魔法を使う理由
数日後。
リディアは王宮へ向かっていた。
エドガーから届いた手紙には、簡潔にこう書かれていた。
――あなたの魔法について、見せたい記録があります。
それだけだった。
王宮魔術師団の資料室は、一般の貴族が入れる場所ではない。
それでもエドガーの案内があれば、特別に入ることができた。
「こちらです」
地下へ続く階段を下りる。
石造りの廊下は薄暗く、壁には古い魔法灯が並んでいる。
「こんなところに何があるんですか?」
「あなたの魔法に関する古い記録です」
「私の?」
「正確には、同じ性質を持つ魔法について」
奥の部屋に入ると、エドガーは一冊の分厚い本を机の上に置いた。
表紙には題名すらない。
「三百年前の記録です」
ページを開く。
そこには、古い文字でこう記されていた。
『救済魔法は、術者が他者に与える救いの量に応じ、対価を求める』
「対価……」
「あなたの場合、それが好意です」
エドガーはページをめくる。
「この魔法は、傷や病を消す代わりに、救われた者の術者に対する好意を消費する」
「だから、使えば使うほど嫌われる」
「はい」
けれど、次のページに。
奇妙な記述があった。
『ただし、ごく稀に対価の方向が反転する者が存在する』
リディアは顔を上げた。
「これ……」
「僕と同じです」
「でも、どうして?」
「そこまでは書かれていません」
「じゃあ、あなたも分からない?」
「分かりません」
エドガーは苦笑した。
「僕自身、自分がなぜそうなのか知りたい」
「怖くないんですか?」
「何が?」
「私の魔法が、あなたの気持ちを変えてしまうこと」
エドガーはしばらく黙った。
「怖いですよ」
意外な答えだった。
「……怖い?」
「ええ」
彼は本を閉じた。
「だから調べています」
「自分の気持ちを?」
「あなたを好きになっていくことを」
リディアの頬が熱くなる。
「……そんな真面目な顔で言わないでください」
「事実ですから」
「困ります」
「なぜ?」
「私まで、その気になってしまいそうだから」
言ってから、しまったと思った。
エドガーの目がわずかに見開かれる。
「……それは」
「忘れてください」
「無理です」
「忘れてください」
「努力はします」
絶対に忘れる気がない。
リディアは顔を背けた。
そのとき。
廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
「副団長!」
扉が開く。
若い魔術師が息を切らして立っていた。
「街で魔力事故です!」
「規模は?」
「子供が一人。暴走した魔道具に巻き込まれています」
エドガーの顔から笑みが消えた。
「場所は?」
「中央市場です」
リディアは立ち上がった。
「行きましょう」
エドガーが振り返る。
「リディア?」
「助けます」
「でも……」
「分かっています」
嫌われる。
また。
それでも。
「気づいたんです」
リディアは自分の手を見る。
「私は、助けたいと思ったときに助けないことのほうが、ずっと苦しいんです」
エドガーは何も言わなかった。
二人は市場へ向かった。
現場では、一人の少年が魔道具の暴走に巻き込まれていた。
母親らしい女性が泣きながら叫んでいる。
「誰か助けて!」
少年の胸には大きな傷があった。
リディアは走り寄る。
「下がってください」
「でも……」
「私なら治せます」
女性が一瞬、怯えた。
「あなた……あの、アストレア公爵令嬢?」
周囲がざわめく。
「魔法を使うと人に嫌われるっていう……」
「だったら、治療なんてさせるな」
「でも、このままじゃ……」
少年が苦しそうに息をする。
リディアは唇を噛んだ。
まただ。
人を助ける前から、恐れられている。
それでも。
「この子を助けます」
手をかざす。
銀色の光が少年を包む。
傷が塞がっていく。
呼吸が戻る。
「……う」
少年が目を開いた。
母親が泣きながら抱きしめる。
「よかった……!」
リディアは胸を撫で下ろした。
けれど。
その数秒後。
母親の顔が変わった。
「……あなた」
「はい」
「どうして……」
声が震えている。
「どうして、この子に触ったの?」
リディアの心臓が沈んだ。
「助けるためです」
「余計なことをしないで!」
叫び声が市場に響く。
「この子が死んだら、私が責任を取るつもりだった! なのに……あなたが勝手に!」
周囲がざわめく。
「恩知らずな……」
「でも魔法を使ったら嫌われるって……」
「じゃあ、本当に呪いなんじゃないか?」
リディアは何も言えなかった。
いつものことだった。
助けても。
感謝されない。
エドガーが前に出る。
「彼女がいなければ、その子は死んでいました」
「でも!」
「それでも彼女を責めますか?」
母親はエドガーを睨んだ。
「あなたは何も知らない!」
その言葉に、リディアはエドガーの腕を掴んだ。
「もういいです」
「リディア」
「帰りましょう」
市場を離れる。
しばらく、二人とも無言だった。
やがてエドガーが口を開く。
「……やっぱり」
「何ですか」
「あなたは、強い人ですね」
「強くなんてありません」
「では、なぜ泣かないんです?」
リディアは足を止めた。
「泣いたら、何か変わりますか?」
「……」
「嫌われることは、もう慣れています」
「慣れてはいけないと思います」
エドガーはそう言った。
リディアは顔を上げる。
「どうして?」
「嫌われることに慣れるというのは」
彼は少しだけ苦しそうに笑った。
「自分が嫌われて当然だと思うことと、似ていますから」
胸を突かれた。
そんなふうに考えたことはなかった。
ずっと。
魔法のせいだから仕方ないと思っていた。
だから、自分が嫌われるのは当然なのだと。
エドガーは続けた。
「あなたが誰かを助けたことまで、間違いにはならないでしょう」
「でも、嫌われる」
「ええ」
「だったら……」
「それでも、あなたは助けた」
その言葉だけが。
妙に胸に残った。
その日の夜。
王宮では、別の記録が見つかった。
エドガーは一人、地下資料室に戻っていた。
三百年前の記録。
『反転位相を持つ者』。
その次のページには。
これまで彼が見たことのない一文があった。
――反転者が救済魔法を受け続けた場合、その感情は通常の好意とは異なる形で増幅される。
エドガーは眉をひそめる。
「……増幅?」
さらにページをめくった。
そこには、途中で破り取られたような跡があった。
その下に残されていた一文だけが、かろうじて読めた。
――そして、術者への感情が限界を超えたとき。
そこから先は、何も書かれていなかった。




