第37話 恐怖の男子トイレ
翌日の木曜日、旧音楽室の実地調査に出かけた未定研究部一行は、昇降口の前で立ちすくんでいた。
時刻は午後六時過ぎだったが、すでに陽は落ち、辺りは闇と湿り気を帯びた重い空気に包まれている。
空は雲に覆われていて、ある一角だけが月の輪郭を滲ませて、わずかに白くなっていた。
こんな日に限って、校舎のどこにも明かりがついていないのである。
「生徒会室も新聞部も真っ暗だよ。どうなってんだ?」
猫又部長が後ろのほうで言っている。
ああ、そうだろうとも。明らかにヘンだよ。
「人がいる気配がないすね。今日、何かありましたっけ?」
俺は、なぜか前に出たがらない部長に向けて言った。
「ああ、アレだ。朝まで何とかテレビってやつじゃないか?」
答えたのはギンブナの声だったが、「違いますよ」と即座に否定しておく。
「でも、どうして…そういえば、レンジャー君たちはどうしました?」
この問いには誰も答えなかった。
「シャロンさん、何か聞いてます?」
「いや。個人アドレスなんか教えてないし、私は知らないよ」
シャロンもなぜか前に出てこない。俺の後ろに重なるようにして、部員たちが密集しているのだった。
「そうですか…」
「まあ、誰もいないなら好都合じゃないか。さあユメジ君、行きたまえ」
部長が背中から圧力をかけてくる。
それ得意だよな、アンタ。
いつかの夜の光景が頭を過るが、どう見ても異常事態なんだよ。
しかし、リーダーたるもの先頭を切るしかないのである。
そう思いながら、一歩踏み出した時だった。昇降口のガラス戸の向こうに人影が現れた。
それを見たコノハが「ひっ」と悲鳴をあげ、俺の背中を押す圧力として加わった。
人影はそのままガラスに張り付き、開き戸がギイと音を立てながら開いていく。
ゆっくりと、そう。まるで…幽霊のように。
背中の圧力がピタリと止んだ。
待って待って、ここは背中をしっかり押さえておいてほしい!
息を呑んだその時――。
「君たち、何やってるんだ?」
聞き覚えのある声がした。僅かな安堵に呼吸が再開する。
下手をすると、そのまま後ろにドミノ倒しのように倒れていきそうだったのだ。
「か…閑院さん?」
顔が判別できる距離まで近づいてきた影は、確かに閑院だった。しかし、その冷淡な笑みに、思わず身の毛がよだつ。
「ユメジ君かい?」
「は…はい」
なんとも言えない恐ろしさに、頷くことしかできない。
いや、アンタこそ暗闇の中で何してたんですかね?と言ってやりたいのだが。
「雑魚…じゃなかった、皆さんで校舎に入るつもりかい?」
まあ、そうなんだけど…。
アンタがそこから急に出てきたんだよ!と言いたいが言えない。
「はい…音楽室に行きたいんですが」
「エッ?」
閑院は目を丸くして驚いた。
もう意味わかんねえな、この人は。驚いたのはこっちだよ。
「本気で言ってるの?今、停電中で電気はつかないよ。電柱工事のトラブルで急遽、停電作業があるって告知しておいただろう?市内の南地区全域だよ。部室に案内を入れておいたはずだが」
――はあっ?
その声が重なり、グラウンドに反響した。
「おかしいなぁ。僕が直々に入れておいたんだけど、猫又さん、あの紙どうしたの?」
全員が最後尾にいる猫又に振り返る。
しかし、猫又は慌てる様子もなく、顎を撫でながら、しばし考えて答えた。
「もしかして、アレのことかな?みんなを待ってる時に我慢できなくなって、焼き芋したんだよ。火付けの紙的なものがなかったから、それだったかも」
(こいつ…)
さすがに一言、言ってやろうと思ったが、コノハの怒りにかき消された。
「絞め殺していいですか?」
顔の上半分を漆黒に染め、口元に恐ろしい笑みを浮かべていたのだ。
フッと鼻で笑った部長に、殺意が芽生えたのは確かだが、もうこの男に割く時間が惜しい。
「ま、まあ、逆に誰もいないならチャンスだと捉えましょう。閑院さん、別に行ってもいいですよね?」
「あ、ああ…ご自由に」
閑院は思わず素が出たのか、それとも猫又に呆れているのか、弱々しくそう言って、我々を招き入れた。
当然ながら、校舎の中は闇だった。シネマ部以上の広大なお化け屋敷が展開されている。
さらに言えば、閑院もいたのだから、電気の復旧を待つ人間が他にも潜んでいるのだろう。
もはや、幽霊と人の見分けもつかないカオスと化している。
当然のように俺を先頭にして、一行は電車ごっこのように連なっていた。
各々がスマートフォンをライトに切り替えているが、自分の足元を照らすだけで、先頭の俺にはまるで意味がない。
本当に肝試しをしている気分になるが、音楽室まで果てしなく遠く感じる。
階段を上る前に、一階のトイレの前で足を止めると、順次つかえて隊列は大きく乱れた。
「ど、どうしたリーダー。もう催したのか?」
「副部長…非常にマズイです。どうやら…誘い込まれていたみたいです」
俺はまっすぐ前を見つめながら言った。
しんとした廊下の先の闇に、風が吸い込まれていくようだ。
「エッ?だ、誰に…?」
「わかりませんか…」
副部長は声にならない様子で、視線を闇に向けただけだった。
「幽霊ですよ!そこにッ!」
語気を強めて言うと、ギンブナだけでなくコノハも悲鳴をあげて驚いた。
まさに悲鳴だった。
ギンブナは絶望の顔で固まり、コノハは逃げるに逃げられず、その場で絶叫しながら、クルクルと回っていた。
「うわははは。冗談すよ。いいですねぇ、その顔。いただきました!」
ライトを向けると、二人のなんとも言えない情けない顔が交互に闇の中に浮かび上がった。
ああ、コレもやみつきになりそう。なんだろう、この愉快な気持ちは。なんて思っていた。
だが、俺は虎の尾を踏んでしまっていたことに気づいていなかった。
その光の端にシャロンを捉えたのが、運の尽きだったのだ。
「あれ、シャロンさんも驚くことあるんですね…」
そう言った次の瞬間、体が後ろに吹き飛び、意識が遠のいた。
え?なんだ?これは…死?
みたいな、激しい痛みと真っ白になっていく世界。
コノハの正拳突きとシャロンの蹴りを同時に喰らったのだ。
気づいた時には、部長と副部長に支えられていた。
「やっと帰還したかリーダー。無駄に時間を食ったが、先を急ごう」
「あ…」
俺はなんとか体を起こして、部長と副部長の手を握った。
ありがとうございます、と。その言葉は必要なかった。三人は視線でわかり合えたのだった。
シャロンとコノハに目をやると、ライトを足元に向けて素知らぬ顔で話をしている。
ふう、今日はこれくらいで勘弁してやろう。
「ま…ゲホッ、待ってください。本当にトイレに用事があるんですよ」
「くだらねえことだったら、息の根止めるからな」
シャロンが間髪入れずに、釘を刺してきた。
「ええ。アデルの証言が嘘だと証明できるはずです。見てください」
俺はライトをトイレに向けた。
「監視カメラの映像で明かりがついたのが、このトイレのはずです。入り口からすぐ左に曲がるL字型の構造になっています。こちらからの光は中まで届きません。つまり、電気をつけなければ中は真っ暗ということです。さすがに誰もいないと思うので、入りましょう」
こうして一行は、男子トイレに寄り道することになった。
部長が言ったとおり、改修されていて、経年劣化による汚れも臭いもなく、学校のトイレにしてはずいぶん綺麗だ。
しかし、ライトを消すと、改修の手が及んでいない古めかしい小さな窓が、僅かに白く浮かび上がっただけだった。
「このとおり何も見えません。あの窓では、おそらく満月でも見える状態にはならないはずです。部長、この状態で用が足せますか?」
すると猫又は何を思ったのか、ライトを点けたり消したりしながら、もぞもぞと動き始めた。
えっと、それは…何してるんですかね?
「ライトをつけないと無理だね」
「お前…」とシャロンが何かを言いかけて、一歩引いたのがわかった。
「まさか本当にしたんじゃねえだろうな?」
「いや、怖かったら我慢してたんだけど、ちょっと外しちゃったかな。手を洗いたいんだが」
「な…」
次の瞬間、部長を置いて、全員逃げるようにトイレから出ていったのだった。
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