浮かぶ石、落ちる石。
翌朝。
ニュートンは、窓から差し込む光で目を覚ました。
見慣れない天井。
木製の梁には小さな亀裂が走り、壁際には古びた机が置かれている。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
しかし、窓の外から聞こえる人々の声が、昨日までの出来事を思い出させた。
ここはイングランドではない。
少なくとも、私の知るイングランドでは。
ニュートンは寝台から起き上がると、机の上に広げていた紙へ目を落とした。
昨夜書き留めた観察記録である。
『物体は地面へ向かって落下する』
『月と思われる天体が二つ存在する』
『魔法と呼ばれる現象が存在する』
その下には、少し大きな文字でこう記されていた。
『魔法は、何によって生じるのか』
ニュートンはしばらくその一文を眺めていた。
やがて紙を折り畳み、上着の内側へしまった。
まずは朝食を取ることにした。
一階へ降りると、女将のマーサが食堂の床を掃いていた。
「あら、先生。早いじゃないか」
「おはようございます」
「よく眠れたかい?」
「ええ。おかげさまで」
マーサは箒を壁に立てかけると、厨房へ向かった。
「昨日の帳簿のお礼もあるしね。朝飯くらいは食べていきな」
しばらくして、焼いたパンと温かいスープが運ばれてきた。
ニュートンが礼を述べ、パンを手に取ったときだった。
「おはよう!」
勢いよく扉が開いた。
リーナだった。
「もう起きてたんだ」
「ええ。あなたは随分と早いのですね」
「今日はギルドの仕事があるからね。朝のうちに寄っておこうと思って」
リーナはニュートンの向かいに腰を下ろした。
「それで、昨日はどうだった? ちゃんと眠れた?」
「ええ。ですが、少し考え事をしていました」
「考え事?」
「魔法についてです」
リーナは目を丸くした。
「また?」
「また、とは?」
「昨日もずっと魔法のこと聞いてたじゃない」
「まだ何も分かっていませんから」
ニュートンは当然のように答えた。
リーナは呆れたように笑った。
「本当に変わった人ね」
そう言いながら、彼女は自分の指先に小さな炎を灯した。
「そんなに気になるなら、何か見せてあげようか?」
ニュートンの手が止まった。
「ぜひ、お願いします」
朝食を終えた二人は、宿の裏手にある小さな空き地へ出た。
そこには薪が積まれ、使われなくなった木箱がいくつか置かれていた。
「ここなら多少魔法を使っても平気よ」
リーナはそう言って、地面に落ちていた小石を拾い上げた。
「まずは簡単なところからね」
彼女は石を地面に置き、右手をかざした。
「見てて」
次の瞬間。
小石がふわりと浮き上がった。
高さは、およそニュートンの膝ほど。
石は空中で静止していた。
「どう?」
リーナは得意げに笑った。
しかしニュートンは答えなかった。
石を見つめていた。
正確には、石と地面との間にある空間を。
「……触れても構いませんか?」
「え? 石に?」
「はい」
「いいけど」
ニュートンはゆっくりと手を伸ばし、石の下面に指を触れた。
硬い。
当然ながら、普通の石だった。
続いて、石を横から軽く押した。
石はわずかに動き、再び元の位置へ戻った。
「なるほど」
「何が?」
「もう一度、横から押しても?」
「どうぞ」
今度は少し強く押した。
石は先ほどより大きく動いたが、やはり元の位置へ戻った。
ニュートンは腕を組んだ。
「リーナさん。この石を浮かせるために、あなたは何をしているのですか?」
「何って……魔力で持ち上げてるのよ」
「その魔力は、石のどの部分に作用しているのでしょう?」
「どの部分?」
「表面でしょうか。それとも内部でしょうか」
「ええと……」
リーナは困ったように眉を寄せた。
「そんなこと、考えたことないわ」
「では、石が動くとき、あなたは石そのものを動かそうとしているのですか。それとも、石の周囲の空間に働きかけているのですか?」
「……ごめん。何を聞かれてるのか分からない」
ニュートンは少し考えた。
そして、質問を変えた。
「目を閉じていても、この石を動かせますか?」
「それならできるわよ」
リーナは目を閉じた。
石が左右に動いた。
「では、石の位置が分からなくなっても?」
「どういうこと?」
「少し試してみましょう」
ニュートンは近くにあった木箱を持ってきた。
そして、浮いている石の前に置いた。
リーナから石が見えなくなった。
「この状態で、石を上に動かしてください」
「分かった」
石が上昇した。
木箱の向こう側から、石の上半分が姿を現した。
「では、次です」
ニュートンは石を手に取り、木箱の陰で別の場所へ移した。
「今、石を移動させました。どこにあるか分かりますか?」
リーナは目を閉じたまま、右手をかざした。
しばらく沈黙が続いた。
「……あれ?」
「どうしました?」
「さっきまで分かったのに」
リーナは目を開けた。
「どこに置いたの?」
ニュートンは木箱の裏側を指さした。
石は最初の位置から、ほんの少し離れた場所にあった。
「そこ?」
リーナが手をかざすと、石は再び浮き上がった。
「……変ね。見れば普通にできるのに」
ニュートンは頷いた。
「興味深いですね」
「何が分かったの?」
「まだ何も。ただ、あなたが石を動かす際には、石の位置を把握することが重要なのかもしれません」
「そりゃそうでしょ。見えなかったら難しいもの」
「しかし、先ほどは目を閉じても動かせました」
「あ……」
「視覚そのものが必要なのではなく、石の位置を認識していることが重要なのかもしれません」
リーナは腕を組んだ。
「つまり?」
「今度は、石がどこにあるかを知っている状態で、目を閉じて試してみたいのです」
「それ、さっきやったじゃない」
「ええ。ですから次は、あなたが目を閉じている間に、私が石を移動させます」
「……それで?」
「あなたが気づかずに元の位置へ魔法を使った場合、何が起こるのかを確かめたいのです」
リーナは少し考えたあと、頷いた。
「いいわよ」
実験は思ったより難航した。
最初の数回、リーナは石が移動したことに気づいてしまった。
「なんとなく分かるのよ。魔力が触れてる感じがするから」
「では、石に触れている感覚があるのですね」
「うーん……触れてるっていうのとも違うんだけど」
ニュートンは紙に何かを書き込んだ。
その後、石の代わりに木片を使った。
結果は同じだった。
さらに、空の木箱を持ち上げてもらった。
これも問題なく浮いた。
ところが。
「……重い!」
リーナが声を上げた。
ニュートンは木箱の中に石をいくつも詰め込んでいた。
「やっぱり重さは関係あるようですね」
「当たり前でしょ!」
リーナは木箱を地面に下ろした。
「重いものほど魔力を使うんだから!」
「では、同じ重さで大きさが異なるものではどうでしょう?」
「え?」
「あるいは、同じ物体を異なる高さまで持ち上げた場合は?」
「ちょ、ちょっと待って」
リーナは両手を上げた。
「一度にそんなに言われても分かんないって!」
ニュートンは口を閉じた。
「……失礼しました」
「というか、さっきからずっと私ばっかり魔法使ってるじゃない!」
「それは……」
ニュートンは言葉に詰まった。
リーナはため息をついた。
「もう。少し休ませて」
彼女は木箱に腰を下ろした。
ニュートンも近くの石に座った。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
やがてリーナが口を開いた。
「ねえ、ニュートン」
「はい」
「あなたのいたところには、本当に魔法がなかったの?」
「少なくとも、私の知る限りでは」
「じゃあ、どうやって物を浮かせるの?」
「滑車や梃子を使います」
「てこ?」
「長い棒を使い、小さな力で重い物を動かす仕組みです」
「へえ……」
リーナは足元の石を見つめた。
「魔法を使わなくても、そんなことができるんだ」
「ええ。もっとも、何の力も使わずに物を動かせるわけではありません」
「ふうん」
リーナは少し考えた。
そして、不意に言った。
「でも、魔法だって同じよ」
ニュートンが顔を上げた。
「同じ、とは?」
「何の力も使ってないわけじゃないもの。魔力を使ってるんだから」
「……なるほど」
ニュートンは静かに頷いた。
その言葉は、彼にとって重要だった。
魔法は無から何かを生み出しているのではない。
少なくとも、この世界の人々はそう考えている。
では、魔力とは何か。
それはどこに存在し、どのように物体へ作用するのか。
そして、使われた魔力はどこへ行くのか。
「リーナさん」
「何?」
「魔力を使い果たすと、どうなりますか?」
「疲れるわよ。ひどいと倒れることもあるし」
「食事や睡眠によって回復するのですか?」
「そうね。休めば戻るわ」
「では、魔力は身体の内部で生み出されているのでしょうか」
「さあ……そういう難しいことは魔法学者に聞いた方がいいんじゃない?」
ニュートンは顔を上げた。
「魔法学者?」
「いるわよ。王都の学院とかに」
「学院があるのですか?」
「もちろん」
リーナは笑った。
「魔法を研究する人なんて、珍しくないわよ」
ニュートンはしばらく黙っていた。
この世界にも、自然現象を研究する者たちがいる。
ならば、彼らは何を知っているのだろう。
どのような実験を行い、どのような理論を築いているのだろう。
「……その学院には、誰でも入れるのですか?」
「さあ。試験とか、お金とか、色々あるんじゃない?」
「そうですか」
ニュートンは考え込んだ。
リーナはそんな彼を見て、苦笑した。
「まさか、行くつもり?」
「いずれは」
「本気?」
「ええ」
ニュートンは立ち上がった。
「ですが、その前に確かめたいことがあります」
「まだあるの!?」
午後。
リーナがギルドの仕事へ向かったあと、ニュートンは一人で宿の裏庭に残った。
机代わりの木箱の上には、小石と木片が並べられている。
ニュートンは小石を手に取った。
そして、胸の高さから落とした。
石は地面に落ちた。
もう一度。
同じように落ちた。
今度は木片を落とした。
木片も地面に落ちた。
ただし、石とは落ち方が違った。
ニュートンは何度も繰り返した。
高さを変え、向きを変え、二つを同時に落とした。
やがて、彼は紙にこう書き込んだ。
『落下するという現象は、この世界でも確認できる』
続いて、少し間を置いてから、別の一文を加えた。
『魔法によって物体を浮遊させる場合、落下を引き起こす作用と釣り合う何らかの作用が存在する可能性がある』
そこまで書いたところで、ニュートンは筆を止めた。
当然のことを書いている。
しかし、当然であることと、証明されていることは違う。
彼は再び小石を拾い上げた。
手のひらに乗せる。
石は動かない。
手を離せば、落ちる。
魔法を使えば、浮く。
三つの状態。
そこには、どのような違いがあるのか。
ニュートンは小石を見つめた。
「……力の向きが変わるのか」
小さく呟いた。
「それとも、力そのものが変化するのか」
答えは出なかった。
そもそも、この世界の魔法が、彼の知る力学だけで説明できるという保証もない。
ニュートンは石を木箱の上に置いた。
そして、記録の最後に一行を書き加えた。
『現時点では、判断できない』
夕方。
宿の食堂に戻ると、マーサが夕食の支度をしていた。
「先生、今日は何をしてたんだい?」
「少し実験を」
「実験?」
「石を落としていました」
マーサは手を止めた。
「……石を?」
「はい」
「落とすだけ?」
「ええ」
マーサはしばらくニュートンを見つめていた。
そして、腹を抱えて笑い始めた。
「あっはっは! そりゃまた、ずいぶん変わった仕事だねえ!」
ニュートンは困ったように微笑んだ。
「仕事というわけではありませんが」
「石を落として金が稼げるなら、うちの亭主にもやらせたいよ!」
マーサは笑いながら鍋をかき混ぜた。
ニュートンも、つられて少し笑った。
だが、すぐに真面目な顔に戻った。
「ところで、マーサさん」
「何だい?」
「この町に、書物を扱う店はありますか?」
「本屋かい?」
「はい。できれば、魔法について書かれたものを探したいのですが」
「それなら中央通りに一軒あるよ。ただ、魔法の本は高いんじゃないかねえ」
「そうですか」
「何だい、買うつもりかい?」
「できれば」
マーサは鍋の蓋を閉めた。
「だったら、明日も帳簿を手伝っておくれ。少しは小遣いを出せるからさ」
ニュートンは頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いいってことよ。あんたのおかげで、こっちも助かってるんだから」
その夜。
ニュートンは部屋に戻り、机に向かった。
窓の外には、昨日と同じ二つの月が浮かんでいた。
彼は紙を広げ、今日の実験を整理した。
結果のほとんどは、予想できるものだった。
重い物体を浮かせるには、より大きな負担がかかる。
対象を認識できなければ、魔法の操作は難しくなる。
魔力を使えば疲労する。
どれも、この世界の人々にとっては常識なのだろう。
だが、常識の中にこそ、説明されていない問題が潜んでいる。
ニュートンは筆を置いた。
そして、窓の外を眺めた。
二つの月は、互いに離れた位置に浮かんでいる。
あの天体もまた、何らかの法則に従って動いているはずだった。
彼は窓辺に立ち、しばらく夜空を見つめた。
やがて机へ戻り、新しい紙を取り出した。
そこに、明日調べるべきことを書き始めた。
『魔法に関する書物を探す』
『魔力の測定方法を調べる』
『物体の重量と魔力消費の関係を調べる』
三つ目を書き終えたところで、筆が止まった。
少し考え、もう一行を加えた。
『この世界の人々は、月が落ちてこない理由をどう説明しているのか』
ニュートンはその一文を眺めた。
そして、静かに紙を折り畳んだ。
窓の外では、二つの月がゆっくりと夜空を進んでいた。




