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第1話 少女との出会い

「ふっふ…フハ…フハハハハハハ」


間野久一(まのきゅういち)がバルコニーの窓を開け放つと、流れ込む風でカーテンがふわりと揺らめいた。

窓の外には都会の海が広がり、おびただしい数の建築物がさざ波のように寄せ合っている。

水平線に落ちていくような夕日に、自然と笑いが込み上げてきた。


素足のままバルコニーに出てみると、思いのほか風が強く、笑い声が空に舞い上がった。

深呼吸して背伸びをする。

少しばかり都心から離れているが、まあこれからだ。

そう思い目を閉じると、ふと脳裏に少年時代の光景が浮かんできた。



――水面に漂うウキ。

ブラウン管のアナログ放送のように劣化しつつも、消えることのない淡い思い出だった。

それは、間野が少年時代を過ごした田舎の光景。

美しい自然とは無縁の農業用の溜め池に浮かぶ玉ウキである。

波紋すら立てないそのウキを、何時間も見つめている少年が間野だった。

付き添いも友達もいない。一人でただ無心にウキを一日中眺めていた。

夕まずめに差しかかると、水面が夕陽に染まっていく。すでにウキは足元の岸まで風に煽られていた。

間野少年は残った練りエサをダンゴにして水面に投入した。


――そろそろ、アイツがやってくる。

揺れる水面に巨人のような人影が現れた。少年の隣に立つ男性。夕陽を背に受けて、顔は判然としない。


『キュウは辛抱強い子じゃな』


間野は視線をウキに戻す。その時、浮かんではずのウキが消えていた。

ズルズルとおもちゃのような竿が引きずられている。魚が食いついたのだ。

慌てて竿をつかんでリールを巻いた。体ごと引きずり込まれそうな引きの強さに、リールが悲鳴を上げて糸を吐き出していく。

そして、間野少年が力を込めた瞬間、リールの糸はプッツリと切れた。


呆然と立ち尽くす少年。どこか冷たく生ぬるい風が吹き抜ける。

男性の姿はいつの間にか消えていた。

もう辺りは薄暗く、虫の合唱が始まっていた。

溜め池の周辺には水田が広がり、その向こうに人家が点在している。似たり寄ったりの木造家屋だが、間野の家は目印になるほど古めかしかった。

薄っすらと明かりがついているようだ。


両親は間野が小学三年生の頃に離婚し、母親の実家で暮らすことになった。

あとから知った(それも友人から知らされた)ところによると、父親が破産したらしい。

友人は笑いながら言い放った。言葉の暴力とも認識していないその友人に怒りは湧いたが、口にする必要もないと思った。

先のことを考えたわけではない。そういう性格だったからだ。

顔も覚えていない父親の『()()()()』だけが鮮明に残っている。

だから、一日中ウキを眺めていられる。


辛抱すること、我慢することが少年の美学だった。

辛抱と我慢の先にこそ、人生の勝利があると信じていたのである。


だが、そのおかげで損ばかりしてきた。

親友と呼べる友達はいない。本音を語る前に心に蓋をしてしまうからだ。

好きな子ができても、その子に思いを伝えることはなく、いつも機会を待つばかりだった。

万年補欠だった野球も休むことなく続けたが、達成感を得たことはない。

ただ辛抱強いだけだった。


我慢は美学ではない。

ようやくそれに気づいたのは、大学を卒業する年だった。


経済的な理由で進学するつもりはなかったが、母親と祖父母が私大に行かせてくれた。

そこで間野がとった行動は、勉学に勤しむのではなく、アルバイトに明け暮れて学費を稼ぐというものだった。

次第に通学は疎かになり、フリーターのような生活をおくり、気づけば大学四年が終わっていた。

手にしていたのは、わずかばかりの預金とその何倍もの絶望だった。四年間で得たものは、何もなかった。


間野は初めて感情に心を支配された。それは嗚咽となり、夜が明けるまで涙が止まることはなかった。

父親の言葉は、称賛でも期待でもなかった。

その真意は、苦言だったのだ。


我慢は美学ではない。

辛抱強さは機会損失以外の何ものでもない。そう悟ったのである。


就職は適当に決めた。適当にエントリーして最初に面接の通知がきた会社が、東京の医療機器メーカーだった。

頑張るという気持ちはなかった。困難な案件や問題には我慢せず、さっさと見切りをつけた。

自分の美学を反転させたのだ。苦しいものには執着しない。駄目だと思えば切り捨てる。そう生きると決めていた。


すると人生が好転した。

興味があれば何でもやってみた。なかでも株取引は、自分の新たな美学と相性が良かった。

我慢して持ち続けることなく、すぐに損切りする。デイトレードで日に数万円の利益を積み上げていった。

仕事は転職を繰り返したが、資産は順調に増えていった。そして、ついに我が城を得た。

間野は息を吐いて目を開けた。



都会の海には、ホタルイカの群れのような煌めきが広がっていた。

いずれこの景色も見飽きてしまうだろう。とりあえず、今夜は夜景で一杯だ。

室内にもどり、窓を閉めてカーテンを落ち着かせる。

なんとも不敵な笑みを浮かべていたに違いない。


「ごきげんですね」

「ああ。これがアッパーマス層の生活ってやつだな…」


間野は即答したが、直後に背筋が凍り付いた。息も止まるほどに驚愕したのだ。

この部屋に誰もいるはずがないからである。

恐る恐る声のほうに目をやると、一脚だけ置いていたソファに見知らぬ女の子が座っていた。


「なっ…なんだ、お前…」


なんとも情けない顔をしていたに違いない。金縛りにあったみたいに、手と口をあわあわと動かすことしかできないのだ。


女の子は、視線を落としていたスマートフォンを玩具のような鞄にしまい込み、無表情に間野をジッと見つめて立ち上がった。

十歳そこらの小学生だろう。しかし、その瞳に好奇心の色はなく、所作はどこか大人びて見えた。


「間野久一さん」


確かにそう聴こえた。幼い口許に微笑を含ませ、ゆっくりと近づいてくる。

間野の耳の奥で「ゴゴゴ…」と不穏な警告音が鳴っていた。


「な…んで、名前を?」


女の子は、部屋の隅に積まれた段ボールを小さな指で指し示した。


「頭は良くないようですねェ。残念です」


貼り付けてある配送用の伝票を見たということだろう。しかし、間野にはこの状況が理解できない。


「い…いつから、ここにいる?」

「いつから?あなたがここに来る前からです」


耳鳴りはさらに酷い音を立てた。


「来るな…まさかスタン…い、いや…宇宙人か?」


プッと女の子は吹き出すように笑った。


「漫画の見過ぎです。しかも、かなり古いやつ」


そしてクルリと振り返ると、解かれていない段ボールをポンポンと手で叩いた。


「引っ越し屋さんと一緒に入ったんです。妹だって言ったら、アイスクリームまでくれました」


笑った顔は可愛らしい。だが、あまりにも不気味過ぎるのだ。


「お前、何モンだ?今日、引っ越して来たばかりで何もないぞ」

「目的ですか…」


女の子はフムフムと考えるような仕草で、口元に手を当てた。何かの真似をしているのだろうか。


「あなたがどんな人なのか、確かめに来たんです」

「フッ…」


今度は間野が笑った。やはりただの子どもだ。真面目に取り合うだけ無駄だろう。


女の子は部屋をぐるりと歩き回りながら、思わせぶりに頷いている。おそらく探偵ごっこでもしているのだ。勝手に忍び込むのはいただけないが、子どもなりの冒険といったところか。

そういえば世間はGWだった。


「荷物の量から察するに、独身で間違いないでしょう。服のセンスもイマイチ。彼女もいませんね?」

「わかったわかった」


間野は女の子の前にしゃがみ込んで、小さな探偵の歩みを堰き止めた。


「俺の何が知りたい?名前はもう知られちまってるようだが」

「おいくつですか?見たところ、学生ではなさそうですが」


さすがに推理できなかったのか、女の子は上目遣いに言った。


「二十四だよ。社会人…だったけど、仕事は辞めたんだ」

「ほう」


女の子は嬉しそうに反応すると、興味を持ったのか間野に顔を近づけてきた。


「なぜ、辞めたのですか?」

「お前さんに説明するのは難しいなぁ。投資でね。まあ、簡単に言えば儲かったわけさ。しばらく仕事をしなくてもいいくらいにな。だから、ちょっとのんびりするつもりなんだよ」

「アッパーマス層って言ってましたね?では、資産三千万程度でってことですか?」

「な…」


間野はたちまち言葉を失った。


「投資家として合理的な行動とは思えませんが、ずいぶんと思い切ったことをされましたね」


女の子が尊大に言い放つと、今度は間野が部屋をグルグルと歩き回る番だった。


「お前…こそ、いくつだ?」

「九歳です。小学三年生。学校や住所は言えませんが」

「個人情報ってわけかい。まあそれはいい。九歳ってのはとても信じられんが、どう見ても子どもだしな。じゃあ、名前を教えてくれよ」


この問いに、少女の目の色が少し変わったように見えた。


「ま…まりん」

「まりんか」


少し照れたように顔を背けた彼女の仕草に、間野はほっと息をついた。どうやら人間の子ではあるようだ。

間野はまりんをソファに座らせ、段ボールからミネラルウォーターを取り出し、キャップを開けて渡してやった。


「で、まりんは何で俺を調べるんだよ。偶然ここに来たわけじゃないんだろ?」


すると、先ほどまでの尊大さが嘘のように、少女は伏し目がちに呟いた。


「ママを探してるの…」

「ママ?はぐれちゃったのか?」


まりんは悲しそうに首を振った。


「行方不明なの…二年前から」


まさかの答えだった。突然の告白に、間野の思考は停止した。

嘘だろ?そう思ったが、それを確かめる言葉も、かけてやる言葉も紡ぐことはできなかった。

膝の上でペットボトルを支える小さな両手が、僅かに震えているように見えたからだ。

ハッとしたのは、その小さな手の甲に、雫が落ちた時だった。


「ここはね、ママがいなくなる前に住んでいたおうちなんだ」


そうだったのか。母親の思い出を求めてこの場所に。

大人びた口調もいつの間にか消えている。間野はいたたまれない気持ちになった。

不気味だなどと思っていた少女は、間野と似た境遇の普通の少女だったのだ。

間野は何も言えず、そっと頭を撫でてやった。


「わかったよ。じゃあ、まりんが来たい時はいつでも来ていいよ」

「ホント?」

「ああ、ホントだ」

「嘘つきの顔」

「どんな顔だよ。それこそアニメの見過ぎだ」


まりんは笑ったように見えたが、しょんぼりした様子は変わらなかった。


「そうだ。お腹空いてるだろう。ピザ食べるか?どのみち、頼む予定だから」


まりんはまた首を振った。


「もう帰らないと」

「…それもそうか」

「また来てもいい?」


顔を上げたまりんの表情は、どこにでもいる無垢な九歳の少女に見えた。


「そう言ったろ」


まりんの顔に太陽のような笑みが浮かんだ。これが子ども本来の笑顔というやつだ。

懐に余裕があると心も広くなる。そんな格言のような言われがあった気がする。

出会ってすぐの子どもに、あっさり出入りを許可してしまったが、妙に気持ちは晴れやかだった。


「じゃあ帰ろう。送っていくから」


しかし、まりんはTシャツの裾をいじらしく引っ張った。


「どうした?」

「もうひとつお願いがあるの」

「なんだ?」

「ママを探すの手伝ってほしい…」


小さい手に引っ張られたシャツから、体温が伝わってくるようだった。

間野に再び不思議な感情が湧き上がってくる。

冷静に考えれば馬鹿もいいところだが、ここで断れるはずもない。なんせ、無職なのだから。


「もちろんだ」


もう一度、少女の顔に陽が差す。間野は小指を差し出して、まりんと指切りをした。

小さな小指からリアルな体温が伝わる。

『ゆびきりげんまん』を楽しそうに口ずさんでいる様子を見ると、どうやら元気が戻ったようだ。

そして指を離すと、終焉を見計らったかのようにインターホンが鳴った。


「誰だ?」


間野がモニターを覗くと、三十代くらいの細身の男が映っていた。気弱そうな雰囲気に少し安堵する。


「まりんの父親です。おじゃましてると思うのですが…」


父親?迎えに来たということは、まりんの行動は父親公認か予想の範囲内ということだろう。

しかし、娘とは対照的な落ち着きのない話し方だ。寂しい思いをさせている負い目を感じているのかもしれない。


「ええ、来ていますよ。いま開けます」


父親を玄関に招き入れると、深々とお辞儀をして娘の非礼を詫びた。


「千葉と申します。このたびは…」


まりんは他人事のような顔で父親の手を握っている。

まあまあ、と父親をなだめながらも、間野はまりんの訴えかけるような視線に気づいていた。


「お父さん…お父さんっていうのも変ですね。千葉さん。まりんちゃんはこの家が好きみたいですね。だからいつでも来ていいって約束したんですよ。なので、あまり怒らないであげてください」


まりんの視線が父親に向く。さすがに父親も困った顔をしていたが、この状況で反対するわけにもいかないだろう。


「ありがとうございます。おじゃまでなければ、ぜひ」

「ええ。じゃあ、また」


それでもどこか他人事のような顔で、まりんは手を振った。

二人の背中が玄関から消えようとした時、ふと間野の脳裏に閃くものがあった。


「千葉…」


その声が聞えたのか、まりんの足が止まり、父親が顔を覗き込む。


「そうかぁ」


間野の緩んだ頬を感じ取ったのか、まりんの小さな肩がピクついた。


「千葉まりんちゃんか!いやぁ、いい名前を付けてもらってるじゃあないか」

「間野さんに投資の才能はないと思いますよ」


まりんは捨て台詞を残し、そのまま振り返ることはなかった。


最後までお読みいただきありがとうございます。

まだまだ不慣れで作法もよくわかっていませんが、感想をいただけると大変うれしいです。

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― 新着の感想 ―
まりんちゃん好きです!
2026/05/19 16:53 大帝ベルヴァンプ
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