18話 花顔雪膚
◇ ◆ ◇
前世の知り合いというには濃い付き合いがあった天垂翼仙という男は存在自体がふざけていた。
やれどこそこの珍味には神秘がどうたらと口に詰めてきたり、やれどこそこの山で貴重な体験が出来ると獣に追い立てられたりと、事件性が天元突破しているような胡散臭さを常に身に纏っていた。
その胡散臭さを完全無欠に凌駕するほどの外面の良さによって騙されるのは老若男女のほぼ全て。
道行く人どころか鳥類獣の類まで視線を全てかっさらうのは日常で、警官が職質してきてもいつの間にか相手が畏まるように平身低頭し、暴力こそ生業という輩に囲まれても次の瞬間には揉み手をして顔色を伺っていた事などざらにあった。なんなら土下座して財布を差し出すモノさえいた。
上位者。
外見だけに納まらない異常性。財力や権力という分かり易い指標以上に、彼は浮世を見下ろす側だった。そんなヒトのようなナニカが傍にいる事を当たり前としていた前世の日常は、異常だったのだと現世ではそう振り返れた。
身に染みて理解出来ているのだ。
彼は、漫画に出て来るスパダリのような人間では無い。ヒトという枠に収まるような存在では無かったのだと。なんならオカルトそのものと言っていいくらいに人間離れしていた。
これは、こちらの世界で生きて来て相互確認し合った私とマッキーの共通認識である。
異常だった。であるのにどこか惹きつけられる存在。
また会ってみたい、声を聞きたいと思わせて来る魅力もまた兼ね備えていたのも事実だ。
だからそんな彼が唐突に現れ、頭上に光輪を煌めかせ背中から黒翼を六枚背負っていようと、驚嘆には値しない。むしろ納得感が勝る。
――やっぱり人間じゃなかったんだ、と
そんな老いも若いも動植物まで狂わせた端正な顔を笑みに象り、瀟洒でモダンな軍服に白コートを羽織ったその男は快笑。背丈は変わらず長身で、胸の徽章には翼が生えた魚影の紋章が刻印されている。
それに加えて、目に見えて浮かれている事が分かる。いつもどこか翳りを滲ませていた気配がまるで無い。故に一瞬戸惑ったものの続く男の言葉に懐かしさを覚えた。
「はっはっは!久方ぶりだねゆっきー君。元気に過ごしているかね。どうだい、こちらは実に刺激的だろう?」
「まあおかげ様で気力十全に生きて来れましたよ」
「良き哉良き哉。いやだが呼び方はミラちゃんでも構うまい?なんせ今のミラちゃんはついてないのだからっ!」
股間への視線に青筋立てて、考えるよりも先に地面踏みしめ部長を蹴り上げようとするも躱された。
「ちっ」
「おやおや、少々やんちゃになってしまったか。そんな変節もまた良き哉」
「そっちは随分ご機嫌麗しいようで。……で、この状況諸々説明して貰えるんです?」
「ふむ、ひとまず僕から衣服を贈ろうか」
何事も無かったかのように彼はパチンと指を鳴らした。
気障ったらしい仕草が嫌味にならないほど似合っている事にため息を覚えるが、飲み込む。黄金に輝く粒子が私に集まったかと思えば次の瞬間には服に変わっていたからだ。しかもこれは――
「あ、前世の最期に設定した服装?」
「うむ。一見僕と好みが似通っているようでいて全く違う所はゆっきー君らしいね!はっはっは!」
「まぁ素っ裸のままよりは――」
「本当にむっつりであるなゆっきー君は!青い煩悩溢れるエロ軍服!もはやバニースーツでは無いか!横からも胸に食い込むのが分かる少ない布面積!ふとももに食い込むベルトも黒レザーホットパンツもどうかと思うぞっとぉ!?」
「ちっ」
二度目の蹴撃も回避されてしまった。
どうせ痛みなど通じないほど力量差があるのだからケリを受け入れる度量くらい欲しいものだ。
「いいでしょうが別に!好きなんですよ!!ほんっとその無駄に回る舌どうにかした方がいいですよ、マジで。まぁ服には感謝します、ドーモあざーっす」
「はは、不遜であるな。羞恥心が死滅しているのか心配になったが、これは成長していると喜んでやるべきか叱るべきか悩まされる。親の気持ちとはこういうものか」
「誰が親か誰が。それになんかこの服……」
くんくんと鼻を鳴らす。臭いが微かに……。何だこの臭い?人工の、新品の服の香りとかじゃなくて、どちらかというと自然の中にあるような。アレだ。磯の香りだ。なんで服から海の香りがすんだよ。海水にでも漬けてたのか?なんかばっちぃ気がして来たぞ。
「はっはっは、素直になれないお年頃というヤツか!構わんとも!」
「はぁ。てか、部長あやしすぎでしょ。もっと自らを省みてくださいよ。素直に感謝を贈るのも躊躇するほどですよあなた」
前世では世話になったし現世では探してもいたが、それはそれ。これはこれ。
学園ダンジョンで大型種を討伐してからこの空間に来るまで意識の断絶は無かったし白昼夢でも無いだろう。
再会まで15年という月日は短く無い。人の性格など変わっていて然るべき。いやどう見ても人じゃないが……僅かな予兆も無しに突然現れた事といい、前世持ちである言動といい、翼と光輪といい、何もかもがあやしい存在であるのだ。
訝しみながら、妙に馴染む指ぬきグローブをくいっと引っ張れば、ホタルが舞うような幽玄な輝きを放つ粒子が舞った。何だこの反応――。
「ああ、気付いたかね。其れは魂を保護する為の衣装なのだよ」
「魂を、って事はやっぱりこの空間って」
「うむ。神域との境界、神々の御坐へ繋がる階、すなわち光陰の静寂であるな」
「なんかどっかで聞いた音の響きですね。なら現実空間と時間は」
「断絶している故、現実空間の肉体をそう心配せずともよいだろうさ」
ほっ、と安堵をひとつ。現実世界とは時間の流れが別々という事だろう。まぁこの空間から現実に帰る事を考えると気を抜けないし、現実世界の肉体に私の魂が戻されればそこはダンジョンの空中なわけで気を抜くわけにもいかない。
神域との境界。神域とはその字の如く、神々が住まう空間の事。其処はヒト程度では辿り着けない領域。其の場に至る為には案内が必須で、導いて貰わなければ永遠に彷徨う事になるのがこの光陰の静寂というこの無量空間。
神域の存在、当然ながら神々もまたヒト程度では通常近付く事すら叶わない超常存在。神々は意思ある太陽と原作中では例えられていた。不用意に近付けば引力で引き潰され熱で蒸発するような超絶危険な存在という話。実際に原作中の例えと現世で学んだ神学の内容に相違はほぼ無かった。
ヒトがどれほど信仰し庇護を求めようと神々はその在り方を変える事など無い不変の存在。ヒトが想像して描いた偶像などでは無く、この世界において神々とはヒトの歴史より古くから其処に在る存在だ。ヒトが認識できるように神々が自らの分霊(分柱・分体ともいう)を創らなければ意思の疎通すらもちろん不可能。あまりに存在の格が違い過ぎる故に。
それでもこの星に住まうヒトに興味を示す神々がいる。そんな神々は加護や恩寵を振り撒き、ヒトに神意を示すに至る。
個人的には、ヒトに興味を示すような神々の事はただの暇神か変神だと思っている。これはいうなれば、顕微鏡で微生物や原子・粒子を眺めるような感覚で、ヒトを見ているのだろうからだ。どうして興味を持てるのか。私は科学者でも無ければ神でも無いので分からない。
この例えでいえば顕微鏡で見た微生物や微粒子に愛称を付けられたり、日がな観察し続けられる被対象の事を、ヒトの間では神の愛し子と呼んだりもする。代表的な人物といえばやはり現人神とも言われる世界的に有名な大宗教の教主だろう。
神の分霊をその身に降ろし、神託を授けたりする話は現世でも有名だ。
まぁそんな極一部の例外は置いておいて、神と相対するという拝謁には危険が伴う。計り知れない存在の格差もだが、拝謁の際に象られる神の姿は、千差万別という話もあるからだ。
叶うならどうかせめてヒト型であって欲しい。分霊の姿形でさえ直に相対すると、ヒト程度では(認識できる美醜や臭いや声だけで)発狂しかねないのが神という超常存在であるので。
そして嫌な現実は、私が此の場へ意図的に訪れたわけでも無いという事。故に、呼ばれた、と解釈できる現状。であれば、いずれかの神より何か用件があるという事に他ならない。この知識が示すのは現実空間に戻る為には謁見不可避という事だ……正味どの神であっても会いたくない。特殊なジョブになる条件に『神との謁見』や『神との邂逅』といった偉業が前提の神の恩恵もあるが、そういった系統の神の恩恵は望んでいない。【狂信者】街道まっしぐらだろ、一日中神の事をぶつぶつと呟き続ける人生なんて絶対嫌だ。ふぁっきゅ。
「うむ。いちいち言わずとも察せるのは僕の教育の成果であるな。良き哉!」
「部長のじゃなくて原作、ホライゾンシリーズ知識のおかげですがね」
「であればやはり僕のおかげであるな。アレ等を造ったのは僕であるが故に」
「は?」
聞いた事無いが?というより前世では年齢ひとつ上なだけじゃなかったのかこの男。学生だったろ?
「いやいや、部長。え、マジです?」
「うむ。この世界を見知った存在など向こうの世界では僕のみである故、自明だろう?」
知らんがなというツッコミを飲み込み、面白いペットを見るようにこちらを見て来る瞳の色は虹色に煌めいている。
その瞳を見返せば枷のような何かから解放されたように頭の中に映像が思い浮かんだ。昔からぶっ飛んだ兄貴分だと思っていたが――、今、前世を思い返せばこの部長、歳を取っていなかった。私が子供の頃からずっと姿形が変わらないままだったのだ。その事に全く疑問を抱かなかった私自身にも、今は頭痛を覚える。
心当たりがあるからだ。
精神操作系の魔法や魔術など、この世界出身の超常存在であるならばお茶の子さいさいといったところか。読心はおろか記憶操作や魂魄矯正といった魂を縛る事すら可能であろうし、疑い出したらキリがない理不尽な存在。ソレが光輪を頭上に戴き、翼を携える天使という上位種族である天性存在だ。
その中でも翼3対は天使の中でも最上位であり、翼の色が黒という事は神々に反逆したという証。つまりは堕天使。こっちは魔性存在、つまりは討伐対象。原作者、なんでそんな設定を盛り込んだ。自虐か何かか?胡散臭いにも程があるだろう。
どうぞ疑ってくださいと言わんばかりの部長の微笑み。なるほど、前世から引き続いて部長は不思議カテゴリの存在らしい。そんな相手が偽証する必要も無いだろうし、欺瞞であっても見破れる筈も無し。
そしてまさに今になって思い起こされた原因もまた、この目の前の存在の仕業なのだろう。
「洗脳、とまではいかずとも認識くらいは弄ってたってことですか。クソ野郎って自覚持った方がいいですよホント。まあそんな事よりも世界越しの新事実にビビりましたわ。ホライゾンシリーズの生みの親って、え、サインとか貰えたりします?」
そんな事かい?と苦笑する部長は、前世と違ってどこか朗らかな雰囲気を漂わせている。
「オタク気質な所は変わり無いようだね。すぐ隣では、セイ君に随分と質問攻めにされている真っ最中なのだが」
「マッキーが?同時にって分身でもしてんですか?」
「うむ。少し訂正すると分身では無くこの場の特異性によるものであるな。この場において時間は順序のみを示す概念であって事象は平存可能である。キミとお喋りしながら、彼女とも並行して言の葉を交わしているのだ。もちろん他の仕事もまたこなしている最中でもあるぞ」
「あー、うん、まぁ……とりあえず不思議現象だってのは分かりました。マッキーは別の時空間にいると。んじゃ難しいことは全部あいつに任せます」
どうしようも無かった過去を悔やめるほど今の私に余裕も無い。この目の前の超常存在の意図を察そうとちゃらんぽらんの頭をフル回転させるより、その挙動を見極める方がよっぽど重要だ。一見するとただの線の細い青年にしか見えないが、計り知れない魔力の脈動、その一端でも感じ取ろうと、脊髄反射の雑談を舌に乗せつつ私は部長を観察する事に注力。
記憶操作なんぞされたく無い、その一心で警戒している。
私のようなジョブ無し一般人がどれほど抵抗しようと無駄かもしれないが、出来る事もせずに操り人形にされるのは御免被る。
そんな私を見て、毛を逆立てた子猫に向けるような瞳をした彼は六枚の黒翼をバサバサと誇らしげに揺らした。
「ふっ、僕も再会の場で能書きを垂れる気は無いさ。大切な事は覚えてくれているようだしね」
「大切な事……勝てば官軍とか?」
「負ければ賊軍、とね。まぁそれも教え込んだ事であるが」
ふっと鼻で笑った部長の顔を見て、私は訝し気に眉をひそめた。
彼の仕草からして私の回答はお気に召さなかったらしいが、正答は教えて貰えないようだ。
ただのヒトとは次元が違いすぎる超常存在のくせに、そういう人間臭いところが変わっていないから調子が狂う。
「誠実たれ、の方ですかね。熨斗つけてそのお綺麗な面に叩き込んでやりましょうか?」
「キミは本当に、良い性格に育ってくれたねぇ」
「おかげさまで。……で、いくつか聞きたいことがあるんですが」
「答えられる範囲でなら。ちなみにゆっきー君、前世に生きた向こうの世界がどうなったかは気にならないのかい?」
「別に。私はもうこちらで生まれてこの方15年過ごしてきましたし、これからもこちらで生を謳歌する予定ですから。むしろ前世の知識のおかげでチート気味に過ごせそうで感謝してますよ。それに前世の顛末もなんとなく察せますし……私ら、死んだんですよね?あのすんごく楽しみにしてた夏休み前に。夏休み前に!!」
「繰り返さなくてよろしい。ふむ、大枠ではそれで相違無い。肉体の死と共に、その魂をこちらの世界へ渡るための燃料にさせてもらったのだ。付け加えるなら、向こうの世界にはもう干渉すら不可能だ」
ン?
頭の中で文字列を理解しようと反芻してみるが……そんな事知らぬというように目の前の堕天使は言葉を紡ぎ続ける。
「キミ達を向こうで育んだのは全て僕がこの世界へ帰還する為だ。僕の存在理由はこの世界にしか無いからね。我が神にお仕えする、その一念をもって星辰を修正し宇宙の法則を整え因果を組み換え、知的生命体を誕生させ、歴史を誘導し、文明を幾度と繰り返し、世界を満たす神秘を高め界境を超えて帰還を果たしたのだ。キミ達はもちろんの事、他にも多大なリソースを費やしてね」
――脳の奥が、カチリ、と鳴った。
聞くだけで人間には不可能という事象のオンパレード。何だ宇宙の法則って。別世界移動のハードルは計り知れないほど高いようだ。そんな使い所の無い知識なんぞまったく要らない。
にしても聞いていれば随分と重たい想いもお持ちのようで。
こりゃゲーム部どころかそこら中が告白して玉砕してったのも仕方無いわ。
バカな私でも少しくらい読み解ける。
クソみたいな自白は一途を通り越してただの狂気だ。ヤンデレ属性の限界突破ジジイ、なんて生易しい言葉で済ませていい話じゃない。
前世の私たちが死んだ原因。認識を操作され、血筋や因果まで調整していたと自白した根源が、目の前で微笑んでいる。
なんだそりゃ。つまりなんだ。私やマッキーが慕った事も憧れた事も、向こうで生きた何もかも、このくそったれのエゴの為に燃やされたって事か?
「……あ゛?」
嫌悪と怒りで沸騰し、言葉ではなく魔力が吹雪となって私の身体から噴き出した。長い髪が激しくはためき、闇夜の空間に白の波涛が奔り舞う。
「おい、クソジジイ。つまり何か?今の自白は、あんたが、主犯って事だよな?どっかの見知らぬ神さんの仕業でも、不可抗力でも偶然でも無かったっつうのは、反吐が出んぞ。あんたがハッピーなのはよく分かったがな、巻き込まれて死んだ私らに、一回でもごめんなさいって思ったことはあんのかよ」
「無い。我が神への信仰と帰還の一念に比べれば、すべては些事だ」
堕天使は吹雪吹き荒ぶ中でも髪一筋すら乱さず、憐れむような、同時に愛おしむような瞳で私を見つめてくる。
反吐が出るその顔面を一発殴ろうと、足を踏み出し地面を踏みしめ腰を回転させた勢いを乗せた拳を叩き込む――が、手前の中空でその拳も止まった。止められた。
無色透明の魔力壁に全力で叩きつけたものの、反発で拳が砕ける事も無く、柔らかく受け止められたような感触。
――そんな気遣いは要らない
「蔑ろにされたキミたちの怒りはもっともだがね、ゆっきー君。力無き者の意など通らない。そう何度も教えたろう?」
そう思った事は完全な見当違いだと嗤うように、彼は指先に、精緻で複雑な球体型の魔力陣を具現した。
一見すると高級時計の機械式ムーブメントを幾重にも重ね束ねたような陣の形。美術品や芸術品と言って差し支えない美さえ誇る魔力の形と動きに怒りを一瞬忘れるほど呆けてしまった。
「ごぼぉっ、ぁ……っ!?」
細工師が生涯を賭して形作ったような、そんな魔力陣が複雑な動きと共に輝き出せばたったそれだけで、肉骨が砕かれたような痛みが全身に走り、崩れ落ちた。
視界は明滅。意識があるだけで身体はまるで動かず痛みだけが拷問のように苛んで来る。
小学や道場で受けた暴力などごっこ遊びとでも言うような、命の危険を感じさせる痛み。
死の一文字が脳裏によぎる。
心臓が今更ながら早鐘のように打ち鳴り、呼吸が荒く全身の筋肉が意思と関係なくビクビクとはねた。
頭からつま先までミキサーをかけられたようにぐちゃぐちゃにかき混ぜられたかのような最悪の激痛と不快感。
何をされたのかも分からないまま、気付いた時には圧し潰され床に這いつくばらされていた。
そしてソレだけで終わらない。
この姿は剥き出しの魂という話なのに、血が飛び散れば臓物もあるらしい。ただ肉体だと激痛で気を失って死にそうな負傷であっても、意思を保てる程度には痛みが鈍くあるようでもある。そうしてしばらく耐えていれば、身体から離れた血肉は光る粒子となって、また私の方へと戻って来ている事が分かった。
全身の至る所が痙攣し破裂しては直り、崩れたかと思えば生えてくる。
つまり回復もされてるらしい。クソが。
痛みに呻く中でも容赦など一切不要とばかりに攻撃が続けられる。腕が捩じ折れ骨が肺から突き出て肩に爪先が突き刺さるほど曲げられる。ぐぴっ、ぐぇっ、と勝手に喉以外からも漏れる嗚咽が心底腹立たしい。
傍から見れば肉塊にでもなってそうだ
「ふむ、流石僕が誂えた衣装だ。魂の保護機能はきちんと動作しているね」
その音を理解すれば、腹の底からぐつぐつ煮え滾る感情が溢れて、生えて来た舌を動かし痙攣し続ける喉から声を絞り出す
「ぶぇっ……ざけん、なぁっ!……グゾや、ろおぁぐぁっ!」
「はっはっは、言葉が汚くなったねぇ。まぁそちらは構わないがね、その状態で悪態吐ける者は数少ない。うむうむ、ユッキー君はやはりそちら側でないとね。良き哉。が、力量差をきちんと把握したまえ。そんな事じゃ早々に魂脈の列に連ねる事になってしまうよ」
ほれ、という気の抜ける掛け声が掛けられると、それまでの痛みも圧し潰してくる圧迫も綺麗さっぱり解け消える。
傷も無かったかのように、四肢に感覚が戻り、五感の何もかもが元通り――
「甘いねぇ、ホントに変わら――」
――積もり舞え
うずくまった姿勢のまま黒い床に爪立て、両脚を爆発させる勢いで吹雪かせた推進力でもって捨て身の一撃。
日和っていた。前世の関係でもって怒れば受け止めて貰えるかも、などと
驕っていた。前世の感覚でもって殴れば怪我させてしまうかも、などと
手加減など頭の隅にすら必要な相手などでは無かった。
全身全霊で殺すという意思で固めた拳ですら、いまだ届かないのだから
「はっはっは!少しは反骨心を見せてくれたか。それでこそこちらも熱意を傾けられるというものだね!」
突き出した拳を握りつぶされ、腹を衣服諸共吹き飛ばされれば、頭を掴まれギリギリと絞められる。その指の隙間から見える堕天使はここに来て初めて見せる邪悪な笑顔を浮かべていた。
「では範を示そう。魂の奮い、界の法に波紋を立てる魔なる力、その一端を」
◇
――
―――…
―――――……
「ふむ。このあたりで良いか。ボクは少なくとも満足したが」
地獄があるとするなら、此処こそがそうなのかもしれない。
煉獄が如く熱に焼失する足で踏み出し
極寒の雪氷に凍り砕ける手を突き出し
身体で壊されていない所なぞとうの昔に何処にも無い
が、壊れた次の瞬間には新品の身体に直されている
その繰り返しの数を数えるのも億劫になるほどに経て来たが……四肢がまた生えたのなら、またもう一度踏み出せる。
そう茹だったままの魂は身体に命じる。まるであやふやだった芯鉄を鍛え直すかのように。
眼前の超常存在、其が為した魔法現象を再現しようと霊格神経から沸き立つ魔力を噴出させ制御し陣を描きて現象が具現。
腹から吹雪と共に生えた雪結晶の刃未満の何かを握り持って振り抜くも、私を遥かに上回る密度の刃に真正面から当たり砕け散る。当然ながら私の胴体は上下に分断され視界が回る。
と、一瞬の遅滞も無く、身体を直される。
そして先程の魔力陣を修正し、もういちど。
眼前の超常存在、その一挙手一投足を睨み観る。霊格神経全てを完璧に把握制御出来たとて自身では真似すらおこがましいというほどの可視可された魔力の流れをつぶさに観察する。魂が吐き出す呼気や目線の動きさえも何かしらの技術を取り入れてるとしか分からない理解不能な神技の数々。
そして発動される魔法はまるで、いや、意図的に【雪】属性に寄せられていた。
触れれば蒸発するほどの高温を充溢させた雪の花弁
冷たさを感じる前に身体が雪片へと変じ崩れていく崩壊の雪雫
無数の雪刃で構成された白銀雪の大太刀は空間を削るかの如く凶悪
人が扱う魔術・魔法を超越したその技術の一端を掴もうと、真似た魔力陣を構築するも発動せずに終わる事も多く経験した。何かが足りない。いや何もかもが足りない。足掻けば足掻くほど意味が分からない力量差を知らしめされる。だが、それは諦める理由にはならない。
幾度も繰り返しそれでもまだだ、と身体を動かそうとすれば、どうも縛られているような気配。全身を包む拘束具のような不可視の感触に、指一本すら動かせない現状。だが唐突に止んだ暴力の嵐の凪に、まず警戒が先立ち、次いで疑問と共に眉を上げ眼前の鬼畜野郎を睨みつける。
それからしばらく、呼吸など不要なこの魂で息を整え、怒りを腹に貯めていれば、堕天使は快活な笑顔のままこちらを観察するように微動だにしない。
その面殴りたい
「ふはっ!目は口ほどに言うとは正に正に!」
きゃらきゃらと突然笑い出した相手に苦虫を嚙み潰したように歯軋り。
「だがまぁそろそろ終いとしよう。満足していなかろうがユッキー君も実際に味わってみて力の使い方を覚えられたろ?」
キミは割と力に酔うきらいがあるからねぇ、などと苦笑する堕天使にそんな事を言われる筋合いは無い。
唾でも吐き掛けてやろうかクソ野郎。
だが確かに今まで考えもしなかった魔力の動きを幾度も体験させられた。
この経験は得ようと思っても得られない、値千金を遥かに超える価値があるだろう。普通は死ぬし。
なので三下の負け犬が如き振る舞いをなんとか堪えて、目を瞑る。
何にしても、格が違う。
拳は届きさえせず、頭を下げさせる事すら出来ない事実に、自分にも腹が立つ。途中からはもう実戦授業を強制的に受講させられているような有様であったし、何も言い返せない。大人と子供、よりも差がある。言うなれば小動物の躾のような、そんな具合。
いまだに私が魂ごと消し飛ばされていないのは、慈悲か憐れみか、はたまたこの場の法か。
眼前の存在がほんの僅かでも害意を持っていれば、私は擦り潰されて消えていた。骨の欠片すら残りゃしない。完敗である。何ひとつ物言える立場に無いのだ。その程度は頭の中では分かっているのだ。
ふぁっきゅ。
駄々をこねて消滅するのは、絶対にお断りだ。
前世の自分にも、今の自分を育ててくれた現世の家族にも、この上ない不義理だし……
と理由を捻り出せたなら、答えは一つ。
「……はぁ~~~~~っ」
「おや、酔いも醒めたかな?気付けをどうするか考えていたというのに」
矛を収めるしか無い。情けない。情けなさに腸が煮えくり返る。くそったれが。
天頂を見上げ、深く、深く息を吐き出し、魔力を強引に自身の中へと抑え込む。怒りを消すんじゃない。矛先を間違うなという話だ。私が好き勝手されたのは私の弱さが原因でもあるからだ。……いや、やっぱりムカつくな。腹立たしさは治まらないし他者に自身を好き勝手された事実は苦い。でもこの怒りは、心の奥底にハンダ付けして封印するのだ。
「……どういう面の皮の厚さしてんです。ええ、ええ、参考になりましたとも。感謝なんかしませんし絶対に許さねえからな、クソ野郎」
「はっはっは、相も変わらず良い度胸だゆっきー君。だが、この世界では力無き敗者の言に価値などない。文句があるなら、僕を叩き潰せるほど強くなりたまえ」
「言われなくても。いつかその綺麗なツラ、どんな女子でも百年の恋が冷めるほどボコボコにしてやりますよ」
ツマミを切り替えるように、とはいかないが私はいつもの淑女である雪小路御良の仮面を被り直した。
この理不尽な世界で生き残るために、私は幼少期から血反吐を吐いて魔力を磨いてきたのだ。今さら元凶が判明したところで、私の歩みが止まるわけがない。むしろ目標が増えて喜ばしい程だ。利用できるものは堕天使からでも毟り取って、強くなるための踏み台にしてやる。
そんな決意を心に刻んで、ため息混じりに疑問を呈す。
「はぁ……つか、なんで話したんですか」
別に言わなくても良かったろうに
「僕に科せられた罰のひとつであるから」
誠実たれ、の言を守ったんでも無いんかい。むしろこの言動こそが実証とでも嘯くように軽やかな言葉が耳に届いた。
「なるほど、ってか罰?つまりなんですか、部長より上位者、神様から課された刑務作業中って事です?はっはー!ざまぁっすわ!!」
「ふっ、ちなみに補足すると、僕と同等に神秘をかん養とすれば、向こうの世界に移動出来る可能性は芽生えようとも。まぁ、僕をして二度と御免と思わされるほどだがね。涅槃寂静の彼方を超えた虚無の確率に挑むのは」
そんな確率に挑んだ経験あるのが一番ホラーだよ、さすが不老不滅の堕天使さま。道理を弁えた人間にゃ理解不能だね。
私が知っていたマッドでエキセントリックな部長なんて、この男のほんの一側面に過ぎなかったんだと、今更ながらに思い知らされる。
「ついでに聞きますけど、うちの家族に前世の記憶が無いのは?」
「ふむ、多くの原因が考えられるが、最も大きな影響は介入因子の適合率が低かった故であろうな。次に星辰の位置や年齢といった時空の流れ、タイミングもまた大きい。世界の境界を渡る際の喪失である為に、未来永劫向こうでの記憶が生える事は無い。一部でも残ったキミのような例は、都合何十万という魂を連れてきて、数千体程度だよ。その中でもゆっきー君は特に優秀なようで僕も誇らしいとも」
さらっとエグい数の大量殺人の告白されたもんだ。軽く地方都市の人口を利用したと……ここまで数が多いと度し難いな。星やら宇宙やらと規模のレベルが違う事象と並べられて、どうも現実感が飛んでしまって詰ろうとも思えなくなった。詰りたい被害者は私のように直接文句を言えばいいだろうし。
私も記憶の取りこぼしがあるのは理解してるくらいなのだが、ありがたいことにこれでも適合率は優秀らしい。おそらくマッキーも優秀なのだろう、逆に徳岡くん辺りがもしかしたら低いのかもしれないね。オブネ君もまぁ、低いんだろうね。
「付け加えると、因果諸共こちらの魂脈に介入させたので肉体的に向こうの世界で死んだとしても、磨り潰された燃え残りの魂であっても神々によって修復され無事魂脈の列へと差し込まれた。そして因果を内包した転生という形でこちらで全員が二度目の生を、一度目で辿った生と似た形で享受している事は伝えておこう。そしてこれらの因果はまもなく役目を終え、真の意味でキミ達はこれからを生きる事となる。故に、この場に招かれた魂には僕が僭越ながら餞を送る事にしているのさ」
はなむけ?あの地獄が?やっぱり頭オカしいなこのクソジジイ。
それにしても、事象に対して犠牲が少ないのか多いのかも分からん。巻き込まれた被害者も記憶がちゃんと残っている者は割合的に少数みたいだし……
そんな話もあり、少し冷静になって自身を振り返ってみる。
前世の自分の生い立ちを考えれば……幼少時から部長によく分からないモノを食わされたり実験されたり野山で肉食獣に追われたりして生死の境を何度も行ったり来たりはしていたか。思い当たるのは現世で相対した小学時代の畜生ども。そして前世でも現世でもそんな私を両親は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたわけで、よく似た人生と言われればその通りかもと思う。一方で、妹のような未知も多く存在するのが今世。因果だ何だと言われても、全てが全て似た道を辿っているわけでは無い。
この世界では前世で空想でしか無かった体験を叶えられるし、今はダンジョンにも通えて魔物も討伐出来るし、自分自身が強くなるその一歩ごとが楽しいのだ。そう、とても。
だからむしろ、顔には絶対出さないが、部長には感謝の念を抱いてるまである。
こちらの都合などガン無視で世界移動の燃料にしくさった事には腹立つし殴るまで許さないが、前世の事についてはもう別世界の別人の出来事としてある程度割り切れる。というか部長に蒸し返されるまで割り切っていた。前世は前世、現世に因縁引きずらない、と。
まぁ、だから私個人としてはそこまで恨みも深く無い。
なんだかんだで怒りはするが、憎めない相手なのだ。
自分自身を納得させる理由を捻り出して、ひとり肯く。
問題になるとすれば、前世に戻りたがってる人がいた場合だ。彼等からすれば向こうの世界に移動する事が不可能というこの情報は絶望でしか無いだろう。知りたくなかったなぁ、質が悪い。
そんな人にこの事実を伝えてしまったら、テロリストや邪教徒を目指しかねない。原作シリーズに出て来た幹部連中の一部は、幸せなヤツラが憎いから不幸にしてやるって感じだったし……真っ当に生きてる側からするとマジで害悪過ぎる連中なのだ。
「……勘違いとかでも無く、やっぱりそういう話なんですね。前世持ちの間でも記憶格差があると。あ、介入因子とか何やらは私らが観測画面って呼んでるステータス画面もどきの事です?」
「広義では是、狭義においては介入因子は運命に横やりをいれる資格持ちだと認識すればいい。因果介入能力は様々に応用が効く故な。っと、待ちたまえ。もどきとは失敬であるな。かの画面は起動から認識制限に隠蔽など含めて我ながら良い仕事をしたと自画自賛する出来栄えであるぞ」
「部長それは通らないです、ホライゾンシリーズ作ったならゲーム仕様のほうがよっぽど分かり易くて詳細だったじゃないですか。後、現世は意味分からんほど魔力属性とか神の恩恵とか増えてて仕様が全然違うんですけど」
この世界に元々いたのなら前世の原作設定を同じにしてくれていればと願わずにはいられない。
「そう言ってくれるな。世界の法則を気まぐれに書き換える神々も多くいらっしゃるのだ。観測画面に関しては神々の権能や他の超常存在の縄張りに手を出すような愚行を控えるとあの形でもギリギリなのだぞ?」
「左様ですか。部長って実は普通の天使じゃなくて、神様とか世界の創造主に匹敵するような堕天使じゃないんです?」
「買い被りだね。僕は我が神にお仕えする、ただの忠実な僕さ!」
自嘲するような言葉とは裏腹に、部長は心底幸せそうに、花が咲くような笑みを浮かべた。
ただ純粋に、この世界に戻ってこられたことが嬉しくてたまらないのだろう。
こんな満開の笑みなど前世ではかつて見た事無かったものだ。マッドでエキセントリックであっても、いつもどこか翳りがあったのだが、そんな部分が消え去れば、こうなるのか。ハッピーを体現しているというか……。
まぁそれは別にいい。笑顔で拍手したっていい。
「……ま、良かったですね。ご帰還、おめでとうございます」
「ああ、寿ぎに感謝する。それと遅くなったが、そちらもおめでとう。存在値5、神々の恩寵を5文得た、つまり神から認識されるに足る資格を示した事を寿ごう」
「え?あ、ありがとうございます。じゃ、用件は済んだって事で、現実に帰してください」
「はっはっは、分かっているだろうに往生際が悪い。駄目だよ。この場に呼ばれたのだから潔く腹をくくって神の下へと案内されなさい」
「部長が私を呼んだわけでは?」
「当然違う」
「レベル5になったら自動的に神の恩恵を授かるんじゃないんですか。神様と謁見なんてイベント、ゲームでしか見た事無いんですけど」
「それに関しては感謝されてあげてもいいぞ。九割で僕のおこぼれだ。一般的にはゆっきー君の認識通り、レベル5に到った存在程度に興味を示す神はほぼいらっしゃらない。世界に満ちる神秘が半自動的に判断し適正足る恩恵を授けるのみだ」
「あっそですか。てか、別に望んでないです。むしろぶっちゃけ神さまに魅了されるのが怖いんで半自動的に下賜されるっていう恩恵で十分なんですが」
「ではそう案内先の神に告げればいい」
「……止めときます。神さまと下手に対話して【狂信者】なんてジョブにもなりたくないですし。こんな心根でも許して貰えるような懐が深くて度量が大きい神様のもとへどうかお願いします」
「はっはっは!図太いな!だが任せたまえ。僕の案内はとても評判が良いのだよ。ゆっきー君もきっと僕に涙を流して小躍りするほど感謝するだろうね」
「どっからそんな自信出んですかマジで……ふぅ……、わっかりました。ていうか今更ですけど部長呼びでいいんです?」
「是と答えよう!此処での言動、ダンジョン内外での振る舞い、これまでの生き様を鑑みてしっかりと導いてあげるとも!」
「げ」
殴る蹴りどころか殺意増し増しで嬉々として刃や魔法を振るった振る舞いしてごめんなさいでしたと謝罪した方がいいだろうか。【悪漢】は嫌だ、【悪漢】は嫌だ、【悪漢】は嫌だ……。
「はっはっは!下心のみの謝罪など不要さ!娘の癇癪を諭すのも親の役割だろ?」
「だから何なんですその父親ムーブ、蹴りますよ」
「コチラに連れて来たキミ達は皆、祖を辿れば血肉を分け与えた僕に行き着くからね。つまりボクの娘であり息子であるのさ。それはそうと躾の一環として反撃するがいいかね?」
「よくねーです。デコピン一発で消し飛びそうなんで遠慮願います。まぁ、殴り合えるくらいになれば殴りに来ますねセクハラジジイ殿」
「はっはっは!その時は歓迎しようやんちゃ娘。では、この扉の先を進みたまえ」
堕天使がおもむろにひとつ肯く仕草をした後に腕を一振り。
瀟洒な扉が静寂に現れた。
「部長とはお別れですか」
「ああ、僕は此処まで。仕事は山積み、同僚の手伝いから現世の記録調査にはじまり裁定まで、案内すべき魂も列を成して待っているのでな」
「はっはー!精々お勤め頑張ってくださいっ!」
「徒人の刑務作業とでも想像しているであろうキミの思い違いを正したい所だが……さっさと振り返らず歩みたまえ。神をお待たせするなど元来あってはならない」
はぁいと機嫌良く間延びした返事を返し、彼の横を通り過ぎて扉に手を掛ける。
「雪小路御良」
扉を開け放つ。言われた通りに振り返らない。
「感謝を。御蔭で我は此処へと至れた」
光の中に足を踏み入れる。
「どうか貴方の先行きに幸あらん事を、手向けの言葉を呈すなら」
背中に届く殊勝な言葉に応えて片手を上げ、拳を握り親指立てる。あいるびーばっく。
「よき闘争を」
拳を反転してサムズダウン。
このタイミングのセリフとして不穏過ぎるだろ。絶対いつか殴ってやっからな。
◇
神域。神々の御坐。その前庭が光の中から現れる。
其処は枯山水のような、どこか和を感じさせる場所だが、一定以上の距離から先は一面の銀世界。
遠くに見える高峰は、白を纏った雪山の峰々。
佇む此処は雪原の只中にぽっかりと造られた和風庭園内。
これだけであればどこか地球上の高原であるようだが、清冽に輝く白い滝が地面から上空へと逆向きに落ち続けている銀柱や、雪で出来た花々が所構わず咲き誇り、宙空を風も無いのに舞い踊る銀片が黄金の輝きを反射する様は幻想的である。
下方へ視線を移せば、辺りに敷かれている砂利もまた一粒一粒が宇宙を納めたような不思議な文様を湛え輝き、池に満ちるのは水などでは無く空と雲が満たされている。
何よりも上空に浮かぶ巨大な満月。
暁空の半分以上を占める黄金に輝く月の姿は正しく神秘に満ちている。
太陽のような瞳を灼く輝きでは無く、惹きつけて離さないような狂気を孕んだ月の黄金光。
常人が足を踏み入れていい場所とは到底思えない。
なんとも遠い処まで来てしまったようだ。
さて、ナニが出て来られるか。緊張感をもって雪の感触がする砂利の中に一歩足を踏み入れた。
――嗚呼、其の情は雪降る天月の吐息に揺蕩う迷い児なれば
脳髄が痺れるような声が頭の中に木霊した。
良かった。言葉が理解出来る程度に配慮されているらしい。
――先立つ隣人が並ぶる言の葉をぞ荒ぶる情の鎮めとし
涼やかでいて凛とした声。
不自然なまでに自身の心臓の音が落ち着き払い、自然と頭が垂れていく。
「――雪山之崩れに礫を打ちても、停留まら不」
手を拳に握り砂利に着け、片膝立てて頭を伏せる。
「是は、自然に流れ動くべきとす無心を顕すたとへ也――」
ふわりとした柔風が頬を撫でる。
そのまま掴まれるように顎が薫風によって持ち上げられた。
自然と視線は眼前へと向き、その大いなる存在を直視。
「じゃがしかし!稚魚はノーカンじゃ。ノーカン」
にんまりと笑う美なる女性を象った神は黄金月を背に現れ、そうのたまった。
「さてよお参った。小憎らしい翼の系譜よ。妾は天原蓬莱天壌より雪月を愛でる雅楽、霜風纏う桃香、黒緋の月刀、闘酔の夜天、多武峰にて星辰を読む銀翼、ヒトの子らは妾を月読と呼ぶ」
見知りたもれ、という言葉を心中に刻み、御身の形が魂に焼き付けられる感覚。
黒銀に輝く御髪は足先を超えて宇宙を湛える砂利に拡がるほど長く艶めき、その顔はひとつの美の究極形。輝く黄金瞳に見据えられればどんなモノでも陶然と見惚れるだろう。象られた女人の形は美を体現し、辺りを満たす桃の香りは私を呑み込むようで酔いそうだ。
意識が微睡みに沈みそうになった時、贈られた衣装に染み込んだ私の血臭、そして幽かな海風の臭いに、はっと気を取り直せた。
歯を強く食いしばり黒革グローブに包まれた拳を握り込む。
気を抜けばヤラレる。そんな確信をもって意識的に目蓋を閉ざし頭を垂れる。
「放流されて久しい稚魚がまさか空に踊り、子を連れ舞い戻るとはの。だが手法が拙い。羽の悪戯を児戯と片付けるには、妾は兎も角、他の神々の中には口を尖らしヘの字に曲げおる奴ばらもおるのじゃ。之を諫めるのは些か、のぉ」
わかるじゃろ、と頭を撫でられる感触に全身が緊張するのが分かる。
まるで巨大な仏像の掌が如き圧。
おそらく神々の勘気に触れるような事を部長が仕出かしたのだろう。マジふざけんなよあのふぁっきん堕天使め。
「くふっ、当たらずも遠からず。香しい血臭も爪立てる気骨も小気味好し。潮より天に泳ぐ其の形は清浄なだけの木偶よりよほど好い。妾、そおゆうのも大好物」
らいくよりもらぶ寄りじゃな!とカラコロと響く涼やかな声音。
血臭と言われ焦ったが、不興を買っているわけでは無いようで安堵をひとつ。
厳かな言葉の中に時折混じるフランクな言葉使いに戸惑うものの、神は多面性を持つとも聞くので懐も深いのだろう。
シャラリと簪飾りが奏でる音さえ麗しい。
「かの法境は時として此度のようなさぷらぃずを呼び込む故面白きものよの。悪戯な綻びからまろび出よった獣を歓迎する奴ばらなぞは邪神に相違無しじゃが。ああ、妾は旗幟鮮明に異なる故、安心たもれ」
妾はヒトの子に加護・恩寵を与える善良なる天神じゃからのぉ、とからからと上品に笑う声。
そんな言葉を受け賜わったわけだが、頭から全身に掛けて圧迫されてる現状が引き続いており、緊張で背筋がつりそうだ。
「くふっ、ヒトの子はほんに飽きぬ。掌中にて震えながらも見上げるその眼。嗚呼、愛い哉。愛い哉。奴ばら共にそなたの可愛気が塵ほどでもあればのぉ」
ほんに奴ばら共の意をまとめるのは大変じゃったのだぞ!ぷんぷんっとおどけてのたまう月詠様に対しひたすら平伏する。
「さりとて妾を奉ずる地のひとつ、天州に混じりて濁る是もまた一興。故に許そう。妾の下へ傅いたその灯に免じてな」
圧が引く。その動きに安堵と共に汗が流れ落ちる感触に今更気付いた。そんな事に意識を割くなど出来なかった緊張の糸も少しだけ緩み、肩から少しだけ力が抜けた。
そこへ差し込むように続く厳かな声に、背筋をピンと伸ばす。
「雪小路御良。その香、性、見目、歴、願、言、欲を鑑み、月読より『雪酔童子』の銘を授ける。かく在れかしと妾に示したもれ」
次は声も聞かせておくれの、と僅かに滲むお茶目さと共に薫風が頬を撫でていく。
そして、狂おしくも馥郁たる黄金光が天満月より降り注ぎ、私の意識もまたその光の奔流に――




