第2話 少女との約束
不思議な少女まりんとの出会いは、五月のGWのことだった。
学校が休みのためか、まりんはそれから毎日のようにやってきて、俺を質問攻めにした。
生い立ちから学生時代のこと、仕事のことや彼女の有無まで根掘り葉掘り。
まあ、たいしたエピソードも武勇伝もないのだし、自分で語っていて、もう終わり!?みたいな衝撃はあったが、だいたいの性格はわかってくれたことと思う。
当然、彼女もいないからね。容赦のない質問に心をえぐられたよ。
そのくせ自分のことになると、セクハラだのなんだのと騒いで、ほとんど何も語らなかった。
こういうところは小さくても女なんだと思う。よくわからんが。
ただ、おかげで信用を得たらしく、引っ越しの整理を健気に手伝ってくれたり、カレーを一緒に作ったりして、すっかり仲良くなったが、名前以外はほとんど知らないままだった。
そして、GW明けに事態は急変した。
朝のニュースで、米国株が大暴落したのを知ったのだ。中東で大規模な紛争が始まったらしい。午前八時の気配値はストップ安の様相。市場が開いた午前九時には、溜め息が絶叫に変わっていた。
「あああ…アアアァ―――!」
どの銘柄も値が寄り付かない。とりわけ俺が保有する株式は、軒並みストップ安となった。
それは翌日も続き、ズルズル下落を続け、資産は一週間足らずで半減したのだった。
「やはり投資の才能はなかったようですねェ」
カーテンの隙間から床に落ちた光の筋を見つめたたまま、ソファで固まっている俺は、その声に反応しなかった。
しかし、まりんはまったく意に介さない様子で、肩からバッグを降ろして座った、のが横目でチラリと見えた。
大きな荷物を持ってくるのは珍しい。顔がいつもより嬉しそうなのは、萎びた俺の姿が面白いからだろう。
だが、今はそれを言葉にできる精神状態にない。
「あらら…で、これからどうするんですか?」
「だから、それをいま考えて…」
アッパーマス層から一気に転落したのだ。しかも無職。当然、この部屋も引き払わなければならないだろう。
「段ボールはそのまま運べるな」
無理やり笑って見せると、まりんは声をあげて笑った。
これだからガキは!
と、立腹する精神状態にない。どちらかというと、涙をこらえている状態だし、デリカシーという概念を持ち合わせていない子どもに期待するほうが間違っている。それは、生い立ちの尋問で嫌というほど理解している。
だが、おかげで少し冷静さを取り戻した。
「ちょっと待て…ていうかお前、どうやって入ってきた?」
部屋に入れた覚えがまったくないことに気がついた。すると、まりんはバッグから鍵を取り出し、フフンと揺らして見せた。
「いつ盗った?」
「人聞き悪いですね。これは間野さんのじゃありません。私が預かったものです」
「はぁ?」
さすがに勘弁してくれ。大げさではなく人生のピンチなのだ。
お前が可愛い女の子じゃなかったら、殺意を抱いているところだぞ。
そう思って、呼吸を整えたのだが。
「これはパパからあずかりました。このマンションはパパの会社のものなんです」
――は?
俺はソファから転げ落ちそうになった。
「マ…?」
「話をつけてきてあげたんですよ。間野さんがまだここにいられるように」
「はぇ…?」
「いいですか?状況を理解してください。今回のショックで、少なくとも半年は株価が戻らないでしょう。その間、家賃の支払いを猶予してもらえることになりました。とりあえず半年間です」
本当に小学生かと思うのはいつものことだが、今回はことさら驚いた。
「先生ぇ…」
俺はフローリングをほふく前進しながら、まりんにすり寄っていった。
「やめてください。そういうのはいいんです。それより、約束…」
まりんの静止も聞かず、俺はその小さな手に額を擦りつけた。グリグリと。涙やら鼻水とかも塗り込んでしまったかもしれない。
「ありがとう、ありがとう。とにかくその間に仕事を探さないと…」
「だからっ」
まりんは俺を押しやった。
「もう、しゃんとしてください」
「しかし、あのパパがなぁ。人は見かけによらないというか、なんというか…」
「間野さんは見かけどおりですからね。表面しか見ていないからですよ。パパは世襲でもありませんし、もともとIT系のベンチャーから事業を拡大してきたんです」
「そ…そうか」
完全に負けだ。アッパーマス層だなんだと浮かれていた自分が恥ずかしい。目の前にいる少女は、はるか上の世界に住んでいたのだ。
まさにお嬢様。そう考えれば、この子の今に至る奇想天外な行動も、大金持ちの特性なのかもしれないと腑に落ちてきた。
「どおりで、お前はそんなにマセてんだな…」
だが、まりんは面倒くさそうに頭を振って、厳しい視線と人差し指を向けてきた。
「いいですか?間野さんには仕事も用意しました。パパの会社で半年間働いてもらいます。どこも人手不足ですから、間野さんなら信用できるってパパも言ってます」
「お前…」
俺は、まりんの顔を両手で挟んで、じっと見つめた。
「神の化身か?」
「だから、やめろッ!」
まりんは挟まった顔を、無理やり引き抜くように振りほどくと、動揺したのか肩で息をした。
「はっきり言って、まりんのこと何にも知らないんだよな。お嬢様だったとはなぁ」
「仕事は明日からです。しっかりやってください。それより、今日は大事な話があるんです」
「エ?これより大事な話があるのか?」
まりんは勢いよく頷いた。
「間野さん、約束しましたよね?ママを探すの手伝ってくれるって」
「ああ、そうだったな」
「じゃあ、これからママに会うためにやってもらいたいことがあります」
「ハイ?」
まりんはバッグからスマートフォンを取り出し、画面を操作して何かを探し始めた。
「じつは、ママの居場所はわかっているんです」
「はあ?」
甘かった。
やはり理解できるタイプの人間、いや、俺の理解が及ぶ階級の人間ではなかった。言っている意味がさっぱりわからない。
「そこに行ってもらいたいんですよ」
「わかってるんだったら、まりんが行けばいいじゃないか」
「それができないから頼んでるんですよ。相変わらず理解力が乏しいというか…」
そして、ようやく何かを見つけたのか、スマートフォンの画面を向けてきた。
そこには、学生服や体操服姿の生徒たちが、グラウンドで楽しそうにポーズを決めた集合写真があった。
私服姿の人間も混じっているので、文化祭か体育祭の写真だろうか。
「これがなんだ?ママの昔の写真か?」
「見て気づきませんか?まあ、そうでしょうね。よく見るのです」
スマートフォンを手に取ってあらためる。
「ちょ…何だこれ?学生じゃないだろ」
よく見て驚いた。映っている全員が未成年の顔立ちではなく、中には明らかに中年の男女もいたからだ。
「おかしいぞこれ…コスプレ大会か?まさか、変態の集まり…」
「おかしいですよね」
まりんは俺が気付いたことに納得したのか、鼻から息を吐いた。
「ここにママが?」
「端のほうに小さく顔が見切れているんです。ママは写真が嫌いなので」
指で拡大してみると、集団の後方にセーラー服を着た女性が小さく映り込んでいた。
さらに拡大した時、俺は息を呑んだ。
「す…すげぇ美人」
「でしょう?」
まりんは嬉しそうに目を輝かせたが、ハッとして視線を反らした。
「ママに間違いありません」
「待て待て。どう見ても二十代だろ。まりんのママにしちゃ若すぎないか?」
「今年で二十九歳です。女性の年齢はわかりませんよ」
「まあ…そうなのか」
しかし、見れば見るほど美人だ。とても一般の人には見えない。
まりんの母親であれば、あのパパの妻になる。立派なマダムということになるが、とてもそんな感じじゃない。子持ちの女性には見えないのだ。まりんの面影もなんとも言いがたい。
いや、そんなことはどうでもいい。俺は、その女性に見惚れていた。
腕組みをして憮然と立っているのだが、露わになった二の腕や素足がじつに妖艶だった。
「間野さん。そこは特別な学校なんです」
「あ…ああ、そりゃそうだろ。見りゃわかる…ん、学校?」
俺は、ようやくスマホから視線を切り替えた。
「だから、そこに入学してほしいんです」
「ハイ?」
「もうすぐ入学試験が始まります。入試にパスして入学するんです」
「待て待て待てっ!意味がわからん。明日からパパの会社で仕事だろ?」
「大丈夫です。普通の学校じゃありませんから。部活しかしない学校なんです。仕事が終わってから行けばいいんです」
まりんは畳みかけるように言った。この子が今さら冗談を言うとは思えないが、頭の整理が追いつかない。
「そう言われてもなぁ…パパに行ってもらえばいいじゃないか」
「パパはだめです。ママは帰ってくると言って聞かないんです」
「というと?」
「じつは…二年前にママが出ていく時に、手紙が置いてありました。三年で帰ってくるからって。でも、今どきそんなことあり得ないでしょう?パパは仕事はできるけど、女心はわからないんです。だから、私とパパの代わりに行ってくれる人を探してたんです」
「う…む」
こう聞かされて心が動かないこともなかったが、今回ばかりは二つ返事というわけにはいかない。
さすがに干渉してはいけない問題なのではないのか?
写真の女性がマジの母親だとしても、家族を置いてわけのわからない世界に浸っている人間が、ハイそうですかと帰ってくるはずがないからだ。
正直なところ、この女性に会いたい気持ちがないわけではない。しかし、面倒な話になるのは目に見えている。これ以上、かき回されるのはさすがにご遠慮願いたい。
すると、まりんは俺の態度に業を煮やしたのか、スマートフォンを奪い取って、また何やら操作を始めた。
「あなたは、約束したのよ」
まりんの敬語が消えた。「ゴゴゴ…」と、どこからともなく地鳴りが聞こえる気がする。
向けられた画面には俺の姿があった。それは「もちろんだ!」と、寒気がするほどの笑顔で答えている数日前の俺だった。
「お前…撮ってたのか?」
「当然!言質が大事でしょ」
動画は繰り返し再生された。おそらく顔が夕日のように赤く染まっていたことだろう。
「わかった!わかったから、やめてくれ!」
「じゃあ、行ってくれるんですね?」
「行くよッ!」
もはや何でもありだと思い、俺は考えることをやめた。
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