第11章 ガラスの城
歩き出してからも、クリスタ・ヒルズは工業地帯の建物の隙間に見え続けていた。
さっきまで廃墟の向こうに浮かぶ光の塊にしか見えなかったものが、距離を縮めるにつれて街の形を取り戻していく。夕陽を返すガラスの塔。その足元には白い低層建築が広がり、建物の間を緑が埋めていた。塔と塔を結ぶ細い空中通路も見える。西を向いた壁面にはまだ橙色の光が残っているのに、影へ入った側では青白い照明が灯り始めていた。
遠くから、低い音が届いている。風の唸りとも、廃工場のどこかで鉄板が揺れる音とも違った。空調なのか交通機関なのか、ここからでは分からない。ただ、荒野へ出てから聞いてきた音のほとんどが自分たちのすぐ近くで鳴っていたのに対して、今の音は街全体が遠くで動き続けているように聞こえた。
日が落ちるにつれて、通気系から入ってくる空気も冷えてきた。脚は重い。痛いというより、自分の身体の方が走行服の動きに遅れているようだった。足を出そうとすれば外骨格がその意思を拾い、歩幅と重心を整えて次の一歩へつないでくれる。最初は機械に先回りされる感覚が気持ち悪かったのに、今はその補助へ身体を預けることで、どうにか歩き続けていた。
工業地帯の道にも少しずつ変化が出ていた。完全に消えていた車線の跡がところどころ残り、路肩には倒れた標識や古い案内板が増えている。文字は汚れや錆で読みにくい。それでも、ばらばらに見えていた道路がどこか一つの方向へ集まり始めているのは分かった。クリスタ・ヒルズへ向かう道が、自分たちの足元でも少しずつ形を取り戻している。
少し前をシンゴが進んでいる。左肩は固定されたままで、歩幅も小さい。一定の間隔で短い警告音が鳴り、そのたびにカイトが振り返るが、シンゴは何も言わず歩き続けていた。さっきより姿勢が少し前へ傾いているようにも見える。それでも足は止まらない。
カイトも先へ行きすぎなくなっていた。シンゴとの間が開けば少し速度を落とし、詰まればまた元へ戻す。最初に荒野へ出たころは、ノゾムが二人についていく側だった。今は三人の速さを決めているのがシンゴの歩幅になっている。誰もそのことを口にはしなかった。
ノゾムは二人の向こうに見えるクリスタ・ヒルズへ視線を戻した。近づいても、その美しさは変わらない。遠くから光だけを見ていたときより、街の形が分かるぶん余計にきれいに見えた。
高い建物をただ密集させているわけではない。塔の間には空間が取られ、そこへ緑が入り、そのさらに奥には水面らしい反射も見える。建物の輪郭が重なりすぎず、ある塔の横を目で追うと、そのまま奥の通路や別の建物へ視線が抜けていく。ノゾムは無意識に、その線の流れを追っていた。
足元へ目を落とせば、ひび割れた舗装がある。乾いた泥の跡、半分地面へ沈んだ鉄板、折れたボルト。シンゴの走行服には黒い汚れと乾いた血が残っている。
顔を上げればガラスの街があり、足元には荒野がある。別々の場所のように見えるのに、自分たちが歩いている道路は、そのまま向こうへ伸びていた。
その光を見ているうちに、篠原先輩の絵が頭に浮かんだ。
『八月、午後四時』。
古びた建物の間を抜ける細い階段。壁を這う配管。強い夏の日差しと、そのすぐ脇へ落ちる濃い影。画面の端には、赤や黄色の花をつけた鉢植えがあった。階段の先には明るさが残っていて、絵の外へまだ空間が続いているように見えた。
ノゾムは以前、階段や配管の形ばかりを見ていた。自分ならどこを整理するか、何を消せばもっとすっきりするか。そういうことを考えていた。
今は、あの絵の先に何があるのかを勝手に想像してしまう。
ここまで来る途中に見たものが、絵の外側へ入り込んでくる。野犬に囲まれた。道路そのものがなくなった場所を越えた。銃を持った人間に待ち伏せされ、シンゴが撃たれた。
右腕固定銃へ目を落とす。さっき撃ったときと同じ場所に、同じ形のまま付いている。その当たり前のことが、今は妙に目についた。
ノゾムは視線を前へ戻した。夕暮れの向こうで、クリスタ・ヒルズもまた何事もなかったように光っている。
その手前を、黒い高架が横切っていた。途中で途切れた古い高架の向こうに、新しい街の塔が重なる。近いように見えるのに、その間にはまだ廃工場も道路も残っている。ノゾムは遠近を測るように二つの輪郭を見比べた。画面の上では数センチの差にしかならない距離を、自分たちは何時間もかけて歩いてきた。
「見えてきたな」
カイトの声だけが少し明るかった。歩調を緩め、クリスタ・ヒルズを見る。
「あそこ」
次に何を言うのか、ノゾムには分かった。
「俺、いつかあっちに住むから」
前にも聞いた。崩れた高架の下で休んでいたときだ。専用機を持って、ランキングを上げて、スポンサーをつけ、指名を取る。そうやって上へ行くのだと、カイトは迷いなく言っていた。
あのときも冗談ではないことくらい分かっていた。ただ、その言葉を聞いたあとに、自分たちが何を見ることになるのかは知らなかった。
「まだ、あそこに行くんだな」
ノゾムが言った。
カイトがこちらを向く。
「行くよ」
返事は早かった。
「今回の報酬が入れば専用機のリースに手が届く。そこからランキング上げて、指名増やして、スポンサーつけて」
「そこまで行けば、住めるのか?」
「すぐじゃないよ。でも今より近づくだろ」
カイトはもう一度、街を見る。
「だから走ってんじゃん」
ノゾムは何も言わなかった。以前なら、勢いのある奴だと思って終わっていたかもしれない。今はその言葉を軽く受け流す気にはなれなかった。
先に歩き出したカイトの背中を見て、ノゾムも足を出す。
「止まれ」
シンゴの声に、二人とも動きを止めた。
ノゾムは反射的に前方を見たが、シンゴが見ているのは道路の先だけではなかった。右側の建物から左の崩れた塀へ視線を移し、頭上の配管を確認してから、さらにその先へ目を向けている。
「ここから先、開ける。装備見とけ」
カイトはすぐに頷いた。
ノゾムもHUDを切り替える。視界の端に走行服の状態が開き、歩行系、外装、生命維持、カーゴ固定の順に表示が並んだ。爆発を受けた箇所には損傷表示が残っているものの、歩行系に異常はない。背中のコンテナも正常に固定されていた。
武装状態へ送る。
RIGHT ARM GUN
.44 MAGNUM
MAGAZINE 8 / 10
ノゾムの視線が止まった。
十発入りだった弾倉から、二発減っている。
一発目で長銃を持った男が倒れた。二発目は、その銃を拾ってこちらへ向けた男に撃った。数字にすれば、それだけだった。
表示を下へ送る。
SPARE MAGAZINE 6
BELT FEED 45
「このベルト給弾って何だ?」
ノゾムが聞くと、カイトが自分の表示から顔を上げた。
「連射用。右腕をカーゴに繋ぐと使える」
「四十五発も入ってるのか」
「そ。普段はマガジンで足りるけど」
前を見たままシンゴが口を挟んだ。
「弾があるから撃つんじゃねえぞ」
「分かってますって」
カイトが答える。
ノゾムはもう一度、八という数字を見た。朝、走行服を着たときは弾の数などほとんど気にしていなかった。今は、二発減っていることの方がはっきり見えた。
肩部装備へ表示を送る。両肩の四連作業投射器にも異常はない。専用カートリッジには煙幕弾が一発、左肩にはアンカーが一発残っている。臀部左側の電動ウインチも使用可能だった。
SMOKE 1
ANCHOR 1
WINCH READY
左右の四番目の射出口にはFIELD LOADと表示されている。
「これ、何入れるんだ?」
「四番?」
「FIELD LOAD」
「その辺の物。石とかボルトとか」
ノゾムは足元へ目をやった。錆びたボルトなら、探す必要もないくらい転がっている。
「そんなのでいいのか?」
「作業用だし」
カイトの返事を聞きながら、ノゾムは通常表示へ戻した。
視界から装備一覧が消れると、道路が急に広く感じられた。ノゾムは右腕を少し下げ、シンゴが見ていた方向へ視線を向けた。
「終わったか」
シンゴが聞く。
「はい」
「行くぞ」
三人は再びクリスタ・ヒルズへ向かった。
前を歩くシンゴは、クリスタ・ヒルズをほとんど見ていない。建物の角を確認し、横道へ目をやり、頭上の構造物を見てから道路の先へ視線を戻す。さっき装備を確認させたのも、街が近づいたからではなく、周囲の遮蔽物が少なくなってきたからなのだとノゾムにも分かった。
カイトは、ときどき街を見る。そのたびに歩幅がわずかに伸びるように見えた。
ノゾムは二人の間を歩きながら、自分の視線がどこへ向いているのかを意識した。以前なら、廃工場を見れば窓の並びや配管の重なりを追っていた。今もそれは変わらない。ただ、その奥にある暗がりも見るようになっている。壁の向こうに人が隠れられるか、柱の陰がどこまで続いているか、上の通路からこちらが見えるか。
白い脛装甲には乾いた泥がこびりつき、ところどころ塗装が削れている。シンゴの左肩には止血フォームの跡が残り、その周囲で血が黒く乾いていた。その向こうでは、ガラスの塔が青白い灯りを増やしている。
ノゾムは歩きながら、その景色を一枚の画面へ置いてみた。
手前には崩れた工場。錆びた配管と折れたフェンス、ひび割れた道路。その中を三機の汚れた走行服が歩いている。ずっと奥には、灯り始めた白い街がある。
以前なら、どこかを整理したと思う。
折れたフェンスは線が多い。地面に散った鉄くずも視線を止める。走行服の汚れも、形を見るには邪魔だ。篠原先輩の絵を見たときも、鉢植えや配管や壁の汚れを減らせば、もっと画面がきれいになると思った。
けれど今、この景色から同じように何かを消そうとすると、手が止まる。
シンゴの肩から血の跡を消したら、ここまで歩いてきたシンゴではなくなる。自分たちの走行服から泥や傷を消せば、この道を通ってきたことまで薄くなる。廃墟を消してガラスの街だけを残せば、自分たちがどこから来たのかがなくなる。
逆に、遠くの街を消してしまっても違った。
あそこへ向かっているから、今ここを歩いている。
どう描けば一枚に収まるのかは、まだ分からない。ただ、以前なら邪魔だと思ったものを、今は簡単には消せなくなっていた。
工業地帯を抜けるにつれて、道路はさらに広くなっていった。建物同士の間隔も開き、頭上を覆っていた配管や連絡通路が減っていく。そのぶん空は大きく見えたが、数歩横へ動けばすぐ壁や柱の陰へ入れる場所も少なくなった。
シンゴは歩く速度を変えないまま、周囲を見る回数だけを増やした。道路の右にある屋根の落ちた倉庫、その向かいに残るコンクリート壁、さらに先に積み上がった瓦礫へと視線を送っていく。
ノゾムも同じように周囲を見る。誰かがいるようには見えない。それで安心していいわけではないことは、もう知っていた。見えている場所より、見えていない場所の方が気になるようになっていた。
道路の先で、クリスタ・ヒルズへ続く進入路が少しずつ形を見せ始めた。荒野側のひび割れた路面とは違い、その先にはまだ白さの残る舗装が伸びている。さらに奥には大きな構造物が横に広がり、その向こうで街の灯りが瞬いていた。
左右の廃墟も低くなり、視界を遮るものが減っている。見通しが良くなったはずなのに、ノゾムにはかえって落ち着かなかった。どこから見られているのか分からない場所より、隠れる場所のない道路の中央に立つ方が、今は怖い。シンゴが建物の影を一つずつ確認している理由も、それまでよりはっきり分かった。
距離だけなら、もう遠くない。
それでもノゾムは歩幅を上げなかった。前を行くシンゴも速度を変えない。カイトだけが一度、街を見上げてから視線を道路へ戻した。
そのとき、シンゴが右手を上げた。三人が足を止める。
「前」
ノゾムは道路の先を見る。
最初は、崩れた瓦礫が道へ流れ出しているように見えた。目を凝らすと、それぞれ形の違うものが意図的に組み合わされていることが分かる。横倒しになった車両の上へ太い鉄骨を渡し、その隙間へ金属板やコンクリート塊を押し込んで、道路の中央を完全に塞いでいた。
「バリケード?」
カイトが声を落とす。
ノゾムは黙ったまま全体を見る。ただ、道路を完全な壁で塞いでいるわけではない。左右の端には隙間が残されていた。人間なら身体を横にして通れそうな幅はある。
ノゾムは左端から右端まで視線を動かした。壊れた車体の向きも、鉄骨の渡し方も不揃いなのに、走行服が正面から抜けられそうな幅だけはきれいに潰されている。偶然そうなったようには見えなかった。
自分の走行服をそこへ重ねてみる。肩が通らない。仮に身体を無理に通せても、背中から大きく張り出したカーゴが引っかかる。身体を横へ向けたところで、通れる幅にはならない。
「これ……」
ノゾムが言いかけたが、シンゴは返事をしなかった。バリケードそのものではなく、その左右を見ている。
ノゾムも左側へ視線を移した。崩れた建物の外壁が半分なくなり、その奥に暗い室内が見える。斜めに残った床と、むき出しになった鉄骨。その陰で細い金属がわずかに光った。
光ったのは銃身だった。その奥に人影がいた。
ノゾムはすぐに右側も見た。こちらにも、崩れた壁の陰に人間がいる。一人ではない。
カイトも気づいたらしく、身体の向きをわずかに変えた。
それでも相手は撃ってこなかった。こちらは遮蔽物の少ない道路の中央にいる。撃つつもりなら、今でも撃てるはずだった。
シンゴも武器を構えていない。左右の人影も動かない。三人がバリケードを前にして足を止めたあとも、ただこちらを見ている。
風が広い道路を抜け、どこかで金属板を一度鳴らした。その向こうではクリスタ・ヒルズの灯りが増え続けている。
もう目の前にあるように見えた。
けれど、その間を塞ぐものがある。
カイトが小さく息を吐いた。
「……塞がれてる」




