第10章 脱げない
表示は視界の端へ縮んだ。
ノゾムは歩いていた。自分で歩いているのか、走行服に歩かされているのか、よく分からなかった。
少し前では、カイトがシンゴを支えている。錆びた配管や割れた窓、倒れたフェンスが視界の左右へ流れていった。
振り返ると、建物の向こうからまだ黒い煙が上がっている。
追ってくる足音は聞こえない。それでもカイトは止まらなかった。
「もう少し行く」
声が硬い。
ノゾムはまた後ろを見た。工場の建物に遮られ、もう何も見えない。
「あの人……」
「今はいい」
カイトは振り返らなかった。
「でも――」
「今はいいって」
その肩に腕を回していたシンゴの足が、地面を擦った。
「城戸さん?」
返事がない。
「城戸さん」
「聞こえてる」
声は出た。
それだけで少し安心しかけた次の一歩で、シンゴの膝が崩れた。
「城戸さん!」
カイトが身体を支える。ノゾムも駆け寄った。
「止まるな」
シンゴが言った。
「でも」
「ここじゃ駄目だ」
前方を顎で示す。
崩れた倉庫の先に、低いコンクリート壁が続いている。その奥なら、今歩いてきた道からは見えない。
「そこまで」
カイトが頷いた。
「ノゾム、反対」
言われるまま、ノゾムはシンゴのもう片方の腕を自分の肩へ回した。
二人で両側から支えると、人間一人分の重さが一気に肩へかかった。走行服が腰と脚を支え、歩幅を補ってくれる。それでも、シンゴの身体は重い。
さっきまでこの身体が自分の前へ飛び込み、弾を受けた。
その重さを、今は自分たちが運んでいる。
「行くぞ」
三人で歩き出した。
数十メートルしかないはずの壁までが、ひどく遠く感じられた。
*
コンクリート壁の陰へ入ると、カイトがシンゴをゆっくり座らせた。
「見せてください」
「勝手にしろ」
肩口の装甲は割れていた。穴の周囲が黒く焦げ、その奥で血に濡れた白い泡が膨らんでいる。
ノゾムは一瞬、それが何なのか分からなかった。
泡は装甲の隙間を塞ぐように広がり、血と混じりながら固まり始めていた。破損した箇所から、鼻につく薬品の匂いが漏れている。
シンゴの走行服から、短い警告音が鳴った。
少し置いて、また鳴る。
「止血は?」
カイトが割れた装甲へ顔を寄せた。
「……動いてる」
「大丈夫なんですか」
ノゾムが聞いた。
カイトは答えなかった。
代わりにシンゴが言った。
「大丈夫なわけねえだろ」
ノゾムは黙った。
「弾、抜けてます?」
「分からん」
「HUDには何か出てるんですよね」
「ああ」
「見せられないんですか」
「そういうもんじゃねえ」
ノゾムはシンゴのバイザーを見た。
そこに何が表示されているのかは、こちらからは分からない。カイトにも同じだった。
警告音だけが、一定の間隔で鳴っている。
「これ、脱いだ方がよくないですか」
シンゴがノゾムを見る。
「何で」
「傷を見ないと」
「ここで脱いだら歩けねえ」
ノゾムは言葉を失った。
「でも、このままじゃ」
「このままだから歩ける」
シンゴは割れた肩装甲を軽く指した。
「止血してる。肩も固定してる」
「じゃあ、ずっとこのまま?」
「街までだ」
「そんな……」
「緊急解除はできますよね」
カイトが聞いた。
「ああ」
「だったら――」
「やらねえ」
シンゴは即答した。
「外せば止血も固定もなくなる。脚の補助までなくなったら終わりだ」
ノゾムは自分の前腕装甲を見る。
この走行服がなければ、さっきの爆発で自分もどうなっていたか分からない。犬に噛まれたときも、銃弾を受けたときも守られた。
視界の隅に、見慣れた文字があった。
SUIT LOCKED
何度も見た表示だった。
初めて着たときは不気味だった。その後は、ほとんど気にしなくなっていた。
今は、ひどく気持ちが悪かった。
「……何かできないんですか」
ノゾムが言った。
カイトは止血フォームの状態を確かめながら首を振った。
「今ここじゃ、俺らにはこれ以上どうにもできない」
「街まで、このまま?」
「たぶん」
「二十八キロ以上あるんだぞ」
「分かってる」
カイトの声も低かった。
ノゾムはシンゴを見る。
「城戸さん、本当に行けるんですか」
「行けるかどうかじゃねえ」
「じゃあ――」
「行くんだよ」
また警告音が鳴った。
その意味をノゾムは知らない。
カイトも知らない。
シンゴは何も言わなかった。
*
しばらく休んでから、シンゴが壁に手をついた。
「行くぞ」
「城戸さん、まだ」
「行く」
「いや、無理でしょう」
「無理でも行く」
カイトが何か言おうとして、やめた。
シンゴは壁に片手をついたまま、一度呼吸を整えた。脚部フレームが動き、曲がりかけた膝を支えて身体を立たせる。
傷ついた肩はほとんど動いていない。それでも一歩が出て、次の一歩が続いた。
ノゾムには、その動きがひどく不自然に見えた。痛んだ身体が走行服の中に収められ、機械の補助に合わせて前へ運ばれていく。
「城戸さん」
「何だ」
「何でそこまでして」
シンゴは歩みを止めない。
「前にも聞きましたけど。何でランナーやってるんですか」
「金」
やはり同じ答えだった。
「それだけですか」
「それ以外に何がいる」
前と同じだった。
けれど、今は同じ言葉に聞こえなかった。
しばらくして、シンゴが腰の端末を取り出した。
「連絡入れとく」
「どこに?」
「家」
操作する手が一瞬止まった。
画面がわずかにノゾムの方へ傾く。
待ち受けらしい写真が見えた。
シンゴと女の人、その間に制服姿の少女が立っている。
三人とも笑っていた。
写真の中のシンゴは、ノゾムがこれまで見たことのない顔をしていた。
シンゴはすぐに画面を伏せた。
「娘、いるんですか」
「ああ」
「何歳です?」
「今年、中学」
それだけだった。
カイトも何も言わない。
シンゴは短い文章を打ち、端末を腰へ戻した。
「だから仕事してんだろ」
また歩き始める。
ノゾムは、その背中を見た。
会社の仕組みを首輪だと言っていた。それでも十一年、シンゴはここを歩いている。
少し先では、カイトが何度も振り返っていた。あいつには、いつか行きたい場所がある。
ノゾムにも理由はあった。
四十八万を稼いで、篠原先輩の絵を買う。
その理由なら、もう自分でも分かっていた。
認めてもらいたかった。
一回だけのつもりだった。
それだけで、ここまで来た。
ノゾムは右腕へ目を落とした。
銃身は何事もなかったように前腕へ収まっている。
さっき撃った男の顔が浮かんだ。
四十八万を稼ぐために、あの男を殺したのか。
そうじゃない、と言いたかった。
あのときは撃たなければ、自分たちが撃たれていた。シンゴはすでに撃たれていたし、もう一人も自分へ銃を向けていた。
それでも、胸の奥に引っかかったものは消えなかった。
先輩の絵が欲しかった。
それは今も変わらないはずだった。
なのに、その理由を頭の中で繰り返すほど、さっきまでより薄く感じられた。
先輩の絵を思い浮かべようとした。
そこへ、倒れた男の顔が重なった。
何のために。
問いだけが残った。
答えようとすると、また男の顔が浮かぶ。
ノゾムには分からなくなった。
足を出す。
走行服がその動きを拾い、次の一歩を先回りした。身体を預ければ、機械が歩幅と重心を整え、次の一歩をつないでくれる。
今は、それがありがたかった。
次の足場を見て歩く。それだけにしておけば、余計なことを考えずに済んだ。
ノゾムは地面を見る。
割れた舗装の先に、錆びた鉄板が斜めに沈んでいる。その右側なら足を置ける。
右へ一歩。
次は、倒れた配管の手前。
走行服がノゾムの重心移動を拾い、身体を前へ送る。
今は歩く。
それだけでいい。
少し前を、シンゴが進んでいる。
左肩は動かず、歩幅もさっきまでより小さい。それでも止まらない。
さらに先では、カイトがシンゴとの距離が開きすぎないよう速度を落としていた。
ノゾムも二人を追った。
日が傾いている。
工業地帯の建物の隙間から差し込む夕陽が、崩れた道路の上へ三人の影を長く伸ばしていた。
カイトの影は前へ伸び、シンゴの影は左肩のところだけ形が崩れている。ノゾムの影は、その二つより少し後ろにあった。
その向こうで、何かが光った。
ノゾムは顔を上げる。
建物と建物の隙間、そのさらに遠くにガラスの塔が見えた。
最初に荒野へ出たときには、陽炎の向こうに小さく光っていただけだった。
今は窓の並びまで分かりそうなほど、大きくなっている。
夕陽を受けた塔の一面が明るく輝き、その隣の面には青い影が落ちていた。
きれいだった。
こんな場所から見ても。
むしろ、こんな場所からだからこそ、異様なほどきれいに見えた。
ノゾムはしばらく、その光を見ていた。




