EP 14
「カチッ……シュポッ」死を呼ぶ四番の処刑執行
大気を震わせていた黒角暴竜の凶暴な咆哮が、ふつりと途絶えた。
瓦礫と粉塵が舞い散る広場の中心で、膝をついた中村優太の胸元には、恐怖に震える獣耳の幼女が抱きかかえられている。少女の瞳からこぼれ落ちた大粒の涙が、優太の破れたパーカーの袖を濡らし、かすかなしゃくり声だけが張り詰めた静寂に落ちた。
その泣き声を吸い込むようにして、広場外縁の空気が歪んだ。
熱波に包まれていたはずの空間から、瞬時に一切の熱量が奪い去られていく。吐く息が白く凍りつきそうなほどの絶対零度の気圧が、広場に居合わせた数百人の群衆の肩へ、鉛のように重くのしかかった。
──カチッ。
静寂を鋭く引き裂く、澄み切った金属の開閉音。
続けて、やすりを擦る乾いた摩擦音が一度だけ響く。
──シュポッ。
漆黒の大型アドベンチャーバイクの脇で、揺らめく黄色のオイル炎が灯った。
鬼神龍魔呂が、親指で跳ね上げた真鍮製オイルライターの火を、ただ無言で見つめている。
その両目に、光は一切宿っていなかった。
感情、激情、怒り──そうした人間的な情動のすべてを削ぎ落とし、ただ闇そのものを凝縮したような底なしの虚無。
かつて地下闘技場の冷たい泥水の中で、病死した弟ユウの亡骸を抱きしめ、人間性のすべてを自ら焼き捨てたあの日の闇──伝説の殺人機械「死を呼ぶ四番(DEATH4)」の魂が、完全に覚醒していた。
龍魔呂の巨躯から、陽炎のように赤黒い闘気が立ち上る。
それは魔力でも気功でもない。幾万の死線を越え、己の命すら駒として擦り潰してきた者だけが纏う、純度百パーセントの「死の質量」だった。
「ひ、あ……っ……!?」
空中に浮かぶキュララの自律撮影オーブが、激しい電磁ノイズを上げてガタガタと震動した。
虚空に浮かぶ巨大な配信スクリーンのコメント欄が、一瞬で凍りつく。
【ゴッドチューブ同時接続者数:21,000,000人突破】
【コメント欄】:
『待って……画面越しなのに息ができない……』
『何あの黒いオーラ!? 魔王とか邪神の類じゃないぞ!?』
『あのバイクの男……目が……完全に死神の目だ……!!』
広場の誰一人として、指先一本すら動かせない。
人狼執事リバロンの毛並みが総毛立ち、商人ニャングルは算盤を抱えたまま息を呑み、自警団長マンミアすらも軍馬の下半身を硬直させていた。
そして何より──本能の塊であるはずの特A級危険魔獣『黒角暴竜』が、その場でピタリと四肢を硬直させていた。
四メートルを超える巨躯を誇り、鋼鉄をも貫く角を持つ暴竜が、全身の甲装をカタカタと震わせ、喉の奥からヒュウ、ヒュウと情けない空気の漏れる音を鳴らしている。食物連鎖の頂点に立つ捕食者が、己を瞬時に挽き肉へ変えうる「天災」を前にした時の、原初の恐怖だった。
ザッ、ザッ、ザッ……。
無骨なエンジニアブーツが、割れた石畳を踏みしめる乾いた足音。
龍魔呂が、ゆっくりと歩みを進めていた。
右手には、炎の灯った真鍮ライター。左腕は脱力したまま、自然に垂れ下がっている。
その視線は、逃げ惑う観客にも、壇上で腰を抜かしている詐欺師たちにも向いていない。
ただ、子供を泣かせた元凶──黒角暴竜の眉間だけに、針を刺すように固定されていた。
「な、何をしてるんだ暴竜! やれ! 踏み潰せぇぇッ!」
崩壊した特設ステージの脇で、火原元が泡を吹きながら狂乱の金切声を上げた。
「あんな奴、ただの人間だ! 角で串刺しにして食い殺せぇぇぇッ!!」
使役者の絶叫と、迫り来る死神の威圧に追い詰められ、黒角暴竜の凶暴性がパニックとなって爆発した。
グルアァァァァァァッッ!!
大気を焦がす咆哮と共に、暴竜の三本の漆黒の角が赤熱化する。
巨躯を限界まで低く沈め、大地を抉りながら、時速七十キロを超える突進となって龍魔呂へと一直線に射出された!
その質量はおよそ三トン以上。城門すら粉砕する運動エネルギーが、龍魔呂の胸板を目掛けて牙を剥く。
だが──龍魔呂は、足を止めなかった。
眉一つ動かさず、速度も変えず、ただ散歩でもするかのように正面から歩み寄る。
激突まで、コンマ三秒。
赤熱する角の切っ先が、龍魔呂の鼻先に届く直前だった。
パチン。
左手の親指が、真鍮ライターの蓋を跳ね上げ、火を消し止めた。
暗転──と同時に、龍魔呂の姿が掻き消えた。
「……え?」
暴竜の突進が、何もない空振りの空間を突き抜ける。
次の瞬間、暴竜の巨大な側頭部の真横に、黒革のジャケットをまとった巨躯がすでに音もなく潜り込んでいた。
残像すら残さない、極限の歩法。
「……食材でもねぇゴミが」
低く、地底から響くような呟き。
龍魔呂の左腕が、鞭のようにしなった。
握り拳ではない。開かれた掌底が、暴竜の最も頑丈なはずの中央の角の根元へと、吸い込まれるように添えられる。
──鬼神流・骨破徹通打。
ドウンッッ!!
破裂音ではない。大気を重低音で揺らす、内臓を直接握り潰すような衝撃波が炸裂した。
鋼鉄をも易々と両断する暴竜の角が、付け根からまるで乾燥したウェハースのように粉々に爆砕し、天高く弾け飛ぶ!
ギャインッ!?
激痛に暴竜が顎を跳ね上げた刹那、龍魔呂の右足がすでに大地の石畳を捉えていた。
体幹の捻りと三百五十馬力の筋出力が、最短距離の右ストレートへと集約される。
狙いは、暴竜の胸骨中央──分厚い岩盤甲装の真下にある心臓核。
ボグッッッッ!!!!
鈍く、残酷な破壊音が広場を支配した。
龍魔呂の鋼の拳は、暴竜の分厚い甲装を粉砕しただけにとどまらなかった。拳から放たれた赤黒い闘気の衝撃波が、数トンの巨躯の内部を音速で突き抜け、背中の皮膚をボコッと外側へ突き破って大気へと抜けていった。
外傷は最小限、だが内部の内臓、骨格、魔力器官は一瞬で挽き肉と化していた。
ドサァァァァァンッ……!!
白目を剥いた黒角暴竜の巨体が、糸の切れた操り人形のようにその場へ崩れ落ちた。
痙攣すらしない。
アバロン魔皇国の闇市場が誇る特A級魔獣が、わずか二撃──時間に換算して二秒足らずで、完全に物言わぬ肉塊へと還元されていた。
「う……あ……あぁ……」
信じがたい光景を前に、火原元は膝から崩れ落ちた。
股間から生温かい液体が染み出し、石畳を濡らす。手足の震えが止まらず、歯の根がガチガチと音を立てて鳴り響く。
瓦礫の陰に隠れていた相棒の鮫島剛に至っては、折れた肋骨の激痛すら忘れ、白目を剥いて泡を吹き、完全に気を失っていた。
広場を埋め尽くす何千万人もの配信視聴者も、現場の村人たちも、声の一片すら発することができない。
ただ立ち尽くす龍魔呂の背中に、戦慄の眼差しを注ぐことしかできなかった。
だが──龍魔呂の足は止まらなかった。
倒れ伏した魔獣の巨体を無感情に見下ろすと、その漆黒の双眸が、ゆっくりと壇上の火原へと向けられた。
ズッ……ズッ……。
一歩、また一歩と、処刑人が間合いを詰めていく。
龍魔呂の手が、レザージャケットの内ポケットへと再び滑り込んだ。
今度はライターではない。
仕上砥石で鏡面のように研ぎ澄まされた、青白く光る本焼き包丁の柄へと、その太い指先がかかろうとしていた。
「子供を泣かせた原因ごと、消し炭にする」
かつて地下闘技場で暴走した時と同じ、完全な殺戮機械のルーティン。
このままでは、火原の首が広場の石畳に転がり落ち、広場は凄惨な血の海へと変わる。
──その射線上に、毅然とした足取りで割り込んだ影があった。
「龍魔呂、そこまでだ」
静かだが、鋼のように芯の通った通る声。
中村優太だった。
優太は手当てを終えた幼女を、駆けつけてきた母親の腕へと優しく引き渡すと、薙刀を畳んで背中に収め、龍魔呂の真正面へと立ちはだかった。
逃げず、武器も構えず、ただ真っ直ぐに相棒の虚無の瞳を見据える。
「魔獣は完全に沈んだ。……見ろ、あの子の涙も止まったぞ」
優太が顎で示す先──母親の胸に抱かれた獣耳の幼女が、優太から貰った高カカオチョコレートを小さな手で握りしめ、涙を拭ってこくりと頷いていた。怪我は一つもない。
「これ以上の暴力は、医療的にも村の治安的にも必要ない。……お前が一人で地獄の泥をかぶる必要なんて、どこにもないんだ。俺たちは相棒だろ」
優太はジップアップパーカーのポケットから、四角くて白い塊──角砂糖を二粒取り出すと、龍魔呂の目の前へと差し出した。
ピクリ、と龍魔呂の眉が微かに動いた。
底なしの闇を湛えていた双眸の奥に、さざ波のような微細な光が戻ってくる。
赤黒く渦巻いていた暴虐の闘気が、潮が引くようにスッと薄れ、高原の澄んだ秋風が二人の間を通り抜けていった。
「……優太」
かすれた、だがいつものぶっきらぼうな重い声。
龍魔呂は包丁の柄から手を離すと、優太の手のひらから角砂糖を摘み上げ、迷いなく口の中へ放り込んだ。
ボリッ、ボリボリッ……。
静かな広場に響き渡る、小気味いい破砕音。
奥歯で砂糖を豪快に噛み砕き、喉を鳴らして飲み干した龍魔呂は、深いため息を一つ吐き出した。
「……甘ぇな、相変わらず」
「脳に一番効く特効薬だからな」
優太が不敵に笑うと、背後からチャキリと冷たい金属音が重なって響いた。
「はい、そこまでですわ!」
「法と経済の適正手続きへ移行いたしましょう」
キャルルが木製ダブルトンファーを構えて火原の退路を塞ぎ、リバロンが冷徹な手際で魔導封じの手枷を火原の両手首へ叩き込む。
横ではニャングルが、巨大な請求書と帝国警察への逮捕引渡書を手に、悪魔の笑みを浮かべていた。
欺瞞と暴力に塗れた詐欺師たちへの完全なる審判が、今まさに下されようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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