嫌われない男
「もう一度、魔法を使ってください」
翌朝。
王宮魔術師団の研究室に呼び出されたリディアは、開口一番そう言われた。
「……嫌です」
即答すると、向かいに座るエドガーが困ったように眉を下げた。
「昨日のことを調べたいだけです」
「だから嫌なんです」
「なぜ?」
「あなたにまで嫌われたくないから」
その言葉を口にした瞬間、リディア自身が驚いた。
どうしてそんなことを言ったのだろう。
エドガーはしばらく黙っていた。
そして、ふっと笑った。
「安心してください」
「……何をですか」
「今のところ、嫌いになる予定はありません」
「予定……」
「むしろ、昨日より気になっています」
リディアは頭を抱えたくなった。
この男は、どうしてこんなにも平然としているのだろう。
王宮魔術師団の研究室は、魔法具と古い書物で埋め尽くされていた。
壁一面の棚。
魔力測定器。
鉱石を埋め込んだ机。
そして中央に置かれた透明な水晶球。
エドガーはそこへ手を置いた。
「昨日、あなたが僕に触れた瞬間、魔力の流れが通常とは逆になりました」
「逆?」
「ええ」
水晶球の中で、淡い光が渦を巻く。
「通常、あなたの魔法を受けた人間には、二つの変化が起きます」
エドガーは指を二本立てた。
「一つ。身体的な傷が治る」
「もう一つは……」
「あなたへの好意が減少する」
リディアは目を伏せた。
「……はい」
「ところが僕には、その逆の反応が出た」
「好意が……増えた?」
「そういうことです」
信じられなかった。
そんなことがあるはずがない。
魔法の研究記録にも、そんな例はなかった。
「測定の結果では、あなたの魔法が僕の感情を削るどころか、逆に刺激している」
「それって……」
「僕だけ、性質が反転している可能性があります」
エドガーは机の上の紙を見た。
そこには古い魔術式が描かれていた。
「反転位相」
聞き慣れない言葉だった。
「昔の文献に、ごく稀に出てくる言葉です。魔法が本来向かう方向とは逆に働く体質」
「そんな人がいたんですか?」
「記録上は」
エドガーは一冊の古書を閉じた。
「ただし、確認された例はありません」
「じゃあ……あなたが初めて?」
「おそらく」
リディアは言葉を失った。
世界で一人だけ。
自分の魔法で嫌いにならない男。
それだけでも十分奇妙だった。
だが。
「だから、もう一度試したいんです」
「嫌です」
「なぜです?」
「あなたが、もっと私を好きになるのが怖いからです」
エドガーの動きが止まった。
「……どうして?」
「分からないからです」
リディアは俯いた。
「あなたが私を好きになるのが、あなた自身の気持ちなのか。それとも魔法のせいなのか」
初めて会ったばかりなのに。
魔法を一度使っただけで。
好意が増える。
そんなものを、愛情と呼んでいいはずがない。
「私は、誰かに好かれることに慣れていません」
「知っています」
「嫌われることには慣れています」
「……」
「だから、あなたの気持ちまで魔法のせいだったら、私はどうしていいのか分かりません」
しばらく沈黙が続いた。
やがてエドガーは、水晶球から手を離した。
「では、こうしましょう」
「?」
「魔法を使わない状態で、僕があなたを知る」
「……え?」
「それから、魔法を使ったときに僕の気持ちがどう変化するのか確認する」
「そんなことをして何になるんですか」
「僕があなたを好きなのが、魔法のせいではないと証明できます」
あまりにも真っ直ぐ言われて、リディアは返事に困った。
「……好きって」
「まだ好きだとは言っていません」
「今、言いましたよね」
「気になっている、と言いました」
「ほとんど同じです」
「違いますよ」
エドガーは笑った。
「だから、焦らなくていい」
その言葉が妙に心に残った。
今まで、誰かに近づかれることは怖かった。
いつ嫌われるのか分からないから。
けれどこの男は、嫌われる可能性を知っても離れようとしない。
それどころか。
「今日は魔法を使わなくていいです」
そう言って、研究室の窓を開けた。
春の風が入ってくる。
「あなたがどんな人なのか、普通に知りたいので」
リディアは窓の外を見る。
王都の街並みが広がっていた。
こんなふうに誰かと話したのは、いつ以来だろう。
その日の帰り道。
リディアは一人で馬車に乗った。
窓から流れる景色を眺めながら、何度もエドガーの言葉を思い出す。
――普通に知りたい。
そんなことを言ってくれる人は、今までいなかった。
屋敷に戻ると、玄関に侍女が立っていた。
「お帰りなさいませ、リディア様」
「ただいま」
「……あの」
「何?」
侍女は一瞬、言い淀んだ。
「今日、王宮魔術師様とご一緒だったと聞きました」
「ええ」
「その……お気をつけください」
リディアは足を止めた。
「どういう意味?」
侍女は目を伏せた。
「リディア様に近づいた人は、みんな不幸になりますから」
胸の奥が、冷たくなった。
やはり。
誰かに近づくことは、誰かを傷つけることなのだ。
そう思った、その夜。
屋敷の窓辺に、一羽の小鳥が落ちているのを見つけた。
翼から血が出ていた。
リディアは迷った。
助ければ、この鳥も自分を嫌うのだろうか。
馬鹿なことを考えている。
鳥が人間のように誰かを嫌うはずがない。
そう思って、手を伸ばす。
銀色の光がこぼれた。
傷が閉じる。
小鳥は立ち上がった。
そして。
窓枠から飛び立つ前に。
小さく鳴いた。
リディアは微笑んだ。
「……ありがとう、か」
その瞬間。
背後から声がした。
「その顔、初めて見ました」
「……!」
振り返る。
窓の外。
屋敷の庭に、エドガーが立っていた。
「どうしてここに……?」
「あなたに渡すものがあって」
「でも、どうやって?」
「門番に止められました」
「当然です」
「なので、裏庭から」
「もっと駄目です」
エドガーは苦笑した。
そして、手にしていた小さな包みを差し出した。
「昨日の検査結果です」
リディアが受け取る。
「それと」
エドガーは少しだけ目を細めた。
「今、魔法を使いましたよね?」
リディアの表情が固まる。
「……どうして?」
「分かります」
「何が?」
「あなたの魔力が、まだ残っている」
彼は一歩近づいた。
「でも、不思議ですね」
「……?」
「さっきのあなたは、昨日よりずっと嬉しそうでした」
その言葉に、リディアは何も言えなかった。
自分でも気づいていなかった。
誰かを助けたことが。
嫌われることより嬉しいと感じたのは。
久しぶりだった。




