食卓の端へと視線を向けた。
そこに座っていたのは、翡翠色の長い髪を優雅に揺らした絶世の美女──世界樹の祝福を受けしエルフの姫君、ルナ・シンフォニアだった。
純白の豪奢なドレスをまとい、その微笑みは絵画の聖母のように慈愛に満ち溢れている。
ルナの前には、自生させた高純度マナ野菜と世界樹の果実を自らブレンドしたという、毒々しいまでに鮮やかな紫色の「特製デトックス・スムージー」が置かれていた。彼女はそれをガラスのストローで、上品にチュウチュウと吸い上げている。
「皆様、ごきげんよう♡ 朝から賑やかで、とても素晴らしいことですわね」
ルナはおっとりと微笑み、口元を絹のナプキンで優しく拭った。
そして、床でフレンチトーストを貪り食うリーザへ、心底から同情しきった潤んだ瞳を向けた。
「まあまあ……リーザ様、そんなにお金に困っておられるのですか? 毎月のお小遣いが五円玉四枚だなんて、あまりにも不憫で夜も眠れませんわ……」
「ル、ルナ様……! 女神のようなお言葉、身に染みますわ……! もしや、この哀れな人魚姫にお恵みの寄付金などを……!?」
リーザが目を輝かせて縋り付こうとした、その時だった。
ルナは両手を胸の前で合わせ、この上なく無垢で、慈悲に満ちた聖母の笑みのまま、とんでもない言葉をサラリと紡ぎ出した。
「ええ、お金を直接差し上げるのは教育上よくありませんものね♡ ……ですからリーザ様、手始めに『腎臓』を片方、闇市のブローカーへお売りになってはいかがかしら?」
…………ピキッ。
リビングの空気が、絶対零度まで凍りついた。
リーザがトーストを口に咥えたまま、白目を剥いて硬直する。
「……は、はい?」
優太の戦術医としての思考回路が、一瞬バグを起こしかけた。
だが、エルフの姫君は一切の悪意も狂言の気配も見せず、小首をかしげて楽しげに続けた。
「大丈夫ですわよ? 片方の腎臓を摘出して金貨千枚で売却した直後、私の世界樹の最高峰再生魔法『生命の萌芽』を患部におかけすれば、わずか三分でピカピカの新しい腎臓が生えてまいりますの♡」
ルナは優雅にドレスの袖から、ダイヤモンド並みの切れ味を誇る純銀の医療用メスをシャキリと取り出し、うっとりと目を細めた。
「売っては再生、売っては再生……これを一日五回ほど繰り返せば、日給金貨五千枚! 一ヶ月でルナミス帝国の国家予算に匹敵する、実質『無限の富』が手に入りますわ! さあリーザ様、善は急げです! そこへ横になって、脇腹をお出しなさいな♡」
ズズズズズッ……!!
ルナの背後から、主の呼びかけに応じたピンク色の催眠魔植物『ハッピー・ドリーム』が床板を突き破って出現した!
甘ったるい麻酔粘液をダラダラと垂らす太い触手群が、手術台を準備するかのように床の上をニュルニュルと蠢き始める!
「ぎゃああああああああっっ!? 出たぁぁぁぁっ!! 天然サイコパスの臓器売買永久機関だぁぁぁぁっっ!!」
リーザは悲鳴を上げて飛び退き、キャルルの背後へ逃げ込んだ!
「やめんかぁぁぁーーーッッ!!」
キャルルが激怒し、腰の木製ダブルトンファーを抜き放とうとする!
だが、それよりも速く動いた二つの影があった。
「ルナ殿ッ! 生体組織の反復複製によるゲノム変異および、帝国刑法第302条『人身売買禁止令』への明白な抵触でございます!」
シュバッ!
人狼執事リバロンが燕尾服を翻し、テーブルクロスを鋭く引き抜いて鞭のようにしならせ、ルナが構えたメスの刀身へ巻きつけて弾き飛ばした!
同時に──中村優太が地を蹴っていた。
「医学的・倫理的見地から全面却下だ!」
優太はシステマの脱力歩法でルナの右側頭部の死角へ滑り込み、合気の関節制圧術によって、メスを取り落としたルナの手首を優しく、だがミリ単位の狂いもなく極めた。
大東流合気柔術『手鏡』。過剰な力で傷つけることなく、骨格の運動連鎖を利用してルナの全身の自由を完全に奪う。
「きゃっ……? まあ、優太様、なんて力強いホールドなのかしら♡」
「喜んでる場合じゃないですよルナさん!」
優太は額に青筋を立てながら、冷徹な外科医の口調で一気に捲し立てた。
「他人の臓器を短期間に何度も摘出・強制再生させたら、細胞分裂のテロメアが急速に短縮し、がん化のリスクが跳ね上がります! それに、いくら外見が再生したところで、摘出時の外科的侵襲と激痛による中枢神経系のトラウマは消えません! 患者の精神を破壊する行為は、断じて医療ではない!」
「あら……でも、お薬で眠っている間にササッと切り取れば、痛くありませんわよ?」
「そういう問題じゃない! そもそも供給過剰で闇市の臓器相場が即座に暴落して、ハイパーインフレと国際指名手配を招くだけです!」
戦術医と人狼執事の完璧な連係プレーにより、エルフ姫の狂気の無限金策スキームは、寸前のところで完全鎮圧された。
「ふぅ……危ないところでした。毎朝これですから、公邸の治安維持費がいくらあっても足りませんよ」
リバロンが眼鏡を指先で直しながら、深く重いため息を吐き出した。
キャルルもトンファーを下ろし、へたり込んだリーザの頭を撫でながら苦笑いを浮かべる。
「優太さん、リバロン、ありがとうございます……。ルナさん、悪気はまったくないんですけど、発想がスケール外すぎていつも肝が冷えます……」
「まあ……私、良かれと思ってご提案したのですけれど。残念ですわ♡」
ルナは拘束を解かれると、何事もなかったかのように銀のメスをしまい込み、優雅にスムージーを飲み干した。
その天然のサイコパスぶりに、優太は「龍魔呂が胃薬を持っていけと言った理由」を骨の髄まで理解した。
「……さて。リーザ、お腹が空いてるならこれを食べるといい」
優太はリュックのサイドポケットから、高カロリーの圧縮栄養バーと、龍魔呂の店から包んできた『ピラダイの出汁炊き込みご飯のおにぎり』を取り出し、リーザの前へ差し出した。
「う……うわぁぁぁぁっ! おにぎり! ツヤツヤのお米に、上品なお出汁の香りが染み込んでいますわぁぁぁっ!!」
リーザは両手でおにぎりを受け取り、今度こそ涙をボロボロとこぼしながら貪り食った。
「美味しい……! 美味しいですの……! 雑草の味が口の中から完全に消え去っていきますわぁぁぁん!!」
【生活困窮者の緊急栄養救護および公邸内の重大事案阻止を感知】
【善行ポイント:+150P獲得(累計2,754P)】
視界の隅に流れるシステムログを見やり、優太は小さく息を吐いた。
大国の悪党を撃退しても、この村の日常そのものが天災の連続だった。
「ところで、優太殿」
テーブルの上を片付け終えたリバロンが、手帳を開きながら声をかけてきた。
「本日の巡回診療ですが、村の東側にある開墾農地へ向かわれる予定でしたね?」
「ああ。腰痛や疲労を訴える農家が多いと聞いていたからな」
「ええ。ですが……道中、農家の畑にはくれぐれも近づきすぎないようご注意ください」
「畑に? 喋るニンニクなら、この前シャベルで放り投げたが……」
「ニンニクなどはまだ無害な部類です。……今、東の畑では、収穫期を迎えた『最悪の魔性作物』が猛威を振るっておりましてね」
リバロンが眼鏡の奥の瞳を険しく光らせた。
「妖艶な声で農家の真面目な親父たちを誘惑し、家庭を崩壊させて駆け落ちへ走らせる魔性のマスクメロン──『メロロン』の群生地が、収穫制限区域に指定されたところでございます」
優太は眉をひそめた。
臓器売買の次は、作物の不倫劇。
ポポロ村の狂乱の秋は、戦術医の予想を遥かに超える速度で幕を開けようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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