第1章:3.3 荒廃した村落の覗き見と足音
「へえ……」
亭主は薄汚れた布巾を置き、太く短い指先で油染みたカウンターをトントンと叩いた。その声は嗄れており、濃厚な田舎訛りが混じっていた。
「飯かい? それとも泊まりかい?」
「余所者さんよ、」
「このうらぶれたサン・ミ村じゃ、」
「あんたらみてえな……」
「立派な客人は滅多にお目にかかれないんだがねえ」
闕恆遠は表情一つ変えず、落ち着いた足取りでカウンターへと歩み寄った。
四人の少女たちを背後へと完全に隠すよう、自然に立ち位置を滑り込ませる。
「泊まりだ」
闕恆遠は亭主の探るような、そして貪婪な眼差しを真っ向から見据え、声を極めて低く、冷たく響かせた。
「俺たちは南から来た行商人だ」
「峠を越える途中で山賊の襲撃に遭った」
「護衛は散り散りになり、」
「商品もすべて失った」
「家族を連れて、命からがらあんたらの村へ逃げ延びてきたところだ」
「清潔で静かな部屋を一つ借りたい」
「少しの間、風向きを窺って休ませてもらう」
「家族、だと……?」
カウンターの奥の小太りな亭主は目を丸く見張り、闕恆遠の肩越しに視線を伸ばした。
悦清禾の俗世離れした横顔、伊凝雪の愛らしい体つき、千慕羽の豊満な起伏、そして玥映嵐の気品ある佇まいを、舐め回すように何度も品定めする。
フロアの隅で酒を煽っていた刃物持ちの男たちも、次々にジョッキを置き、まるで肥えた羊を見つけた野狼のような狂気と落ち着きのないざわめきを瞳に宿らせ始めていた。
「兄ちゃんよぉ……」
亭主は口元に嘲るような奇妙な笑みを浮かべ、身をわずかに乗り出した。
「冗談はよしてくれよ」
「この神殿の絵画から抜け出してきたみてえな尊いお嬢さん方が……」
「全員あんたの身内だって?」
「彼女らとあんたは、一体どういう関係なんだい?」
その問いが落ちた瞬間、店内の空気は目に見えて凍りついた。
背後の伊凝雪は緊張のあまりローブの裾を固く握りしめ、心臓が喉から飛び出しそうになっていた。
悦清禾の清らかな瞳に冷ややかな光が走り、体が微かに強張る。
だが、闕恆遠は眉一つ動かさなかった。
彼は勢いよく右手を振り上げ――ドンッ! と、油染みたカウンターの天板を重々しく叩きつけた。
「この四人は、」
「全員、俺が正式に娶った正妻たちだ」
闕恆遠の声は決して怒鳴り散らすようなものではなかったが、その一言一言は重槌のように、薄暗いフロアの隅々へと重く響き渡った。
その眼差しにはやましさも気後れも微塵もなく、現代のビジネス社会で培われた揺るぎない自信と、上に立つ者特有の威圧感が宿っていた。
「俺、闕恆遠は難に遭ったとはいえ、」
「田舎のしがない宿屋のオヤジに、身内の内情まで洗いざらい説明してやるほど落ちぶれちゃいない」
「なんだ?」
「ここで商売をやる連中は、」
「客の妻の素性までいちいち詮索する決まりでもあるのか?」
「それとも……」
「それがこの宿の流儀だって言うのか?」
怒りを露わにせずとも相手を呑み込むその冷徹な気迫に、小太りの亭主の心臓がドキンと跳ねた。
このような治安の乱れた辺境において、傾国の美女を四人も連れて荒野を渡り歩き、すべてを失った難民同然の境遇にあっても怯み一つ見せず、鋭い眼光を放つ若者――。
そんな男は、身の程を知らない本物の狂人か、あるいは……常人の想像を絶する巨大商会、もしくは貴族の落胤のいずれかでしかない。
もし後者であるならば、周囲には姿を隠した護衛が控えているかもしれず、あるいは近いうちに大規模な商隊の私兵たちが足取りを追って押し寄せてくる可能性すらある。
隅の席で今にも動き出しそうだった刃物持ちの男たちも、闕恆遠の引き締まった体躯と微塵の恐れもない眼差しを見据え、互いに顔を見合わせて長椅子へと腰を戻した。
その瞳からあからさまな凶暴さがわずかに引いていき、油断なく推し量る色へと変化していく。
小太りの亭主はぎょろりとした目を忙しなく泳がせると、その顔から傲慢さを一瞬で拭い去り、商人特有の計算高いへつらいの笑みへと塗り替えた。
「いやあ、これはこれは!」
「若旦那、滅相もねえことでさあ!」
「この老ジョン(オールド・ジョン)の口が滑りやした!」
「あっしが悪うござんした!」
亭主は形式的に自らの口元を軽く叩き、へらへらと揉み手をしながら笑った。
「何分、こんなへんぴな寒村じゃあ、貴族の旦那様方の影すら拝めねえもんでして」
「そんなところへ、急にあんたみてえな大層なお方が、」
「それも天女様みてえな四人の奥方様方を引き連れてお見えになったもんですから、」
「老ジョンめもすっかり目が眩んじまって、」
「とんだ非礼を働いちまいました!」
『四人の奥方様』という響きを耳にした瞬間、闕恆遠の背後に控えていた千慕羽は堪えきれずに長袖で口元を覆い、目元を弓なりに細めてからかいの笑みを浮かべた。さらには、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤に染め上げた悦清禾の脇腹を、肘でこっそり小突いてみせる。
悦清禾は千慕羽をキッと睨みつけたが、白く華奢な両手は自らのローブの襟元をいっそう固くかき抱いていた。
「世辞はいい」
闕恆遠は冷ややかに亭主の愛想笑いを遮った。
「一番いい部屋を一つ用意しろ。最上階で、一番静かな部屋だ」
「一泊いくらだ?」
老ジョンは油染みた両手を擦り合わせ、その瞳に抜け目ない計算の光を走らせた。
「一番いい部屋、でさあな……」
「うちの店じゃあ、三階の最上階にある離れの屋根裏部屋しかありやせん」
「少々手狭ではありやすが、」
「静けさだけは保証しやす」
「誰にも邪魔されず、」
「見晴らしも抜群でさあ」
「ただ、お代の方なんですがね……」
「一泊で、」
「丸々、銅貨1枚になりやす!」
「これでも四人の若奥様方をお連れの若旦那に免じて、破格の勉強をさせてもらったつもりでさあ!」
――銅貨1枚。
その数字を突きつけられた瞬間、闕恆遠の心臓がドキンと跳ね上がった。
さっき野外で摘んだブルースター草一本と紫斑菌数本をスマホの取引所に買い取らせて、手に入ったのは合計たったの1.2銅貨だった。
五人分の粗製ローブと草鞋を揃えるのに1.1銅貨を費やし、いま口座にぽつんと横たわる残高は、哀れなことにわずか10鉄貨ぽっちだ。
丸々1枚の銅貨どころか、端数すらまともに払えやしない。




