救うもの、救われるもの
北区の事件から三日。
王都では、リディアの名前が再び広がっていた。
『あの女が治療すると、あとでその女を嫌いになる』
『王宮の事件も、あの女が関わっているらしい』
『反転者の男まで操っているんじゃないか』
街を歩けば、そんな声が聞こえる。
リディアは窓の外を見ながら、じっとしていた。
昔なら、胸が締め付けられていた。
自分のせいだと思った。
何か悪いことをしたのではないか。
もっと上手くできたのではないか。
もっと魔法を使わなければ。
もっと我慢すれば。
そう考えていた。
けれど。
「……全部、私のせいじゃない」
小さく呟く。
まだ、言うのには慣れなかった。
それでも、以前よりは言えるようになっていた。
魔法を使った。
だから嫌われた。
それは事実。
けれど。
嫌われたからといって、助けたことまで間違いになるわけではない。
そのことを、少しずつ理解し始めていた。
「リディア」
背後から声がした。
「はい?」
エドガーが部屋に入ってくる。
彼は最近、王宮での調査とリディアの警護を兼ねて動いていた。
「今日は街へ出ますか?」
「……少しだけ」
「では、僕も」
「でも、また噂になりますよ」
「もうなっていますから」
エドガーは平然と言った。
「今さら一つ二つ増えたところで変わりません」
リディアは思わず笑った。
「そういう問題ですか?」
「僕にとっては」
二人は屋敷を出た。
街の視線は冷たかった。
露骨に避ける人もいる。
小声で何か言う人もいる。
それでも、リディアは歩いた。
途中。
一人の男が道の端から近づいてきた。
「お前」
リディアの足が止まる。
「……はい」
「北区で治してもらった」
「……」
リディアは顔を覚えていなかった。
あまりにも多くの人を治療したからだ。
「腕の傷だ」
「はい」
「治った」
「よかったです」
男は少し黙った。
「でもな」
その顔に、複雑な色が浮かぶ。
「お前のこと、好きにはなれない」
リディアの胸が一瞬だけ痛んだ。
けれど。
「はい」
それだけ答えた。
「……それだけか?」
「はい」
「怒らないのか?」
「怒りません」
男は戸惑ったように眉を寄せた。
「なんでだ」
「あなたが私を好きになる必要はないからです」
「……」
「治療を受ける時、あなたは自分で選んだのでしょう?」
「ああ」
「なら、それで十分です」
男はしばらくリディアを見ていた。
やがて、小さく頭を下げた。
「……ありがとう」
それだけ言って去っていった。
その背中を見送る。
「……少し、変わりましたね」
エドガーが言った。
「何がですか?」
「以前なら、もっと傷ついていた」
「今も傷ついています」
「ええ」
エドガーは頷いた。
「でも、傷ついたまま立っていられるようになった」
リディアは黙った。
それは、自分では気づいていなかった。
嫌われることに慣れたわけではない。
怖くなくなったわけでもない。
ただ。
嫌われた瞬間に、自分の価値まで失ったと思わなくなった。
*
その日の夕方。
二人は王宮の資料室にいた。
北区の事件について調べるためだ。
古い記録をめくっていると、エドガーが一冊の本を取り出した。
「これだ」
「何ですか?」
「三百年前の反転者についての記録」
リディアは隣に座った。
記録には、古い王都の出来事が書かれている。
反転者と呼ばれた男。
治癒魔法を持つ女性。
そして、彼女が魔法を使うたび、男の好意が強まっていったこと。
「ここまでは、グレンが見せたものと同じですね」
「ええ」
エドガーがページをめくる。
そこに、別の記述があった。
『彼は術者を守るため、国を捨てることを望んだ』
「……」
リディアの顔が曇る。
「やっぱり」
「でも、続きがあります」
エドガーが指で文章を追った。
『されど術者は、それを拒んだ』
リディアが顔を上げる。
『私はあなたに守られるために人を救っているのではない。あなたに愛されるためでもない。救いたいから救っている。それだけだ、と』
しばらく二人とも何も言わなかった。
「……私と同じですね」
リディアが呟く。
「ええ」
「その人も、嫌われることを恐れなかったんでしょうか」
「記録には、そこまでは」
ページをめくる。
最後に短い文章があった。
『男は彼女の意思を尊重し、国に残った。彼女を人々から守るのではなく、彼女自身が選んだ道を支えるために』
リディアは息を吐いた。
「……これが、本当の話なんでしょうか」
「おそらく」
「じゃあ、グレン様が言っていたことは」
「意図的に抜かれている」
エドガーの声が低くなる。
「三百年前の反転者は、術者を守るためにすべてを捨てたんじゃない」
「自分の感情を持ったまま、それでも相手の意思を尊重した」
「そうです」
リディアは記録を見つめた。
反転者は、愛が強くなりすぎる。
けれど。
強い感情があることと、その感情のまま相手を縛ることは別だ。
エドガーが魔法を受けた後も、自分の行動を選ぼうとしている理由が分かった気がした。
「エドガー様」
「はい」
「私、少し安心しました」
「何がです?」
「あなたが怖くなくなったわけではありません」
「……はい」
「でも、魔法のせいで全部が決まってしまうわけじゃないんだと思えて」
エドガーは静かに笑った。
「僕もです」
その時。
資料室の扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、先日の若い魔術師だった。
「お二人にお伝えしたいことがあります」
「何です?」
「北区の魔法陣について、解析が終わりました」
エドガーが立ち上がる。
「それで?」
「術式を仕込んだ人物を特定する手掛かりが見つかりました」
「誰です?」
魔術師は一枚の紙を差し出した。
「術式の最後に、王宮魔術師団の中でもごく一部しか使わない認証式が残っていました」
エドガーが紙を見る。
そして。
顔色を変えた。
「……これは」
「知っているんですか?」
「ええ」
エドガーの指が震える。
「この術式を使えるのは、僕と……」
そこで言葉を切った。
リディアは息を呑んだ。
「グレン様だけです」
部屋の空気が凍った。
偶然ではなかった。
北区の事件。
大量の負傷者。
リディアの治癒魔法。
そして、反転者であるエドガー。
すべてが一つに繋がっていく。
「なら……」
リディアが呟く。
「グレン様は、私たちを使って何をしようとしているんですか?」
答えは、まだ出なかった。
けれど。
その夜、王宮から新たな命令が届いた。
――明朝、リディア・アストレアを王宮研究塔へ移送する。
理由は記されていなかった。
ただ一つ。
命令書の最後に、こう書かれていた。
――反転者との接触は禁止する。
リディアは紙を握りしめた。
「……離れろってこと?」
その瞬間。
隣にいたエドガーが、静かに言った。
「僕は、従うつもりはありません」
リディアが顔を上げる。
「でも、王宮の命令ですよ」
「ええ」
エドガーはリディアを見る。
「だからこそ、これはもう単なる調査じゃない」
彼の目には、今までにない強い決意があった。
「僕たちを引き離すこと自体が、誰かの目的なんです」
リディアは、その言葉を聞いて初めて。
本当の危機が始まったのだと理解した。




