第14章 先輩の絵は好きだけど
数日後、ノゾムはもう一度ギャラリーに来ていた。
搬入を手伝ったときには床に積まれていた段ボールも、壁際へ寄せられていた脚立もない。白い壁には作品だけが並び、入口の方から客の話し声が小さく聞こえてくる。冷房の風に混じって、絵具と新しい紙の匂いがわずかに残っていた。
ギャラリーの奥まで進むと、『八月、午後四時』があった。
絵は何も変わっていない。古びた建物の間を抜ける細い階段。白く焼けたコンクリートの壁を這う配管。強い夏の日差しと、そのすぐ隣へ落ちる濃い影。手前には赤や黄色の花をつけた鉢植えがあり、階段の先には青い空が抜けている。
さらに遠く、陽炎の向こうにはガラスの街が小さく光っていた。
クリスタ・ヒルズ。
以前にも、そこに描かれていた。
ノゾムは少し絵へ近づいた。遠景の街は、画面の中ではほんのわずかな大きさしかない。細かな窓の一枚一枚まで描き込まれているわけでもなく、光を返す縦長の形がいくつか重なっているだけだ。
前に見たときは、それで十分だった。階段の向こうにある、きれいな場所。自分のいる街から遠く離れた、ガラスの城。
今は、その間に何があるのかを知っている。
壊れた道路があり、崩れた工場があり、橋の落ちた川がある。野犬が走り、武器を持った人間がいる。シンゴが撃たれた場所も、自分が人間へ銃を向けた場所も、その間にあった。
どれも、この絵には描かれていない。当たり前だった。絵が何かを隠したわけではない。最初から、画面の外にあっただけだ。
ノゾムは二歩下がった。近くで見えていた壁のひびや配管の継ぎ目が、もう一度ひとつの画面へ戻っていく。その奥でクリスタ・ヒルズが光っている。
以前より遠く感じるのに、以前より近くも感じた。自分の足であそこまで行ったからだ。絵の中なら数センチしかない。その間を、自分たちは何時間もかけて歩いた。
ノゾムの視線は遠景から階段へ戻り、さらに手前の鉢植えへ移った。
最初にこの絵を見たときから、そこだけ強く目についた。
自分なら消す。そう思っていた。
赤や黄色は、灰色の壁の中では目立ちすぎる。階段の奥へ向かう視線を途中で止めるし、建物の形を見せたいなら邪魔になる。
けれど、篠原先輩は消さなかった。
鉢の後ろには壁の汚れがあり、少し上には途中で曲がった配管がある。階段の隅には、ゴミなのか石なのか分からない小さな形まで残されていた。どれも、なくても建物は描けるし、階段だということも分かる。
それでも、そこにある。
以前、花を見て篠原先輩のことを考えた。灰色の場所に、自分なら置けない色を置ける人。自分なら邪魔だと思うものを、そのまま画面へ残せる人。
今も、その感じは変わらない。ただ、花を見ても篠原先輩のことだけが浮かぶわけではなくなっていた。カイトが笑っていたことも、シンゴが倒れたことも、泥まみれになった走行服も、洗浄水に溶けていった血も、最後まで崩れなかった白いケーキも、同じ画面の外側から入り込んでくる。
大学で描いていた自分の非常階段を思い出した。自転車や空のペットボトル、手すりに引っかかっていた布を描かなかった。形を見るには邪魔だったからだ。その結果、階段はすっきりしたが、ひどくつまらなくなった。
あのとき消したものと、荒野で見たものが同じだとは思わない。そんなふうに一つの意味へまとめるのは違う気がした。
ただ、実際にそこにあったものを、自分が見やすい形にするためだけに消すことは、前より少し難しくなっていた。
「高嶺くん」
声に振り向くと、ヨルコが立っていた。大学にいるときより少しだけきちんとした服を着ている。けれど、袖口には小さな絵具の跡が残っていた。
「来てくれたんだ」
「はい」
「いつから?」
「ちょっと前です」
「声かけてくれればよかったのに」
「見てたんで」
ヨルコがノゾムの隣に立ち、同じ絵を見る。
「またこれ?」
「またです」
「ほんと好きだね」
ノゾムは返事をせず、もう一度『八月、午後四時』を見た。
前なら、ここで何か気の利いたことを言おうとしたかもしれない。どこが好きなのか。何がすごいと思うのか。自分がこの絵をどれだけ分かっているのか。それを言葉にできれば、篠原先輩に少しくらい近づけるような気がしていた。
「どう?」
ヨルコが聞いた。
「え?」
「久しぶりに見て」
ノゾムは少し考えた。遠くのガラスの街から花へ視線を戻し、壁の汚れと配管を見て、最後に絵全体を見る。
「……やっぱり、この絵、好きです」
ヨルコが笑った。
「ありがとう」
それだけだった。ノゾムも、それ以上は言わなかった。
作品票は絵の横にあり、視界には入っている。けれど、ノゾムは数字を確かめず、もう一度だけ絵を見た。
入口の方から、ヨルコを呼ぶ声がした。
「あ、ごめん」
「どうぞ」
「またあとでね」
ヨルコは客の方へ歩いていった。ノゾムはその背中を見送り、それから『八月、午後四時』へ目を戻した。
絵は同じだった。
*
ギャラリーを出ると、真夏の熱気がまとわりついてきた。
蝉が鳴いている。信号待ちの車の横を自転車が抜け、コンビニの前では若い男が端末を見ながら立っていた。
ノゾムは駅へ向かって歩く。歩道の脇には空き缶が落ちている。電柱には何枚も広告が貼られ、その下から古い紙の端が覗いていた。雑居ビルの外階段には室外機の配管が這い、踊り場の手すりには青いタオルが掛かっている。
前なら、絵にするとしたらどれを消すか考えたかもしれない。今は、消すより先に見ていた。階段の角度、壁から浮いた配管の影、強い日差しが作る境界、その中へ入るタオルの青。路面のひびの脇を、人の影が横切っていく。
どれも別々なのに、一緒に見える。
ノゾムは少し足を緩めた。向かいの建物のガラスに夏空が映り、その下を人が横切った直後、自転車が視界へ入る。
悪くないと思った。何が、と聞かれても説明できない。それでも、少し描いてみたいと思った。
ノゾムは歩きながら端末を取り出した。画面には、まだデリQ便のアプリが残っている。
開くと、配送履歴やランナー評価の項目が並んだ。数日前までは何の意味があるのか分からなかった数字も、今なら少しだけ分かる。
画面を送ると、一つの項目で指が止まった。
PERSONAL RUNNER SUIT LEASE
ノゾムは立ち止まった。
カイトに見せられたことがある。画面を開くと、身体寸法に合わせたフレーム調整、使用者の動きを学習する補助制御、案件ごとに選択できる武装や外装が並んでいる。装甲の色も選べるらしい。
自分専用。
その言葉と一緒に、カイトの声が浮かんだ。
――そこから俺の輝けるスターランナーへの道がスタートするわけよ。
あのときカイトは笑っていた。けれど、クリスタ・ヒルズを見ながら「いつかあっちに住む」と言ったときは、本気だった。
専用機を持って結果を出し、ランキングを上げる。指名を増やし、スポンサーをつける。その先にクリスタ・ヒルズがあると、カイトは考えている。
ノゾムは画面を送った。リース契約の条件が続く。整備、保険、指定案件。細かな文字を読んでいるうちに、今度はシンゴの声が浮かんだ。
――首輪を増やしても、鎖が太く頑丈になるだけじゃねぇか。
会社の仕事をするために会社の走行服を使い、そこで稼いだ金から、今度は自分専用の走行服へリース料を払う。装備がよくなれば、もっと大きな仕事へ行けるかもしれない。
カイトは、それを上へ進む道だと言った。シンゴは、鎖だと言った。
ノゾムには、どちらが正しいのか分からなかった。分からないなら画面を閉じてもいい。それも選べる。
それなのに、指は画面の上に残っていた。
最初に走行服を着たときの感覚を思い出す。身体が急に軽くなり、一歩が伸び、外骨格が自分の動きへ力を足してくれた。
楽しかった。
同時に、照準の中へ人間の胸が入った瞬間も覚えている。引き金を引いたことも、その男が倒れたことも、シンゴの肩に開いた穴も、走行服から出たくても出られなかったことも忘れていない。クリスタ・ヒルズでは、自分自身まで返送貨物にされた。
どちらか一方だけが、あの日ではなかった。
画面の一番下にボタンがあった。
CONFIRM
ノゾムはそこへ指を置いたが、すぐには押さなかった。
最初にデリQ便へ応募した夜も、端末の前で指を止めた。あのとき見えていたのは、ほとんど四十八万円だけだった。危険度Bが何を意味するのかも、走行服がどんなものなのかも、人間へ銃を撃つことになるとも思っていなかった。
今も、この先のことを全部知っているわけではない。たった一度、荒野へ出ただけだ。シンゴが十一年かけて見てきたものの、ほんの一部しか見ていない。
それでも、最初に応募した夜とは違う。
ノゾムは指先を動かした。
CONFIRM
小さな電子音が鳴り、画面が切り替わった。申し込みを受け付けたことだけが表示される。大げさな達成感はなかったし、正しいことをしたという確信もない。
むしろ、少し怖かった。
ノゾムはそのままデリQ便のトップ画面へ戻り、案件一覧を開いた。
依頼ごとに、目的地までの距離、危険度、配送品目、報酬が並んでいる。ノゾムは画面を指で送りながら、一件ずつ見ていった。
以前なら、まず報酬を見ていただろう。
今は距離を見て、危険度を見る。どこまで行くのかを確かめ、配送品目を見てから、最後に報酬へ目を移した。
一件の依頼で指が止まった。
「……これかな?」
詳細を開くと、一覧にあった項目に加えて、ルート情報が表示された。ノゾムは上から順に読み、危険度のところで一度だけ指を止めた。
以前なら、ただの文字だった。
今は、その向こうに道路のない場所や銃声を思い出す。それでも、この先で実際に何が起きるのかまでは分からない。
ノゾムは最後まで内容を確認した。
受注するためのボタンに指を置く。
道路が消れるかもしれない。野犬がいるかもしれない。銃を持った人間と出会うかもしれないし、何も起きないかもしれない。
ノゾムはもう一度、危険度とルート情報を見た。
それから、ボタンを押した。
電子音が鳴った。
ノゾムは画面を一度見てから、端末を閉じた。
向かいの雑居ビルには、外階段も、配管も、青いタオルも、そのまま残っている。
蝉の声の中を、ノゾムは歩き出した。




