第7章 道路なんてありません
しばらく進んだところで、道がなくなった。
正確には、道だったものは残っている。
ノゾムたちの足元まで続いていた舗装路は、数十メートル先で唐突に途切れていた。その先にあるはずの地面ごと、広大な範囲が沈み込んでいる。
「……何これ」
足が止まった。
谷、と呼んでいいのか分からない。
自然に削られた地形ではなかった。かつて一続きだった街が、何十メートルもまとめて沈んだように見える。
傾いたビルの間から屋上が突き出し、そのさらに上を、途中で折れた高架道路や連絡通路が斜めに横切っていた。建物も道路も本来あった高さを失い、互いに重なりながら谷底まで複雑な層を作っている。
巨大な都市模型を壊して、そのまま放置したような光景だった。
どこが地面で、どこからが建物なのか、一目では判然としない。
「これ……降りるんですか?」
シンゴは答えなかった。谷を見下ろしたまま、ヘルメットをゆっくり左右へ巡らせている。
カイトが隣まで来た。
「たぶん降りるね」
「たぶん?」
「城戸さん、道探してるから」
ノゾムも谷へ目を凝らした。
足元から続いていた道路らしい帯は、沈下した街の中にも残っている。だが途中で崩れたビルへ突っ込み、その先では高さが大きくずれていた。谷底近くには橋らしい構造物も見えるが、そこへ至る道路自体が途中で消えている。
「……車じゃ無理だろ」
「だから俺らがいるんじゃん」
カイトが言った。
そのとき、遠くから低い音が響いてきた。
最初は雷かと思ったが、音は途切れず、規則的な振動を伴って荒野の向こうから近づいてくる。
「何?」
「エンジン」
カイトのヘルメットが音の方へ向いた。
谷のさらに向こう、かなり離れた場所に一本の幹線道路が伸びている。こちらの崩れた道とは違い、地形を大きく迂回しながら、その一部は高架になって遠くまで続いていた。
そこを巨大な車列が走っている。
「……でか」
先頭は重装甲の大型トラックだった。
その後ろには、箱型の巨大コンテナが何両も連結されている。
車というより、道路を走る貨物列車に見えた。
「定期便」
カイトが言った。
「ガラスのお城行き?」
「そ」
定期便の存在くらいは、ノゾムも知っていた。
ただ、まともに眺めたのは初めてだった。
自分たちは荷物を一個ずつ背負って歩いている。その遥か向こうでは、巨大なコンテナが何両もまとめて荒野を横切っていく。
一瞬、あれに乗せてもらえばいいんじゃないか、と思った。
だが定期便の幹線は、こちらから何キロも離れている。そこへ直接合流できそうな道も見当たらない。
「……何か来てない?」
定期便の周囲に、小さな影が増えていた。
何台かの車両が荒れ地を横切りながら車列へ近づいている。
ただ並走しているだけかと思った。
一台が急激に距離を詰めた。
荷台から人影が飛ぶ。
「強盗?」
「だろうね」
カイトの声は驚くほど平静だった。
反対側からも別の車両が寄っていく。そこから人影が跳び、走行中のコンテナへ取りつこうとした。
遠すぎて、顔も装備も見えない。
それでも何が起きているのかは分かった。
車列の側面が一瞬だけ光った。
人影のいた場所で、赤黒いものが弾ける。
「……え」
少し遅れて、低い音が届いた。
また閃光が走り、別の影が消えた。
続けて、もう一つ。
さらにもう一つ。
距離のせいで、それは小さな赤黒い花火のようにしか見えなかった。
強盗側の車両が一台、何かに弾かれたように進路を外し、煙を引きながら荒れ地へ逸れていく。別の一台は、定期便へ追いつく前に速度を落とした。
定期便は止まらない。
速度さえ、ほとんど変わらなかった。
人が飛びつき、落ち、車両が離れていく。その全部を後方へ置き去りにしたまま、巨大な連結コンテナはガラスのお城の方向へ走り続けた。
やがて、重いエンジン音も遠ざかっていく。
三人は少しの間、その後ろ姿を見送っていた。
駅のホームから、いつもの電車が遠ざかるのを眺めているような、不思議な時間だった。
「あっち通ってたら、俺らも巻き込まれてましたね」
カイトが言った。
「ああ」
シンゴのヘルメットは、もう定期便ではなく目の前の谷へ向いている。
「連中の目は定期便に向いてる。今のうちに行くぞ」
ノゾムも谷へ向き直った。
遠くでは、あれだけ巨大な荷物が何事もなかったように道路の上を運ばれていった。
こちらには、その道路そのものがない。
「……で、俺たちはこっちを?」
「だから歩くんじゃん」
「いや、これはもう歩くって言わないだろ」
谷底を見下ろす。
「ほぼ登山じゃん」
「荷物背負ったアスレチック?」
「言い換えても楽にはならないからな」
「行くぞ」
シンゴはもう動き出していた。
*
最初に渡ったのは、橋と呼ぶには頼りない代物だった。
崩れた道路から沈下した建物の屋上へ、二本の金属板が並べて渡してある。人ひとりが通れる程度の幅しかなく、手すりはない。
下を覗けば、できれば考えたくない高さだった。
「これ誰が作ったんだよ……」
「ランナーじゃね?」
カイトは、もう先へ足を乗せている。
「大丈夫なのか?」
「俺が落ちなかったら大丈夫」
「実験台が先に行く方式やめろよ」
「高嶺」
シンゴの声が飛んだ。
「足元見ろ」
「はい」
ノゾムは黙って前を向いた。
片足を板へ置き、ゆっくり体重を移す。
金属板がわずかに沈んだ。
心臓まで一緒に沈んだ気がした。
ゲートを出てから覚えた跳ねるような移動は、ここでは使えない。走行服とコンテナの重さを背負ったまま、細い足場を一歩ずつ渡る方がよほど怖かった。
どうにか向こう側の屋上へ着く。
「大丈夫だったろ」
「結果論だろ、それ」
そこからは建物の中へ入った。
かつてオフィスだったらしい空間は床ごと傾いていた。階段を一階分下り、壁の崩れた廊下を抜けて外へ出ると、次の建物との間が大きく裂けている。
「跳ぶぞ」
シンゴが言った。
「……これを?」
返事の代わりに、シンゴは踏み切った。
白と青の走行服が数メートルの空間を越え、向こう側の屋上へ着地する。
カイトも続いた。
「ノゾムー」
「呼ばなくても分かってる」
「早く」
「急かすなよ」
下を見ないようにして、ノゾムも膝を曲げた。
地面を蹴ると脚部フレームが力を加え、身体が一気に前へ押し出される。足元から地面が消えたのはほんの一瞬で、すぐに次の屋上が迫ってきた。
両足が着く。
走行服が衝撃を受け止め、一歩よろけただけで止まった。
「お。普通に飛べた」
「二度とやりたくない」
「たぶん、まだあるよ」
「今言うな」
そこから先は、道路ではなく建物を渡り歩く移動になった。
屋上から階段へ入り、傾いた廊下や連絡通路を抜けては、また外へ出る。途切れた場所では別の建物へ移り、必要なら跳んだ。
舗装された道路を進んでいる感覚は、もうない。
建物そのものが道になっている。
「これ、こういう場所も通れるんだな」
ノゾムは自分の走行服を見た。
「今さら?」
「分かってたよ。理屈では」
「それ分かってなかったやつ」
「うるさい」
前を行くシンゴが足を止めた。
「そっちじゃない」
カイトが正面を見る。
「え?」
建物の外壁に沿って、階段が上へ伸びている。
一見すると、そのまま上のフロアまで続いているように見えた。
「普通に行けそうじゃないです?」
「途中がない」
シンゴが言った。
ノゾムも階段を見る。
手前の踊り場から伸びる階段と、そのさらに奥にある上階の階段が、今いる位置からはちょうど一続きに重なって見えていた。
形だけなら、つながっている。
だが、おかしい。
階段の裏へ落ちる影と、その上の踊り場から伸びる影がつながっていない。
ノゾムは少し横へ移動した。
「……待って」
「何?」
「あの階段、途中からなくなってません?」
カイトのヘルメットがこちらを向く。
「どこ?」
「手前と上の階段が重なってるだけ。真ん中が落ちてる」
カイトも数歩横へ動いた。
「あ」
角度が変わると、階段の途中には数メートルの空間が開いていることがはっきり分かった。
「ほんとだ」
カイトがこちらへ向き直る。
「観察力あるねぇ」
「絵描く時、こういうの見るから」
「階段を?」
「そうじゃなくて。形がどうつながって見えるかとか」
「へえ」
シンゴも階段を見上げ、それから周囲を確認した。
「高嶺の言う通りだ」
それだけだった。
なのに、少しだけ嬉しかった。
「下から回る」
シンゴが別方向へ進む。
ノゾムはその先を見た。
細い通路が、谷底へ向かって斜めに続いている。
「……まだ下りるんですか?」
「上がないんだから仕方ないでしょ」
カイトが言う。
「お前に聞いてない」
*
そこから先は長かった。
崩れた壁際の足場を抜け、途中から傾いた階段へ入り、また外へ出る。谷底近くまで下りたと思えば、沈下した建物の屋上を横切って反対側へ回り、今度は細い通路を使って上へ戻っていった。
場所によっては手すりの残骸を掴み、脚部フレームの補助を借りて、コンテナごと身体を引き上げなければならない。
生身で同じことをしろと言われたら、最初の谷を見た時点で帰っていたと思う。
ノゾムは前を行くシンゴの足元を追った。
乗せられる場所へ足を置き、体重を預け、次の足場へ移る。
さっき大型犬を吹き飛ばした脚部フレームが、今度は届かなかった足場まで身体を押し上げてくれる。
最後は、谷の反対側に残った擁壁へ沿って斜めに登った。
シンゴが先に上がり、カイトが続く。
ノゾムも手を掛けた。
足場を決め、脚部フレームへ力を預ける。
身体が持ち上がり、最後の段差を越えた。
「……着いた」
ノゾムは振り返った。
さっきまでいた沈下地帯が、足元に広がっている。上から見ても、どこを通ってきたのか一目では分からなかった。
「あそこ通ってきたのか……」
「通ってきたねぇ」
カイトが言う。
ノゾムはHUDへ目をやった。
REMAINING:42.7 km
「……まだ四十キロ以上あるのかよ」
「順調じゃん」
「これで?」
「これで」
ゲートを出てから、もう三時間半近く経っていた。
かなりの距離を進んだつもりだった。
それなのに、数字だけを見ると、思ったほど減っていない気もする。
「これ、歩いた分だけ減ってるわけじゃないのか?」
「この数字、歩いた距離じゃないからな」
シンゴが言った。
「え?」
「今のルートで、あと何キロかって数字」
「ルート変わったら?」
「変わる」
「増える?」
「増える」
「聞かなきゃよかった」
カイトの笑い声が通信に混じった。
ノゾムはもう一度、谷を振り返る。
「車じゃ絶対無理だな」
「だから俺らがいるんじゃん」
今度は、言い返す気にならなかった。
*
谷を抜けてしばらくすると、荒野の中に人の気配が増えてきた。
崩れた建物と古い高架が広い日陰を作っている一帯に、何人ものランナーが休んでいる。
三人組もいれば、二人組もいる。一人で装備を確認している者もいた。
ノゾムたちと同じ白と青の貸与機に混じって、形や装甲の違う専用機らしい走行服も見える。
違うのは、走行服だけではなかった。
「背中の箱、全部違うんだな」
ノゾムは周囲を見回した。
ケーキ用より薄く縦長のコンテナもあれば、小さい代わりに分厚い装甲で覆われたもの、側面に何かの機器を追加した複雑な形のものもある。
その中に一つだけ、明らかに用途の違うケースがあった。
側面に細かな通気構造が並んでいる。
中から、小さな鳴き声がした。
「……犬?」
ノゾムは思わず足を止めた。
近づいて、通気部分の隙間を覗き込む。
暗いケースの奥から、丸いつぶらな瞳がこちらを見返していた。
「うわ」
小さな鼻先まで近づいてくる。
「珍しいだろ? 外から中身覗けるなんて」
ケースを背負ったランナーがこちらを向いた。
「あ、すみません」
「いいって」
「ペットですか?」
「子犬。まあ、生き物だからな」
ケースの中から、もう一度小さな鳴き声がした。
少し前には二十匹近い大型犬と殴り合っていたのに、同じ犬とは思えなかった。
「荷物によって箱も違うんですね」
「そりゃそうだろ」
横からカイトが言った。
「中身に合わせて箱も変わるよ。スーツより高い箱を使う案件だってあるし」
「またそれかよ」
「ほんとだって」
近くから別の会話が聞こえてきた。
「それ何?」
「ドレス」
「どこまで?」
「第2ゲート」
「遠」
別の場所からも声がする。
「今回ので学費足りる?」
「足りなきゃ次も走る」
少し離れたところでは、端末を囲んでランキングについて話している連中もいた。
ノゾムは自分の背中を意識した。
中身はケーキだ。
近くにはドレスを運ぶ奴がいて、子犬を背負っている奴までいる。
改めて考えると、変な仕事だった。
「高嶺」
シンゴの声がした。
ノゾムが振り返る。
「行くぞ」
「はい」
カイトも立ち上がった。
三人は再び荒野へ出た。
遠くでは、ガラスのお城がまだ光っている。
距離は確実に縮まっているはずなのに、見た目にはほとんど変わらない。
ノゾムは地面を蹴った。
道路はなくても、どこを進めるのかは、さっきより少しだけ分かるようになっていた。




