第1話 少女との出会い
「ふっふ…フハ…フハハハハハハ」
バルコニーの窓を開け放つと、流れ込む風でカーテンがふわりと揺らめいた。
気持ちのいい陽気が、笑いの起源ではない。
窓の外には無数の建造物が背比べするように寄せ合い、まるで都会の海を見下ろしている気分になる。
それがたまらなく心地よいのだ。背の高い建造物はイルカの背びれのよう。
遥か向こうの水平線に落ちていくような夕日に、自然と笑いが込み上げてきた。
(帝王とはこういう気持ちなのか)
なんて浸っているわけだ。
素足のままバルコニーに出てみると、思いのほか風が強かった。
そりゃ、高層マンションだからね。慣れるしかあるまい。
少しばかり都心から離れているが、まあこれからだ。徐々にグレードアップしていく予定だし、どうせこの景色にもすぐに飽きてしまうだろうから。
とりあえず、今夜は夜景で一杯だ。室内にもどり、窓を閉めてカーテンを落ち着かせる。
なんとも不敵な笑みを浮かべていたに違いない。
「ごきげんですね」
「ああ。これがアッパーマス層の生活ってやつだな…」
即答したのだが、直後に背筋が凍り付いた。
――え?
この部屋に誰もいるはずがないからである。俺一人しかいない。だって、今日引っ越してきたばかりなのだから。
薄暗い室内で、恐る恐る声のほうに目をやると、一脚だけ置いていたソファに、見知らぬ女の子が座っていた。
「なっ…なんだ、お前…」
もし自分の顔が見えたなら、酷く情けない顔をしていたことだろう。金縛りにあったみたいに、手と口をあわあわと動かすことしかできないのだ。
女の子は、視線を落としていたスマートフォンを玩具のような鞄にしまい込み、無表情に俺をジッと見据えて立ち上がった。
十歳くらいだろうか、少なくとも小学生に見える。可愛らしい顔立ちに、上品そうな身なりをしているが、感情の見えない瞳と落ち着き払った態度は、子どもの体に何かが憑依しているようで、不気味というほかなかった。
「間野久一さん」
確かにそう言った。俺の名だ。
幼い口許に微笑を含ませ、ゆっくりと近づいてくる。俺の耳の奥で「ゴゴゴ…」という警告音が鳴っていた。
「な…んで、名前を?」
女の子は、部屋の隅に積まれた段ボールを小さな指で指し示した。
「頭は良くないようですねェ。残念です」
あ?
なんて怒りは湧いてこないし、言っている意味はわかる。貼り付けてある配送用の伝票を見たということだろう。ただ、この状況が理解できないのだ。
「い…いつから、ここにいる?」
「いつから?あなたがここに来る前からです」
耳鳴りはさらに酷い音を立てた。
「来るな…まさかスタン…い、いや…宇宙人か?」
プッと吹き出すように、女の子は笑った。
「漫画の見過ぎです。しかも、かなり古いやつ」
そしてクルリと振り返ると、解かれていない段ボールをポンポンと手で叩いた。
「引っ越し屋さんと一緒に入ったんです。妹だって言ったら、アイスクリームまでくれました」
笑った顔がまた不気味だ。氷の微笑とでも言うのか、可愛らしい顔が余計にそう思わせる。
「お前、何モンだ?引っ越してきたばかりで何もないぞ」
「目的ですか…」
女の子はフムフムと考えるような仕草で、口元に手を当てた。何かの真似をしているのだろうか。
「あなたがどんな人なのか、確かめに来たんです」
「……」
俺は沈黙した。意味もわからないし、返す言葉もない。
ただ、少しだけ好奇の色が差した少女の瞳に、ホッとした。すると、俺にもフッと笑みがこぼれた。
多少知恵があるようだが、やはりただの子どもだ。真面目に取り合う必要などないのだ。他人の家に入り込むのはいただけないが、探偵ごっこでもしているのだろう。いや、そうに違いない。
女の子は部屋をぐるりと歩き回りながら、思わせぶりに頷いている。
子どもの一人遊びにしてはぶっ飛んでいるが、友達がいないのだとしたら、ロンリーの俺には、その気持ちがわからないでもない。世間はGWだしな。
「荷物の量から察するに、独身で間違いないでしょう。服のセンスもイマイチ。彼女もいませんね?」
「わかったわかった」
俺はつかつかと女の子の前に立ちふさがって、しゃがみ込んだ。
「俺の何が知りたい?名前はもう知られちまってるみたいだが」
「おいくつですか?見たところ、学生ではなさそうですね」
女の子は、やはり探偵になりきっているようで、淀みなく質問を繰り出してくる。
「二十四だよ。社会人…だったけど、仕事は辞めたんだ」
「ほう」
なぜか嬉しそうに口を丸くして、興味を持ったのか顔を近づけてきた。
「なぜ、辞めたのですか?」
「お前さんに説明するのは難しいなぁ。投資でね。まあ、簡単に言えば儲かったわけさ。しばらく仕事をしなくてもいいくらいに。だから、ちょっとのんびりするつもりなんだよ」
「アッパーマス層って言ってましたね?では、資産三千万程度でってことですか?」
「なっ…」
再び俺は沈黙した。
(は?なんて言ったの、こいつ…え?)
という、目の前の現実を受け入れるか受け入れないか、頭の中でそのせめぎ合いが始まっていた。
「投資家として合理的な行動とは思えませんが、ずいぶんと思い切ったことをされましたね」
さらに女の子が尊大に言い放つ。今度は俺がグルグルと歩き回る番だった。
「お前…こそ、いくつだ?」
「九歳です。小学三年生。学校や住所は言えませんが」
「個人情報ってわけかい。まあそれはいい。九歳ってのはとても信じられんが、どう見ても子どもだしな。とりあえず、名前を教えてくれよ」
この問いに、少女の様子が変わったように見えた。
「ま…まりん」
「まりんか」
少し照れたように顔を背けた少女の仕草に、またホッとする。
ここで恥ずかしがるのかよ、とは思ったが微笑ましい。どうやら人間の子ではあるようだ。まだわからんが。
とりあえず、落ち着こう。俺はまりんをソファに座らせ、段ボールからミネラルウォーターを取り出して渡してやった。
「で、まりんはなんで俺を調べるんだよ。偶然ここに来たわけじゃないんだろ?」
すると、先ほどまでの尊大さが嘘のように、少女は伏し目がちに呟いた。
「ママを探してるの…」
「ママ?はぐれちゃったのか?」
まりんは悲しそうに首を振った。
「行方不明なの…二年前から」
――は?
まさかのブッコミ。いやいや、もう勘弁してくれって。いつまで付き合わなきゃならないんだよ、コレ。さすがにもうキツイから。
だが、そう思うだけで、空気の読める俺は何も言うことができなかった。
嘘だとしても、ここで上手い返しができるボキャブラリーなど持ち合わせていないし、出て行けとも言いにくい。そもそも、この年頃の女の子にどう接していいのかもわからない。とりあえず合わせてやるしかないのである。
それに、膝の上でペットボトルを支える小さな両手が、僅かに震えているように見えたからだ。
ハッとしたのは、その小さな手の甲に、雫が落ちた時だった。
「ここはね、ママがいなくなる前に住んでいたおうちなんだ」
さらに返す言葉がなくなった。
「マジで…?」と呟くのが精一杯だった。いや、マジっぽい気がしてきたし、これが嘘だったら、こいつは化け物で確定してしまう。
しゅんとしている少女の姿は、さすがに愛おしく思えたのだった。
マジだとしたら、母親の思い出を求めてこの場所に来たということか。
大人びた口調もいつの間にか消えているし、健気に何度もここに来ているのかもしれない。というか、駅で主人を待ち続ける犬の話が頭をよぎる。涙が出てきそうだ。
俺はいたたまれない気持ちになった。だから自分でも驚いたが、まりんの頭を撫でていた。
「わかったよ。じゃあ、まりんが来たい時はいつでも来ていいよ」
「ホント?」
「ああ、ホントだ」
「嘘つきの顔」
「どんな顔だよ。それこそアニメの見過ぎだ」
こう言うと、まりんは笑ったように見えたが、しょんぼりした様子は変わらなかった。
「そうだ。お腹空いてるだろう。ピザ食べるか?どのみち、頼む予定だから」
まりんはまた首を振った。
「もう帰らないと」
「…それもそうか」
「また来てもいい?」
顔を上げたまりんの表情は、どこにでもいる九歳の少女のそれだった。いや、これまでに見たどんな少女よりも可愛かった。
「そう言ったろ」
まりんの顔に太陽のような笑みが浮かんだ。俺は心から嬉しく思った。
これが子ども本来の笑顔というやつだ。
懐に余裕があると心も広くなるな。そんな格言があった気がするし。
出会ってすぐの子どもに、あっさり出入りを許可してしまったが、妙に気持ちは晴れやかだった。
「じゃあ帰ろう。送っていくから」
しかし、まりんはシャツの裾をいじらしく引っ張った。
「どうした?」
「もうひとつお願いがあるの」
「なんだ?」
「ママを探すの手伝ってほしい…」
小さい手に引っ張られたシャツから、体温が伝わってくるようだった。
もう俺は、この子に完全に心を寄せてしまっていた。
冷静に考えれば馬鹿もいいところだが、ここで断れるはずもない。なんせ、無職なのだから。
「もちろんだ」
もう一度、少女の顔に陽が差す。
小指を差し出すと、まりんも小さな指を出してきた。
壊れそうな小指からリアルな体温が伝わる。『ゆびきりげんまん』を楽しそうに口ずさんでいる様子を見ると、どうやら元気が戻ったようだ。
そして指を離すと、タイミングを見計らったかのようにインターホンが鳴った。
「誰だ?」
モニターを覗くと、三十代くらいの細身の男が映っていた。
気弱そうな雰囲気に安堵する。すでにこの部屋には、誰が入り込んでくるかわからない恐怖があるのだ。
「まりんの父親です。おじゃましてると思うのですが…」
父親?
そうか、そりゃ親がいるよな。一人で暮らしているはずもないし。
で、迎えに来たということは、まりんの行動は父親の予想の範囲内ということだろう。やはり、この部屋を何度も訪ねてきているに違いない。
しかし、父親は娘と対照的な落ち着きのない話し方だ。
「ええ、来ていますよ。いま開けます」
父親を玄関に招き入れると、深々とお辞儀をして娘の非礼を詫びた。
「千葉と申します。このたびは…」
まりんは他人事のような顔で父親の手を握った。
まあまあ、と父親をなだめながら、俺はまりんの訴えかけるような視線に気づいていた。
「お父さん…お父さんっていうのも変ですね。千葉さん。まりんちゃんはこの家が好きみたいですね。だからいつでも来ていいって約束したんですよ。なので、あまり怒らないであげてください」
まりんの視線が父親に向く。さすがに父親も困った顔をしていたが、この状況で反対するわけにもいかないだろう。
「ありがとうございます。おじゃまでなければ、ぜひ」
「ええ。じゃあ、また」
それでもどこか他人事のような顔で、まりんは手を振った。
二人の背中が玄関から消えようとした時、ふと俺の脳裏に閃くものがあった。
「千葉…」
その声が聞えたのか、まりんの足が止まり、父親が顔を覗き込む。
「そうかぁ」
俺の緩んだ頬を感じ取ったのか、まりんの小さな肩がピクついた。
「千葉まりんちゃんか!いやぁ、いい名前を付けてもらってるじゃあないか」
「間野さんに投資の才能はないと思いますよ」
まりんは捨て台詞を残し、そのまま振り返ることはなかった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
まだまだ不慣れで作法もよくわかっていませんが、感想をいただけると大変うれしいです。




