最初の一頁。
「ここよ」
リーナが足を止めたのは、大通りから少し外れた場所にある、小さな宿屋の前だった。
木造の二階建て。看板には、麦の穂と寝台らしき絵が描かれている。
「見た目は古いけど、料理は美味しいし、女将さんもいい人なの」
そう言って、リーナは扉を押し開けた。
中に入ると、焼いたパンの香りが鼻をくすぐった。
食堂を兼ねた一階には、丸い木製の卓がいくつか並んでいる。奥の厨房からは、鍋をかき混ぜる音が聞こえていた。
「マーサさん、いる?」
「はいはい、聞こえてるよ」
厨房から現れたのは、恰幅のよい中年の女性だった。
「なんだい、リーナじゃないか。今日は泊まりかい?」
「ううん。お客さんを連れてきたの」
マーサと呼ばれた女性の視線が、ニュートンへと移る。
「へえ、珍しい格好だねえ。旅の学者さんかい?」
「学者……まあ、そのようなものです」
ニュートンは少し考えてから答えた。
「アイザック・ニュートンと申します」
「私はマーサ。ここで宿屋をやってるよ」
マーサはそう言うと、壁に掛けられた木札を一枚取った。
「一泊、食事付きで銅貨八枚だよ」
ニュートンは黙った。
銅貨八枚。
それが高いのか安いのか、彼には判断できなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
自分は、この世界で使える金を一枚も持っていない。
「……実は」
ニュートンが口を開きかけると、リーナが横から言った。
「マーサさん、この人、ちょっと事情があってね。今、お金を持ってないの」
「おやまあ」
「私が立て替えてもいいんだけど……」
「待ってください」
ニュートンはリーナを制した。
「あなたには、すでに多くの恩があります。これ以上、負担をかけるわけにはいきません」
「でも、お金がないんでしょう?」
「ええ。ですから、働かせていただけないでしょうか」
マーサは目を丸くした。
「働くって、あんたが?」
「はい。掃除でも、荷運びでも構いません」
「ふうん……」
マーサはニュートンの細い腕を眺めた。
「荷運びは向いてなさそうだねえ」
「……否定はしません」
リーナが小さく吹き出した。
マーサはしばらく考えていたが、やがて何かを思い出したように手を打った。
「そうだ。学者さんなら、数字には強いかい?」
「数字、ですか」
ニュートンの目が、わずかに動いた。
「ええ。それなりには」
「だったら、ちょうどいい仕事があるよ」
マーサは奥の棚から、分厚い帳面を取り出した。
「これを整理してほしいんだ」
帳面を開くと、そこには日付と数字がびっしりと書き込まれていた。
宿泊客の人数、食事の売上、仕入れの記録。
ところどころに訂正の線が引かれ、余白には小さな文字が乱雑に書き足されている。
「先月から、どうにも計算が合わなくてね。何度数えても、手元のお金が帳面より少ないんだよ」
「盗まれたんじゃないの?」
リーナが尋ねる。
「それも考えたんだけどねえ。鍵は私しか持ってないし……」
ニュートンは帳面を受け取った。
「少し、拝見しても?」
「もちろん」
彼は近くの卓に腰を下ろした。
そして、静かに頁をめくり始めた。
*
「……おかしいですね」
しばらくして、ニュートンが呟いた。
「えっ、もう分かったの?」
リーナが身を乗り出す。
「いえ。まだ原因は分かりません。ただ、記録の仕方に問題があります」
ニュートンは帳面の一箇所を指さした。
「こちらをご覧ください」
そこには、パンの仕入れ代として銅貨十二枚と記されていた。
「そして、三頁後にも同じ日付で、同じ金額が記されています」
「あら、本当だ」
マーサが顔を近づける。
「でも、それだけじゃないんです」
ニュートンは別の頁を開いた。
「こちらでは、宿泊客から受け取った代金が、食事代と宿泊代の両方に記されています。しかし、実際には食事付きの料金だったのでは?」
「ああ、そうだよ。うちは基本的に食事付きだからね」
「つまり、同じ金額を二度、売上として数えている可能性があります」
マーサは眉をひそめた。
「……どういうことだい?」
「帳面の上では、実際より多くのお金が入ったことになっているのです」
ニュートンは紙を一枚借りると、数字を書き始めた。
「仕入れについては、同じ支払いを二度記録している箇所があります。こちらは逆に、支出を多く見積もってしまう間違いです」
「じゃあ、両方間違ってるってことかい?」
「その通りです」
ニュートンは頷いた。
「問題は、それらが互いに打ち消し合うとは限らないことです。正しい残高を知るには、記録を一つずつ確認し直す必要があります」
彼は帳面の数字を別の紙へ書き写していった。
収入と支出を分け、日付ごとに整理する。
単純な足し算と引き算。
だが、記録の規則を統一するだけで、数字の意味は驚くほど明瞭になった。
やがてニュートンは、筆を置いた。
「少なくとも、この帳面に記された範囲では、差額の大部分を説明できます」
マーサは紙を受け取り、何度も見返した。
「……あんた、本当に学者さんなんだねえ」
「数字を整理しただけです」
「それができなくて困ってたんだよ!」
マーサは豪快に笑った。
「いいよ。今夜は泊まっていきな。夕飯も出してあげる」
「よろしいのですか?」
「もちろん。ただし、明日も少し手伝っておくれ。まだ整理してない帳面があるんだ」
ニュートンは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その様子を見ていたリーナが、満足そうに笑った。
「よかったじゃない、ニュートンさん」
「ええ。あなたのおかげです」
「私は何もしてないわよ」
「ここへ連れてきてくださった」
「……そういうところ、律儀なのね」
*
夕食は、野菜と肉を煮込んだ温かいスープだった。
ニュートンは木製の匙を手に取り、ゆっくりと口へ運んだ。
香草の香りが強い。
見慣れない野菜も入っていたが、味は悪くなかった。
「どうだい?」
マーサが尋ねる。
「大変、美味しいです」
「そりゃよかった!」
マーサは上機嫌で厨房へ戻っていった。
向かいに座るリーナが、パンをちぎりながら言った。
「それにしても、驚いたわ。あんなに早く帳面の間違いを見つけるなんて」
「特別なことではありません」
「またそれ?」
「事実ですから」
リーナは呆れたように笑った。
「あなたの国では、みんなあんな計算ができるの?」
ニュートンは少し考えた。
「いいえ。誰もができるわけではありません」
「じゃあ、やっぱりすごいんじゃない」
「ですが、計算そのものは、学べば誰にでも扱えるものです」
「誰にでも?」
「ええ」
ニュートンは匙を置いた。
「正しい方法さえ知っていれば、同じ答えにたどり着ける。それが数学の優れたところです」
リーナはしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと呟いた。
「……魔法とは、違うのね」
ニュートンが顔を上げる。
「どういう意味ですか?」
「魔法は、誰にでも使えるわけじゃないから」
リーナは自分の掌を見つめた。
「生まれつき魔力が少ない人もいるし、どれだけ練習しても、簡単な魔法すら使えない人もいる」
ニュートンは、ギルドで見た水晶を思い出した。
自分の手には、何の反応も示さなかった水晶。
そして、紙を挟むことで変化した光。
「……興味深いですね」
「何が?」
「魔法が、個人の資質によって制限されるということです」
「そんなの、当たり前でしょう?」
「ええ。ですが、当たり前であることと、その理由が明らかであることは違います」
リーナは首を傾げた。
「また難しい話?」
「失礼」
ニュートンは微笑んだ。
「ただ、私には一つ、確かめたいことがあります」
「何?」
「魔法とは、本当に限られた人間にしか扱えないものなのか」
リーナは目を瞬かせた。
「……どういうこと?」
「まだ分かりません」
ニュートンは静かに答えた。
「だからこそ、調べる価値があるのです」
*
夜。
ニュートンは、宿屋の二階にある小さな部屋へ案内された。
寝台が一つ。
机と椅子が一脚ずつ。
壁には小さな窓があり、外には静かな街並みが広がっていた。
リーナは部屋の入口で立ち止まった。
「それじゃ、私は帰るわね」
「今日は本当にありがとうございました」
「もう何回目よ、それ」
彼女は笑った。
「明日はどうするつもり?」
「まず、この世界について知りたいと思っています」
「だったら、図書館に行ってみたら?」
「図書館があるのですか?」
ニュートンの声が、わずかに弾んだ。
「あるわよ。古い本もたくさん置いてあるし、魔法の歴史なんかも調べられると思う」
「それは素晴らしい」
「……本当に嬉しそうね」
リーナは少し意外そうな顔をした。
「じゃあ、明日の朝、時間があったら案内してあげる」
「ぜひ、お願いします」
「うん。おやすみ、ニュートンさん」
「おやすみなさい」
扉が閉まった。
部屋に静寂が戻る。
ニュートンは机に腰を下ろした。
そして、マーサから譲ってもらった紙と筆を取り出す。
今日一日で得た情報を、忘れないうちに書き留めておきたかった。
魔法。
魔力。
水晶。
光。
彼は一つずつ、丁寧に記録していった。
やがて筆が止まる。
「……しかし」
ニュートンは窓の外を見た。
空には、二つの月が浮かんでいた。
一つは白く、大きい。
もう一つは、それより小さく、淡い青色をしている。
彼は椅子から立ち上がり、窓辺へ近づいた。
「二つ、ですか……」
月が二つある。
その事実だけで、この世界が自分の知る世界とは大きく異なることが分かる。
だが、ニュートンの関心は別のところにあった。
なぜ、あの二つは空に留まっているのか。
互いに引き合っているのか。
この世界の地面も、あの月を引き寄せているのだろうか。
それとも。
「……万有引力は、ここでも成り立つのか」
彼は小さく呟いた。
窓の外では、夜風に揺られた木の葉が一枚、枝を離れた。
葉はゆっくりと舞いながら、地面へ落ちていく。
ニュートンは、その様子をじっと見つめていた。
やがて机へ戻ると、紙の一番上に、新しい一文を書き加えた。
『この世界においても、物体は地へ落下する。』
少し考え、さらに続ける。
『ただし、その原因が同一であるとは、まだ証明されていない。』
彼は筆を置いた。
世界が変わった。
国も、言葉も、常識も。
そして、人々は魔法と呼ばれる不可思議な力を使っている。
それでも。
目の前で起こる現象には、必ず何らかの理由があるはずだ。
ニュートンは再び窓の外を見た。
二つの月は、静かに夜空を照らしていた。
「……まずは、観察から始めましょう」
その声には、不安よりも、確かな好奇心が宿っていた。




