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三百人の救済

馬車の扉が閉まる。

逃げ道はなかった。


リディアの前に立つ魔術師は、冷たい目をしていた。


「治療施設は、この先です」


「……私に、三百人を治せと言うのですか?」


「そう命じられています」


「そんなことをしたら、どうなるか分かっているでしょう」


「もちろん」


男は淡々と答えた。


「だからこそ、あなたにお願いしているのです」


お願い。

その言葉とは裏腹に、男の杖はリディアへ向けられていた。

拒否すれば拘束する。

そういう意味だった。


「なぜ……」


リディアの声が震える。


「なぜ、私なんですか」


「あなたにしかできないからです」


「なら、王宮魔術師を呼べばいいでしょう」


「彼らの治癒魔法では間に合いません」


男は目を逸らした。


「重傷者の中には、魔力そのものが身体を壊している者もいる。通常の治癒では、助けられない」


「だから私に?」


「はい」


リディアは唇を噛んだ。

人を助けること自体が嫌なわけではない。

怖いのだ。


三百人。

今まで自分が魔法を使った人数を、数えたことはない。

けれど、三百人など比べものにならない。

それだけの人間から、自分への好意が消える。


それはつまり。

三百人から、憎まれる可能性があるということだった。


「……エドガーは?」


「副団長には関係ありません」


リディアは顔を上げた。


「エドガーは、このことを知らない?」


「おそらく」


この命令に、彼は関わっていない。


「……治します」


男が驚いたように目を見開く。

リディアは馬車の外を見た。


遠くに治療施設が見える。

窓からは、人の姿がいくつも見えた。


「助けられるのに、助けないほうが嫌だから」


馬車が止まった。

扉が開く。

中へ入ると、そこには想像以上の人がいた。


負傷兵。

魔道具の事故に巻き込まれた職人。

倒壊した建物から救出された子供。


ベッドが並び、苦しそうな呻き声が重なっている。

リディアは息を呑んだ。


「……これを、全部?」


「お願いします」


誰かが頭を下げた。


リディアは目を閉じる。

怖い。

けれど。


「分かりました」


最初の患者の前に立つ。

手を伸ばした。

銀色の光が広がる。

裂けた皮膚が閉じていく。

折れた骨が元に戻る。

濁っていた呼吸が、少しずつ穏やかになる。


「治った……」


誰かが呟いた。

リディアは次の患者へ向かう。

一人。

二人。

十人。

二十人。

魔力を使うたびに身体が重くなる。

それでも止まれない。


「次の方を」


「もう休まれては……」


「まだ治っていない人がいるでしょう」


三十人。

五十人。

百人。

銀色の光が何度も部屋を満たした。


そして。

魔法を受けた者たちの目が、少しずつ変わっていく。

最初は感謝だった。

けれど、治療を終えて時間が経つほど。


「……この女が、治したのか?」


「そうらしい」


「なんだか……嫌な感じがする」


「分かる」


リディアには聞こえていた。

一人。

また一人。

好意が消えていく。

胸の奥が冷たくなる。

それでも、手は止めなかった。

最後の患者を治し終えたとき。

リディアはその場に膝をついた。


「終わった……」


三百人。

全員を治した。

けれど。

誰も喜んでいなかった。

施設の中には、奇妙な沈黙が広がっていた。

やがて一人の男が言った。


「どうして、こいつに治療させたんだ?」


「え?」


「こんな気味の悪い魔法を使う人間に」


別の誰かが続ける。


「そうだ。身体は治ったのに、なんだか胸糞が悪い」


「俺もだ」


「この女が何かしたんじゃないか?」


リディアは立ち上がった。


「違います」


声が震えた。


「私は、ただ治しただけです」


「だったら、どうしてこんなに嫌な気分になる?」


答えられない。

魔法のせいだから。

でも、それを言っても信じてもらえない。

むしろ。


「やっぱり呪いなんだ」


その言葉が、決定的だった。


その日の夜。

王都では一つの噂が広がった。


――アストレア公爵令嬢は、三百人もの人間を魔法で操った。


――治療された者たちは、彼女を憎んでいる。


――あの女の魔法は、人を救うためのものではない。


リディアは屋敷へ戻ることができなかった。

治療施設の裏口に一人で立っている。

雨が降り始めていた。


「……帰りたくない」


誰にも会いたくなかった。

また嫌われる。

また恐れられる。

それなら、最初から誰にも会わなければよかった。

そのとき。

雨音の向こうから、足音が聞こえた。


「リディア」


聞き慣れた声。

振り返る。


濡れた黒髪。

乱れた外套。

息を切らしたエドガーが立っていた。


「……どうして」


「迎えに来ました」


「来ないでください」


リディアは俯いた。


「今の私に近づいたら、あなたまで……」


「嫌われる?」


「はい」


「それなら」


エドガーは迷いなく歩いてくる。


「もう、とっくに手遅れですよ」


「え?」


「僕は、あなたの魔法を受けていますから」


彼はリディアの前に立った。


「三百人を助けた?」


「……はい」


「なら、あなたは三百人に嫌われたかもしれない」


「かもしれないじゃありません」


リディアは涙を堪える。


「きっと、もう嫌われています」


「そうかもしれません」


「なのに……」


「でも」


エドガーは傘を差し出した。


「僕はここにいます」


雨音が二人の間を満たした。

リディアは、初めて。

その言葉を信じたいと思った。


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