失われた記録
研究塔の最上階。
通された部屋には、窓がほとんどなかった。
壁一面に古い魔方陣が刻まれ、棚には何十冊もの記録が並んでいる。
その中央に、グレン・ハルフォードは立っていた。
「久しぶりだね、リディア嬢」
私は警戒しながら尋ねた。
「……ここで何をするつもりですか」
「君に見せたいものがある」
グレンが指を鳴らす。
部屋の奥にある机へ、一冊の分厚い本が運ばれてきた。
表紙には何も書かれていない。
「それは?」
「研究記録だよ」
「反転者について?」
「正確には、反転者をどう扱えるかについてだ」
その言葉に、背筋が冷えた。
「扱う……?」
「君は、反転者というものを少し誤解している」
グレンは本を開いた。
そこに書かれていたのは、過去の反転者についての物語ではなかった。
魔法式。
実験結果。
術者と被術者の魔力反応。
そして、何度も繰り返し記された数字。
「これは……」
「三百年前の記録をもとに、後世の研究者たちが続けてきた実験の記録だ」
ページをめくる。
そこには、治癒魔法を受けた者の感情変化を測定した記録が並んでいた。
通常の被術者。
反転反応を示した被術者。
魔法を一度だけ受けた場合。
何度も受けた場合。
それぞれの変化が細かく記録されている。
「……こんなことを」
「感情というものは、曖昧だ。だから研究する価値がある」
グレンは淡々と言った。
「通常の被術者なら、術者への好意が低下する。だが反転者は逆だ。治癒を受けるほど、術者への感情が強くなる」
「だから、エドガーを……」
「そう」
グレンは笑った。
「君と彼の組み合わせは、非常に珍しい」
胸がざわついた。
「北区の事故も、偶然ではなかったんですか」
「事故そのものは予定外だった」
グレンは否定しなかった。
「だが、あの状況なら君は人を救う。君が魔法を使えば、反転者にはどのような変化が起こるのか。私たちは確認できる」
「私たち……?」
「王宮の一部には、反転者を利用しようとする者がいる」
言葉が出なかった。
「強い魔力を持つ者を守る人間は、昔から重宝されてきた。だが、忠誠心を強制することは難しい」
グレンは一枚の記録を取り出した。
「反転者なら、それが可能になるかもしれない」
「……人を、道具にするつもり?」
「道具という言葉は好きではないな」
グレンは穏やかに笑った。
「必要な相手を守る存在、と言えばいい」
その言葉が、妙に恐ろしく聞こえた。
私はエドガーの顔を思い浮かべた。
彼が私を守ろうとするたびに感じていた、あの強い視線。
あれさえも、誰かに利用されようとしている。
「だから、私をここへ?」
「そうだ」
グレンは魔法陣へ視線を向けた。
「君の魔法と反転者の組み合わせは、研究に必要だ」
「私が嫌だと言ったら?」
「君は優しい」
グレンは静かに言った。
「誰かが傷ついているとき、放っておけない」
その言葉に、嫌な予感が走った。
直後。
部屋の壁が淡く光った。
魔法陣が、一斉に起動する。
「何をしたの!」
「まだ何もしていない」
グレンは微笑んだ。
「これからだよ」
床を走る光が、私の足元へ集まってくる。
身体の奥に、魔力が引き出されていく感覚がした。
「この塔は、王都中の魔力を集められるように作られている」
「……そんな」
「君一人の魔力では足りないからね」
グレンが魔法陣の中心を指差した。
そこには、治癒魔法を強制的に発動させるための術式が刻まれていた。
私は、拳を握りしめた。
「さあ、リディア嬢」
彼は笑った。
「もう一度、救ってください」
その言葉と同時に、遠くから誰かの悲鳴が聞こえた。




