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『万有引力は異世界にも働くのか』  作者: 赤CABINたーる1


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一冊の帳簿から。

「先生、起きてるかい!」


扉の向こうから、マーサの声が聞こえた。


ニュートンは机に突っ伏して眠っていた。


傍らには、昨夜読みかけた『初等魔法理論』が開かれている。


「……はい」


顔を上げる。


窓の外は、すでに明るかった。


「今日は帳簿を手伝ってくれるんだろう!」


「……そうでした」


ニュートンは慌てて立ち上がった。




一階へ降りると、食堂の机に大量の紙が積まれていた。


マーサは腕を組み、その山を睨んでいる。


「おはようございます」


「おはよう、先生。朝飯はそこにあるよ」


机の端には、パンと温かいスープが置かれていた。


「ありがとうございます」


「食べ終わったら、こいつをお願いできるかい?」


マーサは紙の山を指さした。


ニュートンは頷いた。


「承知しました」


「助かるよ。どうにも数字ってやつは苦手でねえ」


マーサは苦笑した。


「うちの亭主が生きてた頃は、全部あの人に任せてたんだけどさ」


ニュートンは顔を上げた。


「ご主人が?」


「ああ。三年前に病気でね」


マーサは何でもないことのように言った。


「それからは一人で切り盛りしてるんだけど、どうにも帳簿だけは慣れなくてね」


「……そうでしたか」


「そんな顔しなくていいよ。もう三年も前のことさ」


マーサは笑った。


「ほら、冷めないうちに食べな」


ニュートンは静かに頷いた。




朝食を終えると、ニュートンは帳簿を広げた。


そこには宿泊客の名前、宿代、食事代、仕入れの記録などが書き込まれていた。


数字は決して複雑ではない。


しかし、記入の仕方が統一されておらず、同じ費用が異なる項目に書かれていることもあった。


ニュートンは紙を一枚取り出した。


「マーサさん」


「何だい?」


「この帳簿は、いつからこの形式で?」


「ずっと昔からだよ。亭主が使ってたやり方を、そのまま真似してるんだ」


「なるほど」


ニュートンはしばらく考えた。


そして、新しい紙に線を引き始めた。


「少し、形式を変えてもよろしいでしょうか」


「形式?」


「ええ。収入と支出を分け、日付ごとに整理した方が、間違いを見つけやすくなります」


「そんなことができるのかい?」


「難しいことではありません」


ニュートンは紙をマーサに見せた。


「こちらに宿泊代、こちらに食事代。そして、こちらに仕入れの費用を書きます」


「ふむふむ」


「一日の終わりに、それぞれを合計します」


「なるほどねえ」


マーサは感心したように頷いた。


「先生、あんた本当に数字が得意なんだね」


「多少は」


「多少どころじゃないよ!」


ニュートンは微笑んだ。




昼近くになった頃。


ニュートンは一つの記録に目を留めた。


『小麦粉 二袋』


その横には、支払った金額が書かれている。


次の週にも、同じ記録があった。


しかし、金額が異なっていた。


「……ふむ」


ニュートンはさらに帳簿をめくった。


一か月前。


二か月前。


三か月前。


同じ小麦粉を仕入れているにもかかわらず、価格が少しずつ上昇している。


「マーサさん」


「何だい?」


「小麦粉の値段が上がっていますね」


「ああ、そうなんだよ」


マーサは厨房から顔を出した。


「最近は何でも高くなっちまってねえ」


「何か理由があるのでしょうか」


「さあねえ。商人たちは、北の方で荷馬車が通れなくなったとか言ってるけど」


「道が?」


「魔物が増えたんだとさ」


ニュートンは顔を上げた。


「魔物ですか」


「ああ。北の街道は昔から危ないところもあるんだけど、最近は特にひどいらしいよ」


マーサはため息をついた。


「そのせいで荷物が届かないんだと。困ったもんだね」


ニュートンは帳簿に目を戻した。


価格の上昇。


輸送路の問題。


物資の不足。


この世界にも、当然ながら経済活動が存在する。


そして、魔物の存在は人々の暮らしに直接影響している。


ニュートンは小さく頷いた。


「……なるほど」




昼食の時間になると、宿の食堂には数人の客が集まった。


その中に、見覚えのある顔があった。


「おっ、先生じゃないか!」


リーナだった。


「こんにちは」


「何してるの?」


「帳簿の整理です」


「へえ」


リーナは机に積まれた紙を覗き込んだ。


「……うわ、数字だらけ」


「宿の収支を整理しています」


「よくそんなの見てられるわね」


「慣れていますから」


リーナは椅子に腰掛けた。


「そういえば、昨日の水晶はどうだった?」


「興味深い結果が得られました」


「またそれ?」


「ええ」


ニュートンは微笑んだ。


リーナは呆れたように笑った。


「ほんと、いつも同じこと言うわね」


マーサが料理を運んできた。


「リーナちゃん、今日は仕事帰りかい?」


「うん。北の街道の護衛依頼を受けてきたところ」


マーサの手が止まった。


「北の街道?」


「そう。最近、魔物が増えてるんだって」


「危ないんじゃないのかい?」


「大丈夫よ。ちゃんと人数もいるし」


リーナは明るく笑った。


「それに、報酬もいいからね」


マーサは少し心配そうな顔をした。


「無茶するんじゃないよ」


「分かってるって!」


ニュートンは二人の会話を聞いていた。


「リーナさん」


「何?」


「その護衛依頼は、いつ出発するのですか?」


「明後日よ」


「そうですか」


「どうしたの?」


「いえ。少し気になりまして」


ニュートンは帳簿へ目を戻した。


小麦粉の価格。


輸送路の問題。


そして、護衛依頼。


別々の出来事に見えていたものが、同じ原因で結びついていた。




午後。


ニュートンは帳簿の整理を終えた。


マーサは新しく作られた表を眺めていた。


「……へえ」


何度も紙をめくる。


「こりゃ見やすいねえ」


「今後は、この形式で記録するとよいでしょう」


「ありがたいよ、本当に」


マーサは引き出しから小さな袋を取り出した。


「ほら、今日の分だ」


中には硬貨が入っていた。


ニュートンは受け取ると、頭を下げた。


「ありがとうございます」


「いやいや、こっちこそ助かったよ」


マーサは笑った。


「これなら、先生がいなくなっても何とかなりそうだ」


ニュートンは少し驚いた。


「……私がいなくなっても?」


「そりゃそうだろう。あんた、いつまでもここにいるわけじゃないんだろ?」


ニュートンは答えなかった。


確かに、ここは仮の宿だった。


元の世界へ戻る方法も分かっていない。


この町に留まる理由も、今のところはない。


しかし。


「……そうですね」


ニュートンは静かに頷いた。


マーサは笑った。


「まあ、いる間は好きにしておくれ。部屋が空いてる限りは、泊めてやるからさ」


「ありがとうございます」




夕方。


ニュートンは宿の裏庭に出た。


手には、今日の報酬が入った小さな袋がある。


中身を数える。


筆記具を買うには十分だった。


しかし、魔法の専門書を買うには、まだ足りない。


ニュートンは袋をしまった。


「……仕事が必要だな」


呟いた。


研究を続けるには、道具が必要だった。


紙。


インク。


測定器。


そして、書物。


どれも無料では手に入らない。


元の世界では、研究のための環境があった。


しかし、この世界では違う。


自分で生活を支えなければならない。


ニュートンは空を見上げた。


青空の向こうには、薄く白い月が一つ見えていた。


もう一つの月は、まだ姿を現していない。


「……ふむ」


彼はしばらく空を眺めていた。


やがて、懐から紙を取り出した。


『月の位置の観測』


新しい項目を書き加える。


研究したいことは、いくらでもあった。




翌朝。


ニュートンは中央通りの書店を訪れた。


扉を開けると、小さな鈴が鳴った。


「こんにちは」


「おや、先生」


店主の老人が顔を上げた。


「今日は何の用だね?」


「筆記具を買いに来ました」


「珍しいな。今日は質問じゃないのか」


「質問もあります」


「やっぱりか」


老人は笑った。


ニュートンも微笑んだ。


「まずは、紙とインクをいただけますか」


「分かった。少し待っていなさい」


老人が棚を探している間、ニュートンは店内を見回した。


エマの姿はなかった。


「今日はエマはいないのですか?」


「ああ。学校だよ」


「そうですか」


「最近は、帰ってくるなり魔法の練習ばかりしておる」


老人は苦笑した。


「先生の影響かもしれんな」


「それは光栄です」


「まったく。あの子まで研究者になったら、わしの店はどうなることやら」


そう言いながら、老人は紙とインクを差し出した。


ニュートンは代金を支払った。


「ところで」


老人が言った。


「先生は、今後どうするつもりなんだね?」


「今後、ですか」


「ああ。この町に住むのか。それとも、どこかへ行くのか」


ニュートンは少し考えた。


「まだ決めていません」


「そうか」


「ただ、魔法について学びたいとは考えています」


老人は頷いた。


「ならば、いずれ王都へ行くことになるかもしれんな」


「学院があると聞きました」


「ああ。大きな魔法学院がある」


老人は棚に手を伸ばした。


そして、一冊の薄い本を取り出した。


「これを読んでみるといい」


表紙には『王立魔法学院案内』と書かれていた。


ニュートンは本を受け取った。


「ありがとうございます」


「ただし、学院へ入るのは簡単ではないぞ」


「試験があるのですか?」


「それもある。だが、何より金がかかる」


ニュートンは苦笑した。


「……やはり、そうですか」


老人は笑った。


「学問というのは、昔から金のかかるものだ」


「まったくです」


二人は小さく笑った。




ニュートンが帰ろうとしたとき。


老人が、ふと思い出したように言った。


「そうだ、先生」


「はい」


「計算は得意かね?」


ニュートンは少し考えた。


「多少は」


老人は笑った。


「その『多少』は、信用していいのかね?」


「どうでしょう」


「実はな、知り合いの商人が困っておってね」


「商人?」


「ああ。荷の積み方について、少し計算のできる者を探しているそうだ」


ニュートンは興味を示した。


「どのような計算でしょう?」


「詳しくは知らんが、荷車に積める量を増やしたいらしい」


老人は紙を一枚取り出した。


「北の街道を通る商人でな。最近は護衛を雇う費用も高くなっているから、一度に運べる荷物を増やしたいんだと」


ニュートンは紙を受け取った。


そこには、商人の名前と店の場所が書かれていた。


「報酬は出るのでしょうか」


「もちろん。うまくいけば、それなりの額になるはずだ」


ニュートンはしばらく考えた。


そして、頷いた。


「一度、お話を伺ってみます」


「そうするといい」


老人は微笑んだ。


「先生の頭が役に立つなら、商人も喜ぶだろう」




書店を出たニュートンは、紙に書かれた住所を確認した。


中央通りから少し離れた商業区。


歩いて行ける距離だった。


ニュートンは足を向けた。


道中、何台もの荷馬車が通り過ぎていった。


大きな車輪。


木製の荷台。


積み上げられた木箱。


そして、それを引く馬。


ニュートンはしばらく足を止め、荷馬車を眺めた。


「……なるほど」


荷物の積み方。


重心の位置。


車輪にかかる負荷。


道の傾斜。


考えるべきことはいくつもあった。


しかし、最も重要なのは、実際に荷馬車を見てみることだろう。


ニュートンは歩き始めた。




商業区の一角。


大きな倉庫の前に、数台の荷馬車が停められていた。


男たちが忙しそうに木箱を運んでいる。


その中央で、一人の中年男性が声を張り上げていた。


「違う! そっちじゃない!」


「旦那、もう積めませんよ!」


「まだ空いてるだろうが!」


「これ以上積んだら、車軸が折れちまいます!」


男は頭を抱えた。


「くそっ……」


ニュートンは少し離れた場所から、その様子を眺めていた。


荷馬車の荷台には、大きさの異なる木箱が積み重ねられている。


上部にはまだ空間があった。


しかし、車輪の近くでは木材が軋んでいた。


「……失礼」


ニュートンは声をかけた。


男が振り返った。


「何だ?」


「こちらで、荷の積み方について相談を受けていると伺ったのですが」


男はニュートンを見つめた。


「……あんたが?」


「はい」


「計算ができるっていう?」


「多少は」


男はため息をついた。


「まあ、いい。今は猫の手も借りたいところだ」


そして、荷馬車を指さした。


「見ての通りだ。荷物をもっと積みたい。だが、これ以上は車軸がもたん」


ニュートンは荷馬車へ近づいた。


荷台の下を覗き込む。


車軸。


車輪。


木製の支持部。


そして、積み上げられた荷物。


しばらく観察したあと、ニュートンは顔を上げた。


「一つ、確認してもよろしいでしょうか」


「何だ?」


「この荷馬車は、普段どの程度の荷物を運んでいるのですか?」


男は答えた。


「大体、今くらいだな」


「では、今回だけ荷物を増やしたい理由は?」


男は顔をしかめた。


「護衛代だよ。最近は北の街道が危なくてな。一度の輸送にかかる金が馬鹿にならん」


ニュートンは頷いた。


「なるほど」


そして、もう一度荷馬車を見た。


「……でしたら」


男が身を乗り出した。


「何か方法があるのか?」


ニュートンは少し考えた。


「まず、荷物をすべて降ろしていただけますか」


男は目を丸くした。


「……は?」


「一度、すべて降ろしていただきたいのです」


「おいおい、何を言ってるんだ!」


男は声を荒らげた。


「今まで何時間かけて積んだと思ってる!」


ニュートンは落ち着いて答えた。


「存じません」


「……何だと?」


「ですが、今の状態では、何が問題なのかを正確に調べることができません」


男は言葉に詰まった。


ニュートンは荷馬車の車輪を指さした。


「車軸にかかる負荷を調べるには、まず荷物の重量と、その位置を知る必要があります」


「……それで?」


「積み直す前に、どの荷物をどこへ置くべきかを考えます」


男はしばらくニュートンを見つめていた。


そして、大きくため息をついた。


「……分かったよ」


作業員たちへ振り返る。


「おい! 一度全部降ろせ!」


「ええっ!?」


倉庫の前に、男たちの悲鳴が響いた。


ニュートンは懐から紙と筆を取り出した。


そして、荷馬車の寸法を測り始めた。

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