第4話 ニックネーム
「来ましたよっ!」
お盆を過ぎて残暑の厳しい日曜日のことだった。
まりんが子どものように(子どもだが)、大慌てで間野の部屋に入ってきた。
カギを渡した覚えはないのだが、今さらそれを口にする気力はなかった。
「たの…む…ゆっくりさせてくれ」
間野は疲れ切っていた。真剣に仕事に打ち込んだ経験がなかったからだ。
「パパが…パパが厳しすぎるんだよ」
「なに言ってるんですか」
まりんはベッドに飛び乗ると、間野の頬をペシペシ叩きながら馬乗りになった。
「見てください。合格通知ですっ!」
「うっ…な、なんの?」
「ファイナル学園ですよ!間野さんが合格したんです」
「ファイナル…?まさか、クビ?」
間野は飛び起きるように体を起こして、まりんを抱きかかえた。
それに驚いたのか、まりんは顔を赤くして合格通知を間野の顔に押し当てた。
「相変わらずとぼけてますね…約束したファイナル学園に合格したんです。来月からちゃんと行ってくださいね」
額に押し当てられた紙がヒラリと落ちた。
そういえばそんなことを言っていたな…と思った。
すっかり忘れていたのだ。
とりあえず、まりんをベッドから降ろし、合格通知を一通り眺める。
次に時計に目をやると、もう十時を回っていた。
慣れない仕事に緊張しっぱなしの毎日だった。
まりんの父親は厳しかった。暴言こそないが、理詰めで追い込んでくる。
落ち着きのないしゃべり方が逆に恐ろしい。間野には到底太刀打ちできない相手だった。
だが、そうではなかった。目の前にいる娘が凍り付くような目で見つめているからだ。この子のほうが強敵だったのだ。
「そうだったな」
間野は立ち上がって背伸びをした。身体は重かったが、不思議と気持ちは沈んでいなかった。
まあ、やってやれないことはないだろう。少しは成長した自分を試してみるのも悪くない。
いや、単純に『合格』がうれしかっただけなのかもしれない。
難関倍率を突破した自分が誇らしかったのだ。特にまりんの前では。
間野はテーブルに座りなおすと、昨夜の飲みかけの野菜ジュースを吸い切った。
「来たのは合格通知だけか?入学案内とかないのか?」
「あ…もちろん来てますよ」
「よし。見せてみろ」
「さっきまで忘れてたくせに…」
まりんは呆れたように瞼を落としていたが、それでも嬉しそうにバッグから書類を広げた。
入学案内にはこうあった。
≪入学金として、制服と体操服それぞれ二着分の十二万五千円を期日までに納めてください≫
≪学費は不要です≫
≪セキュリティー確保のため、パスポートサイズの証明写真一枚と同封のキットで指紋を採取して送付してください≫
≪九月一日(土)午後一時より入学式を執り行います。学園前のクラブハウスで更衣を済ませておいてください≫
≪身分証の携帯は厳禁とします。体調不良等の急な事態には学園側で対処します≫
≪その他の校則等の説明は入学式にて行います≫
≪アクセスマップは別紙≫
「うーん…ツッコミどころ満載だなぁ」
間野は書類をテーブルに滑らせ、まりんに視線を向けると、どうだと言わんばかりに瞳を輝かせていた。
「制服と体操服は宅配便で届くらしいです。入学金は出してくださいね」
「まあ、これくらいなら。しかし、学費が不要とは…何か裏があるんじゃないのか?」
だが、この一言が気に障ったのか、まりんの視線が凍り付いた。
「それを調べに行くのが、あなたの仕事でしょ!」
「はい…」
叱られて、もう一度入学案内に目を落とした時、もう一つ忘れていたことを思い出した。
「ちょっと待て…」
「どうしたんですか?」
「俺のニックネーム…」
「ああ、それなら申し込みの時に私が決めておきました」
書類には本名の隣に『学園名』が記されていた。
「ユ…ユメジ?」
「そうですぅ~!」
この時のまりんの憎らしい顔は、生涯忘れないだろう。
「ユ…ユメ…お、俺は『ロバーツ』がいいって言ったじゃないかッ!」
「だめです」
間野がテーブルに手をついて上体を起こすと、まりんは後ずさりしながら、面白そうに顔をニヤつかせた。
「ママの好きな画家の名前です。他の名前はだめです」
「それじゃあ、バレるかもしれないぞっ」
「バレていいんです。ママを連れ戻すことが目的なんですから、それを忘れないでくださいよ」
なんてガキだ。思慮が深いのか浅いのかまったくわからない。
さすがにもう名前の変更はできないだろう。何から何までこの家族には苦労させられる。
間野は小悪魔のような少女を見つめたまま、歯ぎしりした。
「がんばってくださいね。ユメジさん」
こうして間野は『ユメジ』として、もうひとつの世界へ足を踏み入れることになるのだった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
こうして間野は『ユメジ』として学園に入学します。
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