測れないもの。
「……おかしい」
ニュートンは机の上に広げた紙を見つめていた。
そこには、数日前に冒険者ギルドで行った実験の記録が書かれている。
『水晶は魔力に反応して発光する』
『魔力の属性によって光の色が変化する』
『紙を挟んだ状態でも反応する』
『紙の厚さを増すと、発光が弱まる』
ニュートンは最後の一文に指を置いた。
「……なぜだ?」
あの日、ギルドで見た水晶は、実に興味深い性質を持っていた。
受付係が触れると青く、リーナが触れると赤く光る。
しかし、自分が触れても何も起こらなかった。
指先でも、手の甲でも、結果は同じだった。
ところが、魔力を持つ者が紙を挟んで触れた場合、水晶は反応した。
しかも、紙を厚くすると光は弱くなった。
これは何を意味するのだろう。
魔力は紙を通過するのか。
それとも、紙を隔てても何らかの作用が水晶に届くのか。
ニュートンは『初等魔法理論』を開いた。
昨日、書店の老人から譲り受けた本である。
そこには、魔力について次のように記されていた。
『魔力は生物の体内に蓄積され、術者の意思によって放出される』
『魔力の消費量は、術式の規模および持続時間に比例して増大する』
ニュートンはしばらく考え込んだ。
「……放出、か」
もし魔力が身体から放出される何らかの実体であるならば、紙によってその一部が遮られている可能性がある。
しかし、そうであるとは限らない。
水晶が反応しているのは魔力そのものではなく、魔力によって生じた別の現象かもしれない。
あるいは、紙が水晶の感度に影響している可能性もある。
ニュートンは筆を取った。
『水晶の発光が弱まる原因は、現時点では不明』
そして、その下に書き加えた。
『紙以外の物質でも、同様の現象が起こるか』
「またギルドに行くの?」
朝食の席で、リーナが尋ねた。
「ええ。以前の実験について、もう少し調べたいことがあります」
「水晶のこと?」
「はい」
リーナはパンを口に運びながら、呆れたように笑った。
「よっぽど気に入ったのね、あれ」
「興味深い装置ですから」
「でも、あれって魔力を測るだけの道具よ?」
「その『測る』ということが、問題なのです」
「……どういうこと?」
ニュートンは少し考えた。
「例えば、あなたの身長を測るとしましょう」
「うん」
「その場合、物差しを使えば長さを知ることができます」
「そうね」
「では、魔力は何を基準に測っているのでしょう?」
リーナは首を傾げた。
「……魔力の量じゃないの?」
「その量を、どのように定めているのかということです」
「ええと……」
リーナはしばらく考えたあと、両手を上げた。
「分かんない!」
ニュートンは頷いた。
「私もです」
「なんで嬉しそうなのよ!」
リーナは笑った。
「まあ、いいわ。今日は昼からギルドに行く予定だし、一緒に来る?」
「よろしいのですか?」
「ただし、今日は私も仕事があるから、ずっと付き合ってあげられないわよ」
「承知しました」
「本当に?」
「できる限り」
「またそれ!」
冒険者ギルドは、今日も多くの人で賑わっていた。
依頼書の貼られた掲示板の前には冒険者たちが集まり、受付では何人もの職員が忙しそうに働いている。
ニュートンとリーナは、以前と同じ受付へ向かった。
「あら、リーナさん」
受付係の女性が顔を上げた。
「こんにちは」
「今日は依頼の報告ですか?」
「それもあるんだけど、こっちの人がまた水晶を調べたいんだって」
受付係はニュートンを見た。
そして、思い出したように微笑んだ。
「ああ、以前いろいろ試されていた方ですね」
「その節はありがとうございました」
ニュートンは頭を下げた。
「本日は、前回の実験をもう少し詳しく調べたいのですが」
「どのようなことですか?」
「紙を挟んだ際の反応についてです」
受付係は少し考えた。
「前回のような簡単な確認でしたら構いませんが、測定器はギルドの備品ですので、長時間の使用は難しいですね」
「承知しました」
「それでしたら、今は登録希望者も少ないので、少しだけお使いいただけますよ」
「ありがとうございます」
水晶は以前と同じものだった。
拳ほどの大きさの透明な球体。
台座に固定され、内部には淡い光が漂っている。
ニュートンは持参した紙を机に並べた。
「まずは、何も挟まない状態でお願いします」
リーナが水晶に手を触れる。
赤い光が広がった。
「次に、紙を一枚挟んでください」
リーナは紙を置き、その上から手を重ねた。
光は先ほどより弱くなった。
「では、二枚」
さらに弱くなった。
「四枚」
水晶の内部には、かすかな赤い光が残った。
ニュートンは記録を書き込んだ。
「……なるほど」
「前と同じじゃない?」
リーナが言った。
「ええ。少なくとも、前回の結果を再現できました」
「それって大事なの?」
「非常に」
ニュートンは頷いた。
「一度だけ起こった現象では、偶然や見間違いの可能性がありますから」
続いて、ニュートンは布を取り出した。
「今度はこちらを挟んでください」
「布?」
「はい」
リーナが布越しに水晶へ触れる。
赤い光が灯った。
しかし、紙を挟んだ場合とは明るさが異なっていた。
「……ほう」
ニュートンは身を乗り出した。
「次は、この木片を」
「木まで持ってきたの!?」
「薄いものを選びました」
リーナは苦笑しながら木片を受け取った。
水晶の上に置き、手を重ねる。
今度は、ほとんど光らなかった。
「……反応しませんね」
ニュートンは呟いた。
「木だと駄目なのかしら」
「まだ分かりません」
ニュートンは木片を手に取った。
「紙と木では、厚さも異なります。材質による違いなのか、厚さによる違いなのか、これでは判断できません」
「じゃあ、もっと薄い木を持ってくれば?」
「そうですね」
ニュートンは頷いた。
「あるいは、紙をさらに重ねて、同程度の厚さにする方法もあります」
受付係が苦笑した。
「申し訳ありませんが、そろそろ次の方がいらっしゃいますので……」
ニュートンは顔を上げた。
「失礼しました」
慌てて道具を片づける。
リーナは小さく笑った。
「ほら、言ったでしょ。ずっとは使えないって」
「ええ。ですが、十分に興味深い結果が得られました」
「よかったわね」
ギルドを出ると、リーナは依頼のために別の場所へ向かった。
ニュートンは一人、中央通りを歩いていた。
手には実験の記録がある。
紙。
布。
木。
異なる物質を挟むと、水晶の反応が変化する。
しかし、その原因は分からない。
そもそも、光の強さを目で比較していること自体に問題があった。
人間の目は、光のわずかな違いを正確に測定できるわけではない。
「……数値が必要だ」
ニュートンは呟いた。
だが、どうすればよいのだろう。
水晶の発光を、何らかの方法で比較する。
例えば、同じ距離に置いた紙をどの程度照らすか。
あるいは、光によって生じる影の濃さを比較する。
いくつかの方法が頭に浮かんだ。
しかし、どれも十分な精度を得られるとは限らなかった。
考えながら歩いているうちに、見覚えのある看板が目に入った。
『古書と筆記具』
ニュートンは足を止めた。
「おや、先生じゃないか」
書店の老人が顔を上げた。
「こんにちは」
「昨日も来たばかりだろう」
「ええ。今日は少しお聞きしたいことがありまして」
老人は笑った。
「また魔法かね」
「はい」
「まったく、熱心なことだ」
ニュートンは机に記録を広げた。
「魔力測定器についてなのですが」
その言葉を聞いた老人の表情が、わずかに変わった。
「……測定器?」
「はい。ギルドで使われている水晶です」
ニュートンは紙を指さした。
「魔力を持つ者が直接触れると発光します。しかし、間に物質を挟むと反応が弱まるのです」
老人は黙って記録を見つめた。
「紙を厚くするほど、光は弱くなりました。また、布や木でも反応が異なりました」
「……ほう」
「ただし、光の強さを目視で判断しているため、正確な比較ができません」
ニュートンは老人を見た。
「魔力測定器の発光を、数値として記録する方法はあるのでしょうか」
老人はしばらく黙っていた。
そして、椅子から立ち上がった。
「少し待っていなさい」
店の奥へ消えていく。
ニュートンは本棚を眺めながら待った。
やがて老人が戻ってきた。
手には、一枚の古い紙が握られていた。
「これを見てみなさい」
紙には、複雑な図が描かれていた。
中央には円形の装置。
その周囲には、細かな目盛りと記号が並んでいる。
「……これは?」
「昔の魔力測定器の設計図だ」
ニュートンは目を凝らした。
「この目盛りは……」
「光の強さを比較するためのものだ」
「では、魔力量を数値として表せるのですか?」
老人は首を横に振った。
「そう単純な話ではない」
ニュートンは顔を上げた。
「どういうことでしょう?」
「例えば、同じ魔力量を持つ二人がいたとしても、測定器の反応が同じになるとは限らん」
「……なぜです?」
「魔力の性質が異なるからだ」
老人は図の一部を指さした。
「魔力には属性がある。それは知っているだろう?」
「はい」
「属性が異なれば、水晶の反応も変わる。単純に光の強さだけを比べても、魔力の量を正しく比較できるとは限らんのだ」
ニュートンは設計図を見つめた。
「……なるほど」
同じ量でも、性質が異なれば測定結果が変わる。
それは、測定器が対象そのものではなく、対象と装置の相互作用を観測している可能性を示していた。
「では、この装置は……」
ニュートンは図の中央を指さした。
「属性による反応の違いを補正するためのものですか?」
老人の眉が動いた。
「……なかなか鋭いな」
「違いますか?」
「いや。大筋では合っている」
ニュートンは紙に目を戻した。
そこには、彼の知らない記号がいくつも並んでいた。
しかし、図の構造には見覚えがあった。
測定対象から何らかの作用を受け、それを別の量へ変換する。
そして、変換された結果を目盛りで読み取る。
原理こそ不明だが、測定器としての考え方は理解できた。
「この装置を作られた方は、どなたなのでしょう?」
ニュートンが尋ねた。
老人は答えなかった。
代わりに、設計図をゆっくりと折り畳んだ。
「……昔の研究者だよ」
「その方は、今も研究を?」
「いや」
短い返事だった。
ニュートンは老人を見つめた。
しかし、それ以上は尋ねなかった。
「お兄さん!」
店の奥から声が聞こえた。
エマだった。
少女は一枚の紙を手に、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「ちょうどよかった!」
「こんにちは、エマ」
「見て見て!」
エマは紙を広げた。
そこには、いくつもの丸と数字が書かれていた。
「昨日からね、光を出せる時間を測ってたの!」
「ほう」
ニュートンは紙を覗き込んだ。
「最初は三十秒くらいだったんだけど、今日は四十秒できたの!」
「それは素晴らしい」
「でしょ!」
エマは得意げに笑った。
「でもね、何回もやると短くなっちゃうの」
「なるほど」
ニュートンは頷いた。
「疲労による影響かもしれませんね」
「だから、休んでからもう一回やってみたの!」
「結果は?」
「また長くできた!」
ニュートンは微笑んだ。
「よく観察していますね」
エマは嬉しそうに笑った。
その様子を、老人は黙って見つめていた。
やがてエマが言った。
「ねえ、お兄さん」
「何でしょう?」
「私も、いつかおじいちゃんみたいに魔法の研究ができるかな?」
ニュートンは少し考えた。
「もちろん、できると思います」
「本当?」
「ええ。ただし、研究には根気が必要です」
「根気?」
「すぐに答えが出なくても、諦めずに考え続けることです」
エマは少し考えた。
そして、大きく頷いた。
「分かった!」
少女は紙を大切そうに抱えた。
「じゃあ、明日も測ってみる!」
ニュートンは微笑んだ。
「楽しみにしています」
帰り際。
老人がニュートンを呼び止めた。
「先生」
「はい」
「少し、聞いてもいいかね」
「何でしょう」
老人はしばらく考えていた。
そして、静かに口を開いた。
「もし、あるものを正確に測る方法が見つかったとして」
ニュートンは黙って聞いていた。
「それを、誰もが自由に測れるようにするべきだと思うかね」
奇妙な質問だった。
ニュートンは少し考えた。
「……何を測るかによるでしょう」
老人は目を細めた。
「ほう」
「測定によって知識を得ることと、その知識をどう扱うかは、別の問題です」
「……そうか」
老人は小さく頷いた。
「そうだな」
しばらく沈黙が続いた。
やがて老人は、設計図を引き出しにしまった。
「また来なさい、先生」
「ありがとうございます」
ニュートンは頭を下げた。
宿へ戻る道すがら、ニュートンは老人の言葉を思い返していた。
測る方法が見つかったとして。
それを、誰もが自由に測れるようにするべきか。
なぜ、あの老人はそんな質問をしたのだろう。
単なる学問上の問題ではないように感じられた。
しかし、今は判断する材料がない。
ニュートンは考えるのをやめ、歩き始めた。
宿に戻ると、マーサが夕食の準備をしていた。
「おかえり、先生」
「ただいま戻りました」
「今日はどうだった?」
「大変興味深い一日でした」
「そりゃよかった」
マーサは笑った。
「ところで先生、明日は帳簿を手伝ってくれるんだろうね?」
ニュートンは立ち止まった。
「……あ」
「忘れてたのかい?」
「申し訳ありません」
マーサは呆れたように笑った。
「まったく。研究もいいけど、食べていくことも考えなきゃいけないよ」
「おっしゃる通りです」
ニュートンは頭を下げた。
その夜。
ニュートンは机に向かい、今日の実験記録を整理した。
紙。
布。
木。
それぞれの物質によって、水晶の反応は変化した。
しかし、光の強さを正確に測ることはできなかった。
さらに、書店の老人から聞いた話によれば、属性によっても反応が異なるという。
つまり、同じ光の強さが、同じ魔力量を意味するとは限らない。
ニュートンは筆を取った。
『測定値は、必ずしも測定対象そのものを表すとは限らない』
そして、もう一行を書き加えた。
『何を測っているのかを知らずに、数値だけを信じてはならない』
筆を置き、窓の外を見た。
二つの月が、夜空に浮かんでいた。
ニュートンはしばらくその光を眺めていた。
やがて、机の上に置かれた本へ目を戻す。
『初等魔法理論』
まだ読み終えていないページが、数多く残されている。
ニュートンは小さく笑った。
「……学ぶことが多いな」
そして、今日の記録の最後に一行を書き加えた。
『明日は帳簿』




