第13章 少し遅かったですね
クリスタ・ヒルズへ入ってからも、ノゾムはしばらく右腕を意識していた。
照準表示はもうない。右腕固定銃も、肩部作業投射器も反応しない。ほんの少し前まで、自分たちと追ってくる男たちの間にあったものが、今では走行服へ取り付けられた重りにしか見えなかった。視界の端には、さっき切り替わった表示がまだ残っている。
CIVILIAN ZONE
SECURITY INTERLOCK ACTIVE
WEAPON SYSTEMS LOCKED
前を歩くカイトも、ときどき右腕を動かしていた。武装が止まったことを確かめているのか、それとも荒野で身についた癖が抜けないだけなのか、ノゾムには分からない。シンゴだけは何も言わず、少し前へ傾いた姿勢のまま歩いていた。
三人が進んでいるのは、そのまま街へ入る大通りではなかった。白いラインに沿って建物の脇へ分けられた細い進入路があり、HUDの案内もそちらを示している。
「こっちで合ってる?」
「俺のはこっちになってる」
ノゾムが答えると、カイトがその先へ顔を向けた。
「何だ、あれ」
ノゾムにも見えた。屋根の付いた長い設備が進入路を覆っている。左右には円筒形の機械が並び、上からは太いホースやノズルが何本も下がっていた。床一面には細い溝が切られ、その先は大きな排水口へ集まっている。形だけなら、大型車用の洗車設備に近い。
「……洗うの?」
カイトが言った。
シンゴは何も答えず、そのまま中へ入っていった。
「入るんだ」
「他に道ないだろ」
カイトに続いてノゾムも足を踏み入れる。数歩進んだところで、頭上からいきなり水が落ちてきた。
「うわっ!」
高圧水がヘルメットを叩き、バイザー全体が一瞬白くなる。視界が戻る前に今度は左右から噴射が来た。肩、胸、腰、脚へ順番に水圧が当たり、装甲の継ぎ目へ入り込んでいた泥や砂が流れていく。
ノゾムは反射的に肩をすくめた。もちろん水が走行服の中へ入ってくるわけではない。それでも、耳のすぐ外で水が叩きつけられる音は大きく、身体まで縮むような気がした。
「本当に洗車じゃん」
通信越しにカイトの声が聞こえた。
次の区画では白い泡が全身を覆った。左右の円筒が回転しながら近づき、柔らかい素材が装甲表面をこすっていく。荒野を歩くうちに積もった土埃が剥がれ、脛にこびりついていた泥も消えていった。爆発で黒く煤けた装甲も、少しずつ元の白さを取り戻していく。
ノゾムは前を歩くシンゴを見た。左肩の周囲にこびりついていた黒い汚れが泡に溶け、その中へ赤い筋が混ざった。乾いていた血だった。薄い赤が白い泡を染め、脚を伝って床へ落ちる。排水溝へ吸い込まれるころには、もう何の色なのか分からなくなっていた。
ノゾムは自分の右腕へ目を落とした。銃身の周囲に残っていた煤も、水と洗浄剤に流されていく。
人間へ向けて撃った、あの二発。
一発目で長銃の男が倒れた。二発目は、その銃を拾った男に当たり、胸に吊った手榴弾が爆発した。そのあとも銃は使った。だが、人間そのものではなく、遮蔽物へ向けて撃った。そこにある違いを自分がどう考えているのか、まだ言葉にはできなかった。
洗浄剤が流れ落ちると、右腕の装甲は朝に近い白さへ戻っていた。傷まで消えたわけではない。それでも、表面の汚れがなくなるだけで見た目はずいぶん違った。
最後の区画では、今度は強い風が吹きつけた。装甲表面の水滴が一気に飛ばされ、隙間に残った水まで吸い出されていく。
洗浄設備を抜けたところで、ノゾムは思わず足を止めた。
芝生があった。
道路の両側へ、均一な高さに刈られた緑が続いている。その奥には街路樹が並び、細い水路の水面に建物の照明が揺れていた。ガラス張りの低層建築の間を、音のほとんどしない小型車が滑るように走っていく。
壁が崩れていない。窓も割れていない。道路に穴が開いていない。銃弾の跡もない。それだけのことが、ひどく目についた。通気系から入ってくる空気には草の匂いが混じっている。焼けた金属も、乾いた土も、火薬も感じない。
ノゾムは振り返った。洗浄設備の向こうには、クリスタ・ヒルズを囲む厚い壁がある。その先には、ついさっきまで自分たちが歩いていた場所が続いているはずだった。同じ一本の道路の先とは思えなかった。
背後で重い音がした。
振り返ると、シンゴが倒れていた。
「城戸さん!」
カイトが先に駆け出す。
シンゴは右膝をついた状態から、そのまま横へ崩れていた。走行服から、これまで何度も聞いてきた警告音より長い音が鳴っている。
ノゾムも駆け寄り、負傷した左肩へ触れないよう反対側へ回ろうとした。だが、その前に別の足音が近づいてきた。
「下がってください」
白い服を着た三人が走ってくる。一人が端末をシンゴの走行服へ向け、もう一人が担架らしい機材を床へ広げる。折り畳まれていたフレームが伸び、数秒で人一人を載せられる形になった。残る一人は走行服の接続口へ医療機器を取り付け、表示を確認しながら短い指示を飛ばしている。
ノゾムは、その動きを見ていることしかできなかった。
荒野には、こういうものはなかった。シンゴが撃たれたとき、傷口を塞いだのは走行服だった。その先は、自分たちで歩くしかなかった。傷が実際にどうなっているのかも、ノゾムには分からなかった。
ここでは、人がすぐに走ってくる。担架もある。医療機器も揃っている。誰も怒鳴らず、慌てず、それぞれが決められた手順を進めていた。
「城戸さん」
ノゾムが呼ぶと、シンゴがわずかに顔を動かした。
「……荷物、行け」
「でも」
「行け」
それだけだった。
ノゾムは背中の配送コンテナを意識する。クリスタ・ヒルズには入ったが、荷物はまだ受取人の手へ渡っていない。仕事は終わっていない。
分かっているのに、足が動かなかった。
「大丈夫だろ」
カイトが言った。
「城戸さん、ああ見えてしぶといし」
いつもの軽さを出そうとしたのかもしれないが、声は少し硬かった。
医療スタッフがシンゴを担架へ固定し、そのまま奥の建物へ運んでいく。ノゾムはその姿が入口の向こうへ消えるまで見送った。HUDが小さく鳴り、止まっていた配送ナビが再開する。
そのとき、カイトが道路の分岐を見た。
「俺の届け先、こっちだから」
カイトが示した方向は、ノゾムのHUDが示す進路とは別だった。
「ここで別れる?」
「みたいだな」
ほんの少し間があった。
「じゃあ、また機会あったら」
あまりに普通の言い方だったので、ノゾムは返事が遅れた。
「……俺は今日だけだよ」
「そっか」
カイトはそれだけ言って歩き出した。
「カイト」
呼ぶと振り返る。
「何?」
ノゾムは、何を言えばいいのか少し迷った。朝に会ったばかりの相手だった。それなのに、走行服の動かし方を教えられ、一緒に荒野を歩き、笑い、逃げ、撃ち合いまでした。たった一日の出来事なのに、今朝のことがずいぶん前のように感じられる。
全部を言葉にする必要はないと思った。
「……声かけてくれて、ありがとな」
カイトが変な顔をした。
「何それ」
それから少しだけ笑った。
「じゃあな、ノゾム」
握手もしなかった。次に会う約束もしない。カイトはそのまま歩いていき、白い建物の角を曲がると見えなくなった。
ノゾムは一人になった。背中には、まだ荷物がある。HUDの矢印が進むべき方向を示していた。
ノゾムは歩き出した。
*
クリスタ・ヒルズの中を一人で歩いていると、自分だけが妙に大きく見えた。
道を行き交う人々は普通の服を着ている。夕食へ向かうらしい家族、犬を連れた人、ベンチで話す老人、学校帰りらしい若者。走行服姿のノゾムへ目を向ける者はいるが、せいぜい珍しい車を見る程度だった。
荒野の泥も煤も、さっきの設備ですっかり洗い流された。装甲には傷が残っているものの、遠目には朝とそれほど変わらないかもしれない。
ノゾム自身は、まだ荒野から出切れていなかった。横道から人が現れると反射的にそちらを見て、建物の陰があれば、その奥を確かめる。頭上に通路があれば、誰か立っていないか視線を送った。
右腕固定銃は動かない。ここでは動かす必要もない。頭ではそう分かっているのに、身体の方がまだ外を歩いていた。
ナビゲーションの矢印が、大きな建物へ向いた。
ガラスと白い石材を組み合わせたホテルだった。入口には制服姿のスタッフが立ち、ロビーの奥には大きな照明と植物が見える。ノゾムが近づくと、案内は正面玄関ではなく建物の脇へ続いた。
「こっち?」
小さく呟きながら進むと、やがて音楽が聞こえてきた。弦楽器の柔らかな音。その間に人の笑い声が混じっている。
ホテルの裏手には庭園が広がっていた。花壇の間に小さなテーブルがいくつも並び、その上には料理やグラスが置かれている。参加者は二十人ほどだろうか。大規模な晩餐会というより、互いに顔を知っている者同士の小さなパーティーに見えた。
男も女も若い。着ているものはそれぞれ違うが、ノゾムが普段目にする服より、どれも仕立てがよさそうだった。
本当にここなのかと思いながらHUDを見ると、案内は間違いなく庭園の中を示している。
ノゾムは石畳へ足を踏み出した。走行服の足音が庭の音楽に混じる。
近くにいた一人が振り返った。
「あっ」
その声で、何人かがこちらを見る。
「来た」
「ランナーだ」
一人が拍手した。隣の人も続く。何が起きているのか理解する前に、それは庭全体へ広がっていった。
ノゾムは足を止めそうになった。拍手は自分へ向けられている。笑顔で手を叩いている人がいる。端末をこちらへ向ける者もいた。
「すごい」
「本当に荒野を越えてきたんだ」
胸の奥が、わずかに熱くなった。
荒野へ出た朝には、この場所まで来られるのかどうかさえ分からなかった。その途中で道路は消え、人に撃たれ、自分も撃ち返した。最後には、目の前を塞いでいたバリケードを崩して、どうにか荷物が通れる道を作った。
それでも、背中のコンテナはここにある。
ノゾムは拍手の間を進んだ。
人の輪が開き、その奥から一人の女性が出てきた。金髪に赤いドレス、首元には大きな宝石が光っている。周囲の人々と比べても華やかな格好だった。
女性はノゾムを見ると、本当にうれしそうに顔を明るくした。
「来た!」
HUDが反応し、女性の顔の横に認証表示が重なった。
RECIPIENT IDENTIFIED
AUTHENTICATION COMPLETE
正式な受取人で間違いない。
背中でロックが外れる音がして、配送コンテナの扉が開いた。周囲から小さなどよめきが起こる中、女性の近くにいたホテルスタッフらしい男性が歩み寄り、コンテナから大きな箱を慎重に取り出した。
箱がテーブルへ置かれ、蓋が開く。
「わあ……!」
女性が声を上げた。
中にあったのは白いケーキだった。クリームは崩れていない。飾りも残っている。形も、ノゾムが見る限りではどこもおかしくない。
配送情報に表示されたとき、最初は冗談かと思った。
六十七・八キロ先のクリスタ・ヒルズへ、危険度Bのルートを通って運ぶデコレーションケーキ。
それを背負って、自分たちは道路のない場所まで歩き、川を越え、野犬に囲まれ、武装した人間と撃ち合った。今、目の前にあるものは、その全部とは何の関係もないような顔をして、きれいな形を保っている。
「すごい」
「無傷じゃん」
「写真撮ろう」
人々がケーキの周囲へ集まった。もう一度起きた拍手も、今度はノゾムより、無傷で現れたケーキへ向けられているように見えた。
ほんの数秒前まで自分がその中心にいたはずなのに、ノゾムはいつの間にか人の輪の外側に立っていた。
赤いドレスの女性がケーキから顔を上げ、ノゾムへ微笑んだ。そのまま手元の時計を確認する。
「少し遅かったですね」
ノゾムは返事ができなかった。
怒っているようには見えない。嫌味を言ったようにも聞こえなかった。本当に、予定より少し遅れた。それだけの意味らしい。
「でも、よかった。間に合った」
女性はそう言うと、もうケーキへ視線を戻していた。ホテルスタッフがケーキをテーブルの中央へ運ぶ。
「切る前に写真撮ろう」
「これ、どこの店?」
「飾りすごい」
人の輪も、そのままケーキへ移動した。ほんの少し前までノゾムへ向けられていた視線が、きれいに消えていく。
少なくとも、誰かがノゾムを無視しようとしているようには見えなかった。荷物が届き、興味の先がその荷物へ移った。それだけなのだろう。
ノゾムは巨大な走行服の中で、一人その場に残った。
HUDが鳴る。
DELIVERY COMPLETE
「……終わった」
思っていたより声が小さかった。
すぐに次の表示が出た。
CONTRACT STATUS:ACTIVE
RETURN PROCEDURE REQUIRED
SUIT LOCK MAINTAINED
ノゾムは瞬きをして、もう一度表示を見る。文字は変わらない。
「……え?」
その下へ新しいルートが表示された。
RETURN NAVIGATION START
庭園では笑い声が続いている。ケーキの前へ何人かが並び、写真を撮っていた。
*
デリQのクリスタ・ヒルズ営業所へ着くころには、ノゾムはもう拍手のことをほとんど考えていなかった。
受付に立つと、スタッフが走行服姿のノゾムへ笑顔を向けた。
「お届け、ご苦労さまでした」
「はい」
端末の確認が終わると、背中の配送コンテナの固定が外れた。機械アームがそれを持ち上げ、別の搬送ラインへ移していく。
背中が急に軽くなる。朝からずっとあった重量が消えたせいで、ノゾムは思わず身体を少し反らした。何も背負っていないのに、まだ後ろへ引かれているような感覚だけが残っている。
「これで脱げるんですよね?」
受付スタッフは端末を確認した。
「走行服の解除は、配送契約終了後となります」
「配送、終わりましたよね?」
「はい」
「じゃあ――」
「お届けは完了しております」
ノゾムはスタッフを見る。
「配送契約は、帰還処理および貸与装備の返却をもって終了となります」
「……帰還?」
「はい」
「……聞いてないんですけど」
口にしてから、朝にも似たようなことを言った気がした。スタッフは特に困った様子を見せない。
「新人説明時にご案内しております」
ノゾムは、朝の説明を思い返した。貸与された走行服は安全管理と盗難防止のためロックされ、解除されるのは配送契約終了に伴う所定の手続きが終わってから。確かに聞いた。
そのとき自分は、「配送契約終了」という言葉を、荷物を届け終わることだと勝手に置き換えた。帰還処理だの貸与装備の返却だのについても説明されたのかもしれないが、今となってはどこまで聞いていたのか曖昧だった。
「こちらへどうぞ」
スタッフが奥を示した。
ノゾムはその後についていく。
自動扉の向こうには、透明な板と黒いフレームで作られた巨大な容器が、搬送設備の横に並んでいた。走行服を着た人間がそのまま入れる大きさで、中には腕や脚を固定するためらしい器具まで付いている。
ノゾムには、巨大なガラスの棺桶にしか見えなかった。
「……何ですか、これ」
スタッフはにこやかに答えた。
「こちらへ」
「説明になってないんですけど」
「帰還用です」
「これで?」
「はい」
嫌な予感しかしないが、走行服は脱げない。
ノゾムはカプセルへ入った。背後で扉が閉じ、短いロック音が響く。続いて走行服の腕と脚が固定された。
「ちょっと」
すぐに、明るい女性の声がカプセル内へ流れた。
『お届け、ご苦労さまでした。最後のがんばりどころです』
「……は?」
『これより帰還プロトコルを開始いたします』
床が動き始めた。カプセルそのものが搬送ラインへ乗ったらしい。
『クリスタ・ヒルズの旅客輸送区画は、所定の居住資格をお持ちのお客様のみご利用いただけます。お客様は城塞都市行き定期便の貨物区画をご利用いただきます』
「……貨物?」
『はい。これよりお客様を返送貨物として登録いたします』
「え?」
カプセルは止まらない。透明な壁の向こうにも、同じようなカプセルが流れていた。一つには別のランナーが入り、その隣には大型の回収容器がある。さらに先には空になった飲料ケースや箱、返送用の資材が続いていた。
人間も空箱も空瓶も、帰りは同じ物流ラインに載せられるらしい。その列の中を、自分の入ったカプセルも運ばれていく。
『城塞都市行き定期便は完全武装されており、高い安全性が確保されています』
その言葉で、ノゾムの頭に荒野で見た大型定期便が浮かんだ。巨大な連結コンテナへ武装した人間が飛び移ろうとし、車列の側面が光った。そのあと人影のいた場所で赤黒いものが弾けた。遠くから見れば花火のようだった。
『なお、昨今ではほとんど事例がございませんが、ごくまれに不幸な事故に巻き込まれる可能性が――』
「ええええええっ!?」
ノゾムは身体を動かそうとしたが、走行服ごと固定されていて動かない。
「待って! それ今日見た! 今日!」
『安全かつ快適な輸送のため、休眠モードへ移行いたします』
「何それ、ちょっと待って!」
カプセル内の空気の匂いが変わった。少し甘いような、薬品のような匂いがして、まぶたが急に重くなる。
「いや、これ……」
『それでは、あなたのいるべき場所へ向かいましょう』
声が遠くなっていく。透明な壁の向こうを、空のケースが流れていた。
『目覚めるとそこは――』
最後まで聞く前に、視界が暗くなった。
*
目を開けたとき、白い天井が見えた。
ノゾムはしばらく、それがどこなのか分からなかった。身体を動かそうとしたが、まだ固定が残っているらしく動かない。
視界の中央へHUDが浮かぶ。
RETURN CONFIRMED
数秒後、表示が切り替わった。
CONTRACT COMPLETE
その直後、全身から細かな作動音が連続する。
SUIT UNLOCKED
ノゾムは、その文字をしばらく見つめた。
「……帰ってきた?」
周囲を見回すと、見覚えがあった。デリQの城塞都市側営業所。朝、走行服を着た装着室だ。
そこでようやく分かった。会社が言っていた「配送契約終了後に解除」という言葉には、荷物を渡すところまでではなく、この場所へ戻り、貸与された装備を返すところまで本当に全部含まれていた。
除装ワゴンが近づき、走行服へ接続される。胸部装甲が開き、続いて腕、腰、脚の固定が外れていく。朝は自分の身体を機械の中へ入れていくようだったが、今はその逆だった。
最後の固定が外れ、ノゾムは床へ足を下ろした。
膝が大きく曲がる。
「うわ」
慌ててワゴンへ手をついた。脚が震えている。
走行服の補助がなくなり、自分の体重がそのまま足へ掛かってきた。肩も背中も軽いはずなのに、身体全体は走行服を着ていたときより重く感じる。
空調の風が首筋へ直接当たり、汗で服が肌へ張りついているのが分かった。
ノゾムは自分の腕を見た。
細い。
ほんの少し前まで、もっと大きな腕を自分の腕のように動かしていた。その感覚がまだ残っているせいで、生身へ戻った身体の方が借り物のようだった。
目の前では、空になった走行服が除装ワゴンへ固定されていた。今日一日、自分の身体の延長だったものが、そのことなど知らないように向きを変え、装着室の奥へ運ばれていく。
残されたのは、ノゾム一人だった。
端末が鳴った。ポケットから取り出す。
SUCCESS REWARD
480,000
四十八万円。
間違いない。欲しかった金額だった。篠原先輩の絵と同じ値段。
朝は、この数字だけを見てここまで来た。今も欲しい。それは変わっていない。
けれど、画面に並んだ数字を見ても、朝と同じものを見ている気はしなかった。
ノゾムはしばらく四十八万円の表示を見てから、端末の画面を閉じた。正面には、朝に自分の服を預けたロッカールームへ続く扉がある。
ノゾムはそちらへ歩き出した。
今度は、自分の脚だけで。




