知の灯火。
「そいつは売り物じゃないよ」
ニュートンは手に取った本を見つめたまま、顔を上げた。
「売り物ではない?」
「そうさ。そっちの棚は古い本を置いてるだけでね。売るには傷みすぎてるんだ」
店主の老人は、椅子に腰掛けたまま答えた。
ニュートンはもう一度、手元の本に目を落とした。
革張りの表紙は擦り切れ、背表紙には小さな亀裂が走っている。
しかし、中身は十分に読むことができた。
『初等魔法理論』
表紙にはそう記されていた。
「では、こちらを読ませていただくことは可能でしょうか」
「読むだけなら構わんよ。ただし、破くんじゃないぞ」
「ありがとうございます」
ニュートンは深く頭を下げた。
その日の朝。
ニュートンはマーサに教えられた中央通りの書店を訪れていた。
宿から歩いて十五分ほど。
石畳の道を進み、大きな噴水のある広場を抜けた先に、その店はあった。
看板には『古書と筆記具』と書かれている。
店内は狭かった。
壁一面に本棚が並び、床にも書物が積み重ねられている。
窓から差し込む光の中を、小さな埃が漂っていた。
ニュートンにとって、それは不快な場所ではなかった。
むしろ、どこか懐かしさすら感じさせた。
「魔法の本を探しているのかね」
店主が尋ねた。
「ええ。できれば、その原理について書かれたものを」
「原理?」
老人は眉を上げた。
「魔法の使い方じゃなくてか?」
「はい」
「変わった客だな」
そう言いながら、老人は店の奥を指さした。
「右の棚だ。上が実用書、下が理論書になってる」
「ありがとうございます」
ニュートンは棚へ向かった。
そこには数十冊の書物が並んでいた。
『火属性魔法入門』
『魔力循環と身体強化』
『精霊術の基礎』
『魔法陣構築論』
そして、先ほど手に取った『初等魔法理論』。
ニュートンは迷わず最後の一冊を開いた。
最初の数ページは、魔法の分類について書かれていた。
火、水、風、土。
そして、それらとは異なる性質を持つ魔法。
回復、強化、幻惑、転移。
分類方法は、ニュートンの知る自然哲学とは大きく異なっていた。
彼はページをめくった。
『魔法とは、術者の有する魔力を用い、自然界に存在する現象を人為的に変化させる技術である』
ニュートンはその一文を何度も読み返した。
自然界に存在する現象。
つまり、この世界の学者たちも、魔法を自然現象と結びつけて考えている。
さらに読み進める。
『魔力は生物の体内に蓄積され、精神の働きによって放出される』
『魔力の総量には個体差があり、訓練によって一定の増加が認められる』
『魔力を失った生物は疲労し、休息によって回復する』
昨日、リーナから聞いた話と一致していた。
しかし、ニュートンが最も興味を持ったのは、その次の記述だった。
『魔力そのものの重量は、現在まで確認されていない』
ニュートンは指を止めた。
「……重量がない?」
思わず声が漏れた。
「何かあったかね」
店主が顔を上げた。
「いえ。少し興味深い記述がありまして」
「ほう」
「この本によれば、魔力には重量がないそうです」
「そう書いてあるなら、そうなんだろう」
「しかし、どのような方法で確かめたのでしょうか」
老人は肩をすくめた。
「さあな。わしは本を売るのが仕事で、魔法を研究してるわけじゃないからね」
「そうですか」
ニュートンは再び本に目を戻した。
重量がない。
それは、重量が存在しないことを意味するのだろうか。
それとも、測定できなかっただけなのだろうか。
二つはまったく異なる。
彼は本の余白に何かを書き込もうとして、慌てて手を止めた。
借り物の本だった。
昼を過ぎても、ニュートンは本を読み続けていた。
店主は何度か様子を見に来たが、やがて何も言わなくなった。
ニュートンは床に置かれた小さな椅子に腰掛け、膝の上に本を広げていた。
そのときだった。
「おじいちゃん、ただいま!」
店の扉が開いた。
十歳ほどの少女が、籠を抱えて入ってきた。
肩まで伸びた茶色い髪を後ろで結び、頬には小さなそばかすが散っている。
「おう、帰ったか」
店主は顔を上げた。
「頼んだものは買えたか?」
「うん! パンとお野菜。それから、頼まれてたインクも!」
少女は籠を机の上に置いた。
そして、店内にいるニュートンに気づいた。
「あれ、お客さん?」
「そうだ。魔法の本を読んでるんだと」
「へえ!」
少女は興味深そうに近づいてきた。
「お兄さん、魔法使いなの?」
「いえ。私は魔法を使えません」
「えっ!」
少女は驚いた。
「じゃあ、どうして魔法の本を読んでるの?」
「使えないからこそ、知りたいのです」
「……?」
少女は首を傾げた。
ニュートンは微笑んだ。
「あなたは魔法を使えますか?」
「うん! ちょっとだけ!」
少女は得意げに右手を差し出した。
すると、指先に小さな光が灯った。
蝋燭の炎ほどの明るさだった。
「ほら!」
「素晴らしいですね」
「えへへ」
少女は嬉しそうに笑った。
「でも、まだこれしかできないの。おじいちゃんは昔、もっとすごい魔法が使えたんだって!」
「ほう」
ニュートンは店主を見た。
老人は苦笑した。
「大昔の話だよ」
「本当だよ! おじいちゃん、昔は魔法の先生だったんだから!」
ニュートンの表情が変わった。
「……魔法を教えていらしたのですか?」
「まあ、少しな」
老人はそう答えると、机の上の書類を整理し始めた。
「もう何十年も前のことだ」
「それでしたら、ぜひお聞きしたいことが――」
「悪いが、昔のことはあまり覚えておらん」
老人はニュートンの言葉を遮った。
声は穏やかだった。
しかし、それ以上の質問を望んでいないことは明らかだった。
ニュートンは口を閉じた。
「……失礼しました」
老人は何も答えなかった。
少女の名前はエマといった。
両親は別の町で働いており、今は祖父と二人で暮らしているという。
エマはニュートンの隣に腰掛け、彼が読んでいる本を覗き込んだ。
「難しそう」
「少し難しいですね」
「お兄さん、頭いいの?」
「どうでしょう。知らないことばかりですから」
「でも、こんな本読めるんでしょ?」
「読めることと、理解できることは違います」
エマは不思議そうな顔をした。
「よく分かんない」
ニュートンは小さく笑った。
「あなたは学校に通っているのですか?」
「うん。でも今日はお休み」
「魔法も習うのですか?」
「習うよ! でも、私はあんまり上手じゃないの」
「そうですか」
「同じクラスの子は、もう火を出せるんだよ。私なんて光るだけなのに」
エマは自分の指先を見つめた。
「おじいちゃんは、焦らなくていいって言うんだけどね」
ニュートンは少し考えた。
「エマさん」
「エマでいいよ」
「では、エマ。あなたは、その光をどれくらい長く出していられますか?」
「え?」
「試してみませんか」
エマは目を輝かせた。
「うん!」
少女は右手を差し出した。
指先に光が灯る。
ニュートンは壁に掛けられた時計へ目を向けた。
針が進む。
十秒。
二十秒。
三十秒。
やがて、エマの額に汗が浮かび始めた。
「……もう、無理!」
光が消えた。
エマは大きく息を吐いた。
「すごいですね」
ニュートンは言った。
「え?」
「三十秒以上も光を維持できました」
「でも、ただ光るだけだよ?」
「それでも、光を生み出していることに変わりはありません」
ニュートンは窓の外を指さした。
「太陽も光を放っています。蝋燭も、暖炉の炎も」
「うん」
「しかし、あなたの光には炎がありませんね」
「そうだよ?」
「熱はあるのでしょうか」
ニュートンは少し考えた。
「指先は熱くなりますか?」
「ううん。全然」
「なるほど」
ニュートンは頷いた。
「それは大変興味深い」
エマはきょとんとした。
「……何が?」
「光を出しているのに、熱をほとんど感じないということです」
「それってすごいの?」
「少なくとも、私には不思議なことです」
エマは自分の指を見つめた。
そして、もう一度小さな光を灯した。
「……そっか」
少女は少しだけ嬉しそうに笑った。
夕方。
ニュートンが本を閉じると、店主が声をかけてきた。
「もう帰るのかね」
「ええ。長い時間、ありがとうございました」
「構わんよ。どうせ客も少ない店だ」
ニュートンは本を棚へ戻そうとした。
そのとき、老人が言った。
「それは持っていきな」
「……よろしいのですか?」
「どうせ売り物にならん本だ」
「しかし」
「いいから持っていけ。棚の肥やしにしておくよりはましだ」
ニュートンは本を見つめた。
「ありがとうございます。大切に読ませていただきます」
老人は軽く手を振った。
その様子を見ていたエマが、突然声を上げた。
「あっ、そうだ!」
少女は店の奥へ走っていった。
しばらくして、小さな紙を持って戻ってきた。
「これ、お兄さんにあげる!」
紙には、拙い文字で何かが書かれていた。
『エマの魔法研究』
その下には、小さな丸がいくつも描かれている。
「私も研究することにしたの!」
「研究ですか」
「うん! お兄さんみたいに!」
ニュートンは紙を受け取った。
「それは素晴らしいですね」
「今度来たとき、何か分かったら教えてあげる!」
「楽しみにしています」
エマは満面の笑みを浮かべた。
ニュートンは紙を丁寧に折り、本の間に挟んだ。
「では、また」
「うん! またね!」
店を出ると、夕暮れの光が石畳を赤く染めていた。
ニュートンは手にした本を見つめた。
今日一日で、分かったことは決して多くない。
むしろ、疑問は増えるばかりだった。
だが、それでよかった。
知らないことがある。
それを知るための手段がある。
そして、同じように知ろうとする人々がいる。
ニュートンは歩き始めた。
その夜。
書店の老人は、一人で店の奥にいた。
エマはすでに眠っている。
机の上には、古びた一冊の本が置かれていた。
老人は表紙を指でなぞった。
『魔力変換に関する研究』
著者の名前は、擦り切れて読めなくなっていた。
老人は本を開いた。
そこには、複雑な図形と数式がびっしりと書き込まれていた。
何枚かページをめくる。
やがて、一枚の古い紙が挟まっていることに気づいた。
紙には、子供が描いたような小さな絵があった。
机を囲む三人の人物。
その上には、歪んだ文字でこう書かれていた。
『おとうさんと、おかあさんと、わたし』
老人は長い間、その絵を見つめていた。
そして、静かに本を閉じた。
店の外では、夜の鐘が鳴っていた。




