それでも、あなたを選ぶ
翌朝。
王宮から届いた召喚状を前に、リディアはしばらく動けなかった。
昨日までなら、ただ怖かっただろう。
また魔法を使えと言われるのか。
また誰かに嫌われるのか。
また、自分の存在そのものを否定されるのか。
けれど、今はそれだけではなかった。
召喚状には、エドガー・ヴァレンタインについての聴取を行う、と書かれている。
彼が「反転者」であること。
そして、リディアの魔法を受けたことで、通常とは逆に彼女への好意が強まっていること。
王宮がそれを問題視しているのは明らかだった。
「……行かなくちゃ」
誰に言うでもなく呟いて、リディアは召使いに支度を頼んだ。
逃げたところで、何も変わらない。
それに。
エドガーが戻ってくると言った。
なら、自分も逃げるわけにはいかなかった。
*
王宮の小さな会議室には、数人の魔術師と文官が集まっていた。
その中に、エドガーの姿はなかった。
それが少しだけ寂しい。
「リディア・アストレア。今回の召喚については理解しているな」
「はい」
「ヴァレンタイン卿が君の魔法を受けることで、一般の被術者とは異なる反応を示している。これは非常に珍しい事例だ」
「……反転者、ですね」
「ああ」
机の上に、古びた資料が置かれた。
何度も開かれた跡のある革張りの記録帳だった。
「三百年前にも、一例だけ確認されている」
リディアは記録帳を見る。
「その人物は、魔法を受けるほど術者への執着を強めた。最終的には術者を守るためなら、自分の命さえ惜しまなくなったと記録されている」
「それは……」
「危険だと思わないか?」
問いかけられて、リディアは答えられなかった。
確かに怖い。
もしエドガーの気持ちが、魔法によって少しずつ強くなっているのだとしたら。
もし、そのせいで彼が自分から離れられなくなっているのだとしたら。
それは愛と呼んでいいのだろうか。
「だからこそ、確認する必要がある」
魔術師の一人が言った。
「魔法の影響を完全に遮断した状態で、ヴァレンタイン卿が君に対してどのような感情を抱くのか」
「……遮断?」
「魔力遮断の術式を使う」
リディアは顔を上げた。
「その間、彼は君の魔力を一切受け取れない。君から魔法を受けることもできない」
「それで……」
「それでも君を好きだと言うなら、少なくとも彼の感情が魔法だけによって生じたものではないと判断できる」
胸が大きく鳴った。
嬉しい、と思うより先に怖くなった。
もし。
もし、魔法を遮断した途端、エドガーが自分を好きではなくなったら。
それはきっと、今までで一番痛い。
「本人には?」
「すでに了承を得ている」
「……そうですか」
エドガーは、もう決めていたのだ。
自分の気持ちを確かめるために。
リディアの魔法から離れることを。
「今日、ここに来てもらう」
そう言われた直後。
扉が開いた。
「失礼します」
聞き慣れた声だった。
リディアは反射的に顔を上げる。
エドガーが立っていた。
王宮魔術師の証である外套は身につけていない。
以前より少しだけ簡素な服装だった。
けれど、顔を見た瞬間。
胸の奥が、勝手に熱くなる。
「……久しぶりですね」
「一週間しか経っていませんよ」
「私には長かったので」
思わず本音がこぼれた。
エドガーが少し目を見開く。
それから、困ったように笑った。
「僕もです」
その一言だけで、泣きそうになった。
けれど、今はまだ。
確かめなければならない。
エドガーは机の上に置かれた術式を見ると、静かに椅子へ腰を下ろした。
「始めてください」
魔術師が術式を起動する。
淡い光がエドガーの身体を包んだ。
その光が消えた瞬間、リディアは妙な感覚を覚えた。
エドガーとの間に、薄い壁ができたような。
魔法の糸が切れた。
そんな感覚だった。
「これで、あなたの魔力は彼に届かない」
魔術師が告げる。
「では、質問をする」
エドガーは黙って頷いた。
「君は、リディア・アストレアに対して、今も好意を抱いているか?」
「はい」
迷いのない返事だった。
リディアは息を止める。
「その感情が魔法によるものではないと?」
「分かりません」
意外な答えだった。
けれど、エドガーは続ける。
「魔法の影響が完全にない、と証明することはできないと思います」
「では、なぜ好意が残っていると?」
「この一週間、彼女から魔法を受けないようにしていました」
エドガーの視線がリディアへ向く。
「それでも、朝起きると彼女のことを考えました」
リディアの指先が震えた。
「街を歩いていて、彼女ならこの店を気に入りそうだと思いました。食事をしていて、これを食べさせてあげたいと思いました。何か困っている人を見ると、彼女なら放っておけないだろうと思った」
エドガーは少しだけ苦笑した。
「正直、一週間では何も変わりませんでした」
「……エドガー様」
「でも、僕はそれでも怖いんです」
その表情には、今まで見たことのない弱さがあった。
「あなたの魔法を受けると、僕の感情が強くなる。それは事実でしょう」
「……はい」
「だから、今の僕があなたを好きだと言っても、それだけで安心してはいけないと思う」
リディアは俯いた。
その言葉は、拒絶ではない。
むしろ、誤魔化したくないという意思だった。
「だから、もう少しだけ時間をください」
「……はい」
「魔法がなくても、僕があなたを選び続けるのか。僕自身で確かめたい」
リディアは顔を上げた。
「私も……待ちます」
「いいんですか?」
「はい」
怖い。
でも、エドガーが自分の気持ちを確かめようとしているのなら、自分も逃げたくなかった。
「私も、エドガー様が魔法のせいで私を好きになっただけなら……その気持ちを利用したくありません」
エドガーは目を伏せる。
「あなたは、本当にそういうところがずるいですね」
「え?」
「そんなことを言われたら、もっと好きになりそうです」
思わず笑ってしまった。
けれどエドガーも笑いながら、すぐに真剣な顔へ戻った。
「……それすら、今の僕には断言できない」
「はい」
「だから、ちゃんと確かめます」
「はい」
それ以上の言葉は必要なかった。
術式によって隔てられているはずなのに。
今までより、ずっと近くにいる気がした。
*
その日の夕方。
エドガーは王宮を出る前に、リディアのところへ立ち寄った。
「送ります」
「でも……」
「魔法は使えませんよ」
冗談めかして言われて、リディアは笑った。
「知っています」
二人は並んで歩いた。
触れない。
魔法も使わない。
それでも、不思議と心細くなかった。
「リディア」
「はい?」
「明日も来てもいいですか?」
「……もちろんです」
「では、また明日」
エドガーはそう言って帰っていった。
その背中を見送りながら、リディアは胸に手を当てる。
誰かに好かれているかどうかなんて、ずっと怖かった。
けれど今は。
その人が、自分を選ぶために迷ってくれていることが、少しだけ嬉しかった。




