第6章 噛みつかれても
しばらく進むうちに、ノゾムは走行服に振り回されることが減っていた。
地面を蹴り、身体を預ける。着地では姿勢を崩さない。それだけを意識すれば、あとは機械の方が動きを拾ってくれる。
「慣れてきたじゃん」
隣を軽く跳ねながら、カイトが言った。
「まあ」
「もう新人には見えないな」
「それは言いすぎだろ」
「じゃあ半人前」
「下げるなよ」
通信越しにカイトの笑い声が聞こえた。
少し前を行くシンゴは会話に入らない。だが、ヘルメットは時折進行方向から外れ、左右の荒野へ向いていた。
ノゾムもつられて周囲を見る。
崩れた道路の脇には横倒しになった鉄骨があり、その先では建物の一部が土に半分埋もれている。目に入るのは、どれもさっきから見てきた荒野の景色だった。
少なくともノゾムには、それ以上の何かは見つけられない。
「止まれ」
シンゴの声がした。
カイトは即座に動きを止めた。ノゾムは一拍遅れて着地し、どうにか足を止める。
「何です?」
シンゴは答えなかった。
ヘルメットが右前方へ向いている。
大きなコンクリート塊の陰で、何かが動いた。
地面に近い位置で二つの光がこちらを向く。
「……犬?」
一頭が姿を現した。
ノゾムが知っている大型犬より、明らかに大きい。肩は高く、首から胸にかけて異様に分厚い。荒れた毛並みの下には硬そうな筋肉が浮いていた。
低い唸り声が外部マイクを通して届く。
その後ろから、もう一頭が出てきた。
カイトが小さく舌打ちした。
「元は軍用犬だよ」
「元?」
「昔の戦争で使ってたやつ。野良になって、そのまま増えた」
「そんなのが――」
「いるから目の前にいる」
「それ言うと思った」
今度は左から唸り声がした。
道路の割れ目や崩れた車体の陰、斜面の上から、次々に大きな影が姿を現してくる。
ノゾムは途中まで数えたが、すぐに諦めた。
「……多くない?」
カイトが周囲へヘルメットを巡らせる。
「ざっくり二十匹」
「二十?」
犬たちは一斉には飛びかかってこなかった。
こちらとの距離を保ったまま左右へ広がり、三人を取り囲むように位置を変えていく。
その動きを見ているうちに、ノゾムの口の中が急に乾いた。
「これ、生身だったら……」
「食われるだろうな」
シンゴが淡々と言った。
「さらっと言わないでくださいよ」
「寄れ」
三人が間隔を詰める。
シンゴは群れを見たまま言った。
「なるべく腕振り回せ」
「え?」
「この程度で弾使ってたら、きりがないぞ」
「この程度って――」
一頭が地面を蹴った。
真正面から来る。
「うわっ!」
ノゾムは反射的に右腕を振った。
前腕装甲が犬の肩口へぶつかる。
軽く払いのけるつもりだった。
ところが、犬の身体は横へ大きく飛び、そのまま地面を転がった。
呆気に取られた一瞬を狙うように、別の一頭が前腕装甲へ噛みついた。
「うわっ、離せ!」
腕を振る。
牙を立てたまま、犬の脚が地面から浮いた。
さらに振ると、今度は身体ごと持ち上がる。
「ちょ、離れろって!」
「ノゾム、振りすぎ!」
「だったらどうすんだよ!」
叫び返したところへ、別の一頭が脚へ突っ込んできた。
反射的に蹴ると、脚部フレームがその動きに力を足した。
犬は数メートル先まで転がっていく。
「マジかよ……」
「前!」
シンゴの声に、ノゾムは顔を戻した。
もう一頭が飛び込んでくる。
避ける暇はなかった。
右拳を突き出す。
ぶつかった。
硬い衝撃の直後、何かが砕けるような嫌な感触がフレーム越しに腕へ返ってきた。
何が砕けたのか、考えたくなかった。
だが、その前に次の一頭が来る。
「くそっ!」
両腕で受け、そのまま押し返した。横から来た犬を前腕で払い、足元へ潜り込んだ別の一頭を蹴り飛ばす。
もう格好なんて気にしていられない。
噛みつかれれば振りほどき、飛びかかられれば殴る。力任せに押し返しているだけなのに、走行服がその動きを増幅するたび、目の前の犬は確実に距離を取っていった。
ノゾムは荒い息を吐いた。
いける。
少なくとも、やられっぱなしではない。
もう一頭を押し飛ばしたところで、右腕固定銃を思い出した。
自分にもある。
犬へ銃口を向けようと右腕を上げた途端、横から別の一頭が飛びついてきた。
「うわっ!」
銃を構えるどころではない。
払い落とし、もう一度右腕を上げる。
今度は足元へ来た。
「だから待てって!」
蹴り飛ばし、向きを変えると、さらに別の一頭が迫ってくる。殴って押し返しているうちに、また右腕固定銃を使う暇がなくなった。
そのとき、横から短い発砲音が一発だけ響いた。
一頭が地面へ転がる。
カイトが右腕を伸ばしていた。
続けて、もう一発。
別方向から走り込んできた犬が倒れた。
一頭が地面へ転がる。
カイトが腕を伸ばしていた。
続けて、もう一発。
別方向から走り込んできた犬が倒れた。
カイトは撃ち続けていない。近づいてきた個体を一頭ずつ、必要なときだけ撃っている。
「……おい!」
「何?」
「銃使ってるじゃん!」
「使うだろ!」
「城戸さん、腕振り回せって言ったじゃん!」
反対側からも一発。
シンゴだった。
飛び込もうとしていた一頭が地面を滑る。
「誰も使うなとは言ってねぇ」
「ええ!?」
「撃ちまくるなって言ってる」
「だったら先に――」
「言っただろ。なるべく、って」
返す言葉がない。
犬は待ってくれなかった。
ノゾムは結局、また腕を振った。
それから何頭を殴り、何頭を蹴ったのかは分からない。
気づけば、群れはもう懐まで飛び込んでこなくなっていた。
何頭かが地面に倒れている。一頭は動かず、別の一頭は脚を引きずりながらこちらとの距離を取っていた。
やがて、群れの一頭が大きく後退する。
それに続くように、ほかの犬も一頭、また一頭と瓦礫の向こうへ姿を消していった。
「追うな」
シンゴが言った。
カイトはすでに腕を下ろしている。
ノゾムもようやく構えを解いた。
「……終わった?」
「たぶん」
「たぶん?」
「戻ってくるかもしれないだろ」
「今はそれ言わなくていいから」
大きく息を吐くと、自分の荒い呼吸がヘルメットの中へ響いた。
身体には痛いところがない。
「……すご」
「何が?」
カイトが聞く。
「あんなに強く噛まれたのに、何ともない」
「犬の牙で抜ける装甲を着て荒野を歩くのか?」
シンゴが言った。
「いや……そうなんですけど」
ノゾムは噛み跡の残った前腕装甲を見た。
わずかに凹み、表面の塗装が剥がれている。それでも、装甲そのものには大きな損傷はなかった。
「これ着てたら……無敵じゃないか?」
「こんなのは大したことねぇ」
シンゴから即座に返ってきた。
「これで?」
「獣は損だと思えば引く」
シンゴのヘルメットは、犬たちが消えた方を向いたままだった。
「面倒なのは、追っ払っても諦めねぇ奴だ」
わずかに間を置いて続ける。
「弾は無限じゃない」
それだけ言うと、シンゴは歩き出した。
「それで無敵とか言ってるなら、まだ早いって」
カイトもその後を追う。
「何が?」
「それ、ただの貸与機だからな」
ノゾムは自分を覆う白と青の走行服を見下ろした。
「これでこの性能?」
「だから」
カイトの声が少し弾む。
「オーダーメイドの専用機を持ってからが本番だって」
*
野犬の群れから十分に距離を取ったところで、シンゴが崩れた高架の下へ進路を変えた。
「休む」
「賛成」
高架の落とす影に入り、三人は足を止めた。
ノゾムは腰掛けられそうなコンクリート塊を見つけ、そこへ身体を預けた。背中にコンテナを付けたままでも、どうにか休める高さだった。
「疲れた……」
息を吐いたところで、口元に何かが触れた。
「うわ」
ヘルメットの内側から、細いチューブが伸びている。
「なんかストロー生えてきたんだけど」
「それ、給水機。飲める時に飲んどいた方がいいよ」
カイトが言った。
「スーツの中で脱水起こすと洒落にならんぞ」
シンゴも続ける。
「……こういうところだけ妙に親切だな」
ノゾムはチューブを咥えた。
吸うと、水が口へ入ってくる。
「おお……」
「何に感動してんの」
「勝手にストロー出てくるとは思わないだろ」
「犬二十匹と戦った後の感想がそれ?」
「今は水の方が大事」
もう一口飲む。
喉の乾きが一気に引いていった。
カイトも給水しながら端末を取り出す。
「ほら」
「何?」
「さっきの専用機」
画面には、パーソナル・ランナースーツのリース案内が表示されていた。
「本当に契約するつもりなんだ」
「そのために今回走ってんだよ」
カイトが画面を送る。
「身体に合わせて調整できるし、使ってりゃ動きの癖も覚える。武装も選べるし」
「色も?」
「そこ大事」
「そうか?」
「大事だろ。いつまでも会社の白青じゃ格好つかないって」
「まだ格好つける段階じゃないだろ」
「なるんだよ。スターに」
即答だった。
ノゾムは画面を見る。
数字や仕様より、さっき自分の身体で味わった感覚の方が先に浮かんだ。
犬を吹き飛ばした腕と、牙を止めた装甲。それが最初から自分の身体に合わせて作られる。
「……ちょっといいな」
「だろ?」
カイトの声が明るくなる。
「今回の報酬が入れば、専用機のリースに手が届くんだよ」
「この報酬で?」
「そう。そこから俺の輝けるスターランナーへの道がスタートするわけよ」
「よく恥ずかしげもなく言えるな」
「何で恥ずかしがるんだよ」
迷いがない。
少し離れて休んでいたシンゴが鼻を鳴らした。
「首輪を増やしても、鎖が太く頑丈になるだけじゃねぇか」
「はいはい。また始まった」
「首輪って?」
ノゾムが聞く。
「会社のスーツ借りて、会社の仕事して、その稼ぎで会社にリース料払うんだろ」
シンゴは淡々と言った。
「どこが自由なんだよ」
「でも俺は上に行くから」
カイトもすぐに返した。
「専用機で結果出して、ランキング上げる。スポンサー付いて、指名が来るようになったら――」
カイトのヘルメットが高架の外へ向いた。
陽炎の向こうで、クリスタ・ヒルズが光っている。
「俺、いつかあっちに住むから」
さっきまでより少しだけ静かな声だった。
シンゴは短く返した。
「だったら生き残れ」
「夢ないなあ、城戸さん」
そう言いながら、カイトもそれ以上は食い下がらなかった。
「……本気なんだ」
ノゾムが言う。
「当たり前だろ」
少し間があった。
「で、ノゾムは?」
「何が?」
「四十八万。何に使うの?」
「別にいいだろ」
「借金?」
「違う」
「車?」
「違う」
「女?」
ノゾムは一瞬、答え損ねた。
通信越しにカイトの笑い声が聞こえる。
「女じゃん」
「違うって」
「今の間は絶対女だろ」
「欲しいものがあるだけ」
「女に?」
「違う!」
カイトが笑う。
ノゾムは話を切るようにシンゴへ向いた。
「城戸さんは?」
「何が」
「何でランナーやってるんです?」
「金」
返事は早かった。
「……それだけですか?」
「それ以外に何がいる」
ノゾムが次の言葉を探しているうちに、シンゴが立ち上がった。
「行くぞ」
カイトが端末を閉じる。
三人は再び日差しの下へ出た。
ノゾムは地面を蹴る。
白と青の貸与機が身体を前へ運んだ。
今回だけなら、これで十分だ。
もう一度、地面を蹴る。
それでも、さっき見たオーダーメイドの専用機が妙に頭に残っていた。機が妙に頭に残っていた。




