第5章 荒野で跳ねる
ゲートが閉じると、街の音が消えた。
ノゾムは振り返った。
ついさっきまで自分たちがいた街へ続く開口部は、もうない。巨大な防壁が荒野と街を完全に切り離している。
本当に外へ出たのだという実感が、閉鎖音より少し遅れて追いついてきた。
HUDの端には、変わらず数字が浮いている。
REMAINING:67.8 km
「……遠いな」
「今さら?」
少し先でカイトが振り返った。
「数字で見ると余計に」
「見なきゃいいじゃん」
「そういう問題じゃないだろ」
カイトが笑った。
ノゾムは前を向いた。
そこでようやく、荒野をまともに見た。
広い、というだけでは足りない。
街の中なら、どこを見ても何かがある。建物の壁、窓、看板、信号、人、車。視線は何かにぶつかり、そのたびに距離を測り直せる。
ここには、それがほとんどない。
乾いた地面がところどころ裂けながら遠くまで続き、道路だったらしい帯は途中で崩れ、埋まり、場所によってはどこへ続いていたのかさえ分からなくなっている。
遠くには建造物の残骸があった。壁だけ残ったものや、骨組みをむき出しにしたもの。上半分を失った塔のような構造物の向こうには、真っ二つになった巨大な貨物船らしきものまで見える。
真夏の日差しを受けた面だけが白く浮かび、その裏に濃い影が張りついていた。
話には聞いていた。
防壁の外は危険で、道路もまともに残っていない。武装した人間もいる。
知ってはいた。
でも、自分から考えたことはなかった。
大学へ向かう途中に、わざわざ壁の向こうを想像したことなどない。篠原先輩の絵を見ながら、都市の外で誰がどう生きているのかを考えたこともなかった。
考える必要がなかったからだ。
ノゾムは目を細めた。
さらに遠く、陽炎の向こうで何かが光を返している。
高い塔を含む建物の集まり。そのガラス張りらしい外壁が、夏の日差しを拾ってちらついていた。
クリスタ・ヒルズ。
街の人間が「ガラスのお城」と呼ぶ場所。
城塞都市の中からでも見えることはあった。高い場所へ行けば、防壁の向こうにぼんやり光っている。
ただ、その間に何があるのかを考えたことがなかった。
自分たちの街と防壁、その向こうにあるガラスのお城。
頭の中では、それだけだった。
今は、その間に横たわるものが全部見える。
何十キロもの荒野と、壊れた道路。崩れた建物に、乾いた地面。
少なくともノゾムの目には、とても人が暮らせる場所には見えなかった。
なのに、その向こうではガラスのお城が光っている。
「あそこまで行くのか……」
口にしてから、言うまでもなかったと思った。
「そうだよ」
カイトがあっさり答える。
「第4ゲートな」
「見れば分かる」
「なら聞くなよ」
「独り言だよ」
「じゃあ声に出すなって」
やっぱりこいつ、距離が近い。
出会ってまだ大して時間も経っていないのに、昔から一緒にいるみたいに話しかけてくる。
普段なら、もう少し放っておいてくれと思ったかもしれない。
でも今は、そのどうでもいいやり取りが少しありがたかった。
もし、ここに一人で立っていたなら。
ノゾムはもう一度、荒野を見た。
考えたくない。
少し前をシンゴが歩いている。
白と青の共用走行服。ノゾムが着ているものと大きく違うわけではない。それでも、その背中だけで何となく分かる。
この人は、ここを知っている。
ランナー十一年目。
ノゾムが今日初めて見た場所を、シンゴは十一年歩いてきた。
少なくとも今は、あの背中についていけばいい。
そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。
「行くぞ」
「あ、はい」
三人は歩き出した。
近くに見えた構造物が、歩いてもなかなか大きくならない。強い光を受けた面と、その裏側へ落ちる濃い影。遠くの構造物がいくつも重なり、その間にどれほど距離があるのか、一目では掴みにくい。
ノゾムは無意識に、その重なりを目で追っていた。
絵にするなら、どこを基準に置く。
どこまで入れれば、この広さが出る。
そんなことを考えているうちに、前との差が開いた。
「遅れるな」
「すみません」
ノゾムは歩幅を広げた。
一歩踏み出すと、腿に沿った外骨格が動きを拾い、脚を前へ送り出す。次の一歩では腰のフレームまで連動し、身体を前へ運んだ。
「うわ」
思ったより進んだ。
慌てて次の足を出せば、その動きもまた補助される。
自分が歩こうとするたび、その続きを機械が少し大きくして返してくる。
どうにも噛み合わない。
前を行くシンゴが止まった。
「高嶺」
「はい」
「全部歩こうとするな」
「……はい?」
意味が分からない。
シンゴは説明する代わりに、少し膝を曲げた。
地面を蹴る。
白と青の走行服が、するりと前へ出た。
大きく跳んだわけではない。足が地面を離れたのは一瞬なのに、普通に一歩踏み出すよりずっと長い距離を進んでいる。
着地すると、そのまま次の踏み切りへ移った。また身体が低く浮き、数メートル先へ運ばれる。
「蹴ったら、スーツに運ばせろ」
「運ばせる……?」
「見てりゃ分かるって」
カイトが横から口を挟んだ。
軽く膝を曲げて地面を蹴る。シンゴより少し大きく身体が浮き、着地すると、ほとんど間を置かずにまた踏み切った。
「こんな感じ」
「簡単そうにやるなよ」
「力を入れすぎなんだって。自分で全部やろうとするから変になる」
カイトがもう一度跳ねる。
「最初だけ蹴って、後は任せりゃいいんだよ」
同じ走行服なのに、二人の動きはかなり違っていた。
シンゴは低く、一定だった。必要な分だけ進み、余計な動きをしない。
カイトはもう少し大きく、軽快に跳ねる。
どちらも走行服の動きと身体がきれいに噛み合っている。
やってみるしかない。
ノゾムは膝を曲げ、少し強めに地面を蹴った。
「うわっ!」
踏み切った瞬間、脚のフレームが力を足した。
地面が予想以上の速さで後ろへ流れ、身体が前へ傾く。
転ぶ。
そう思った瞬間、腰と脚のフレームが動き、姿勢を起こした。
両足が地面へ戻る。
足裏に来た衝撃を脚のフレームが受け止め、生身なら膝まで突き抜けてきそうな重さがそこで大きく削られた。
だが、前へ進む勢いまでは消えない。
ノゾムは二歩ほどよろけ、どうにか止まった。
「強すぎ」
カイトが言った。
「今日初めてなんだって」
「だから力抜けって」
「着地の衝撃はフレームが食う」
シンゴが言った。
「だからバランスだけに集中しろ」
「それが難しいんですけど」
「慣れろ」
それで終わりだった。
ノゾムは少しむっとしたが、振り返って驚いた。
一度蹴っただけなのに、思っていたより遠くまで来ている。
もう一度やってみたくなった。
今度は、さっきより弱く。
膝を曲げて地面を押すと、ほとんど同時に脚のフレームがもう一押しを加えた。足が離れ、一瞬だけ身体が軽くなる。
着地では、身体の中心を足の間に残すことだけを意識した。
今度はよろけない。
「お」
カイトの声が聞こえた。
ノゾムはそのまま、もう一度地面を蹴った。
少しだけ長く浮き、着地してまた次へ。
何度か繰り返すうちに、コツが分かってきた。踏み切った後は走行服に任せ、着地では姿勢だけを保つ。全部を自分で動かそうとする方が、かえって機械の邪魔になる。
装甲の重さが消えたわけではない。
それでも、その重量を自分一人で引き受けなくていい。
地面を蹴れば、普段より長く身体が宙に残る。
月面を歩くって、こんな感じなのかな。
本物を知っているわけではない。それでも、自分の身体から重力を少しだけ差し引かれたような感覚には、その言葉が一番近かった。
今度は少し強く踏み切る。
走行服が動きを拾い、身体が前へ出た。
風景が流れる。
「おお……」
思わず声が漏れた。
「な?」
少し先を行くカイトが振り返る。
「楽しいだろ」
「……まあ」
「認めろよ」
「楽しいよ」
「だろ?」
カイトが笑う。
確かに楽しかった。
さっきまで、人が暮らせるとは思えないほど荒れて見えた土地だ。
壊れたものは壊れたまま。遠いものも遠いままなのに、自分の身体の方が変わっただけで、景色の意味が少し違って見える。
生身ならできない動きを、自分の身体でやっている。
あそこまでなら行けるかもしれない。
そう思える場所が、一歩ごとに増えていく。
カイトが軽く地面を蹴り、少し距離が開いた。
追いつけそうな気がした。
ノゾムも膝を曲げ――そこで、ふと背中の荷物を思い出した。
「……待って」
踏み切りをやめる。
カイトが振り返った。
「何?」
「こんなに跳ねてて、中、大丈夫なのか?」
「中?」
「ケーキ」
「ああ」
カイトは、そんなことかという声を出した。
「平気平気。このコンテナ、中が二重になってるんだよ」
「二重?」
「外側が跳ねたり転がったりしても、中の荷物まで一緒にひっくり返らないようになってる。中身は中身で安定するように支えられてんの。仕組みはよくわかんねぇけど」
カイトは自分の背中を親指で示した。
「普通に走ったり転んだりするくらいじゃ平気」
「転んでも?」
「それくらいで荷物ぐちゃぐちゃになってたら、荒野で配送なんかできないだろ」
「でもケーキだぞ」
箱だけ無事でも、中身が崩れたら意味がない。
「装甲車に撥ね飛ばされた程度で壊れる箱を、荒野には持ち出さん」
前を歩いていたシンゴが口を挟んだ。
ノゾムは思わずそちらを見る。
「……そこまで?」
シンゴは振り返りもしない。
カイトが肩をすくめた。
「この箱、俺らの装甲よりいい素材使ってるんだよねぇ」
ノゾムは自分の身体を覆う装甲を見て、それから見えない背中のコンテナを意識した。
「……俺の装甲より、このケーキの箱の方が頑丈なのかよ」
カイトが吹き出した。
「箱がだよ。中身まで装甲化されてないから」
「分かってるよ」
「安心した?」
「ちょっとだけ」
少なくとも、自分が少々跳ね回ったくらいで中身を台無しにする心配は薄そうだった。
ノゾムは再び地面を蹴った。
今度は着地でもほとんどよろけない。
「飛ばすな」
「飛ばしてませんけど」
「六十七キロある」
ノゾムはHUDを見た。
数字は確かに減っている。
だが、達成感を覚えるにはまだ早すぎる程度しか減っていない。
「……長いな」
「だから今さらだって」
カイトが言った。
「分かってるよ」
ノゾムは少し速度を落とし、シンゴの動きを真似した。
高く跳ばず、必要な分だけ地面を蹴る。
まだシンゴほど滑らかではない。カイトほど気軽にも動けない。
それでも、ゲートを出た直後よりずっと身体と走行服の動きが噛み合ってきていた。
ふと見ると、シンゴのヘルメットが時折、進行方向から左右の荒野へ向いている。
何かを探しているというより、周囲を確かめているようだった。
ノゾムもつられてそちらを見る。
乾いた地面と、崩れた構造物があるだけで、特に何も見つけられない。
シンゴは何も言わず、またヘルメットを前へ戻した。
遠くには、ガラスのお城がまだぼんやりと光っている。
距離が縮まったようには見えない。
HUDに浮かぶ数字も、相変わらず馬鹿みたいに長い。
六十七キロ。
一回だけの仕事。
背中にはケーキ。
隣には、距離感のおかしいカイト。
少し前には、荒野を十一年歩いてきたシンゴ。
状況そのものは、何ひとつ楽観できない。
それでも、一人ではなかった。
そして次の一歩を踏み出すことは、もう嫌ではなかった。
ノゾムは地面を蹴った。
走行服が、その一歩を少しだけ遠くまで運んだ。




