第四章 其のニ
教会に辿り着いた康介は、自分の目を疑った。
そこには、恐慌を撒き散らすグレーターデーモンが悠然と立っていた。
そして、詰所の兵士達が身動き一つせず倒れていた。遠目から、彼らが死んでいるのか、気を失っているだけなのかも分からない。
気づかれぬように物陰に身を潜めながら、康介はより詳しく窺う(うかがう)ために目を凝らした。
よく見れば、グレーターデーモンの足元には、月光に深紅の薔薇色の髪を晒したコロナが横たわっていた。身体を起こそうともがいている。
さらに、グレーターデーモンの目の前に片膝をついてうずくまっている女性がいた。エルシールだった。彼女は剣を杖代わりにして、立ち上がった。
二人の無事を見て、康介は一安心したが、状況は予断を許さないものには違いなかった。
「ほう。それだけのダメージを負っておきながら、まだ立ち上がるとは感心だ」
グレーターデーモンは、エルシールに鷹揚にいった。
「お生憎様、私はそれほど軟にはできていないわ。それに、私たちの鎧には対魔術の処置を施しているから、見た目ほどダメージは受けていないわよ」
「成る程。下等生物にしてはそれなりに智恵がまわるようだな。ならば、いっそう立ち上がらなければ、命だけは取り留めたものを」
「命を捨てる気なんて更々ないわよ」
「いつまで、その強気が保てるかな?」
グレーターデーモンの背中に、漆黒の大きな翼が生え始めた。翼を広げると、すぅっと地面からわずかに浮遊する。
エルシールは剣を再び握り締めると、グレーターデーモンに切り掛かった。袈裟切りに、突き、薙ぎ払い、と残力を振り絞り次々繰り出した。しかし、全てが虚しく空を切った。
地面から浮上したグレーターデーモンは、エルシールの激しい剣戟を容易く(たやすく)かわした。右に左に来る剣戟を正確に予測してかわす様は、さながら木刀を振り回す子供と相手をする剣の師範であった。しかし、決してエルシールが劣っているわけではない。エルシールが魔術によるダメージを受けていることと、グレーターデーモンの身体的能力が圧倒的な性能を秘めているより他ではなかった。
グレーターデーモンに弄ばれ、エルシールの顔に焦りの色が滲み始める。額に汗が伝わり、剣を握り締める手も力み始めた。埒が明かないと踏んだエルシールは、次の一撃に賭すことを決した。
エルシールは左から右へ一閃した後、半歩下がり、剣を両手で縦に構え直した。そしてすぐさま、グレーターデーモンの胸元に捨て身で飛び込み、自分の踏み込みを載せて強襲の一撃を放った。渾身の力を込めて肩から切り掛かる。
「はぁぁぁぁぁ!」
しかし、――
「なに!?」
エルシールの剣戟は、グレーターデーモンに、文字通り容易く受け止められてしまった。グレーターデーモンは、エルシールの剣を片手一つでつかんだのだ。
「残念だ。やはり、お前ら下等生物の力はその程度か」
エルシールの剣は、グレーターデーモンの大きな掌に阻まれて、ぴくりとも動かない。エルシールの力とグレーターデーモンの力は均衡していた。否、均衡を保つように、グレーターデーモンが手加減をしていた。じりじりと押されて行くエルシール。
グレーターデーモンは、エルシールの剣を少しずつ捻じ伏せる。エルシールが両手で握っているにもかかわらず、グレーターデーモンは片手ひとつで、顔先にあった切っ先を徐々に下へと向けていく。
「お遊びはココまでだ」
グレーターデーモンは、空いている手でエルシールの金髪を鷲掴み、自分の腹下へと手繰り寄せ、膝で彼女の鳩尾を蹴り上げた。
「うっ」
鈍い音ともに、エルシールの装着していた鎧にヒビが入り、ばらばらと一部が砕け落ちた。
グレーターデーモンは、エルシールの髪を掴んだまま、処女雪のような白い項が自分の口元に来るまで、彼女を引っ張り上げる。
「さて、どうしてくれよう?」
グレーターデーモンは、爛熟した柘榴よりも毒々しい赤色の先が二つに割れた舌を、エルシールの白くて艶やかな首筋から頬にかけて這わした。
グレーターデーモンは、康介に大きな背中を向けていた。グレーターデーモンにとって康介は死角になっている。康介は好機だと直感した。
「今だ」、と思った康介は、短剣を強く握り締めると、建物の陰から飛び出した。そして、グレーターデーモンの腰の当たりに、短剣をぐさりと深く突き刺した。手にぞぶりと伝わる感触。確実に仕留めたと思った。
しかし、――
「折角チャンスを与えてやったのに、それで終わりか?」
康介が顔を上げると、グレーターデーモンの冷たい視線があった。
突き刺した筈の短剣は、ずぶずぶと押し返されていく。グレーターデーモンのカラダは柔靭な鎧その物であった。彼の肉体に傷一つ負わすことは能わなかった。
グレーターデーモンはつまらなさそうにエルシールを放り出すと、康介に向き直った。
「バカ!早く逃げなさい!」
コロナの叱咤が飛ぶ。
しかし、康介は圧倒的な大きな壁の前に、足が竦んで(すくんで)動かなかった。
康介の首はグレーターデーモンの大きな掌でつかみ上げられた。首が折れんばかりの強さで握られ、声を出すことも息をすることさえも儘ならない。
グレーターデーモンは手を介して、康介の記憶を弄った。奥底に封じ込めようとしていた記憶を探り当て、グレーターデーモンはその蜜の味に口元に悦を浮かべた。
「成る程。お前はずっと蔑まされて来た訳か。私には痛いほど分かるぞ、お前の気持ちが。私ならばお前をその苦痛から解放してやることが出来んこともない」
康介の頭の中に、突如として記憶の奔流が逆流してきた。匿名掲示板に書き込まれていた、自分に対する数々の赤い文字の言葉の暴力。
グレーターデーモンはさらに続けた。
「腹の底では、お前を虐げてきた人々を殺してやりたいほど憎んでいるんだろう。ならば、私に祈れ。お前のその願いを容易く叶えてやろう」
その言葉は甘い毒薬の如く、一滴一滴が康介の心を侵していった。康介の眼前には、まざまざと学友たちの顔が甦った。
仮面の下から覗く表情は、いずれもが薄気味悪い笑みを湛えた同じ顔をしていた。皆が浮かべる、貼り附けたような一様な笑みに、康介は吐き気を覚えた。
康介は、自分の中に「漆黒のモノ」が流れてくるのを感じた。「漆黒のモノ」が徐々に自分を塗りつぶしていくのが分かった。しかし、毒薬に犯されそうになった康介は、負けまいと歯を喰いしばった。
そして、
「誰がお前なんかに祈るかよ!」
康介は有らんばかりに声を張り上げた。グレーターデーモンに咽喉元をつかまれ、声を潰されているにもかかわらずにだ。
「康介!?」
康介の必死の叫びに、コロナは瞠目した。この時、コロナは、康介の中であるものが開かれたのを感じ取った。
そして康介が叫んだのとほぼ同時に、
「待たせたな!」
怒涛の勢いで、崩れかかった塀から、引き絞られた矢の如く疾風の一陣が飛び抜けた。
「グレーターデーモン、その首もらった!」
かまいたちの影はジャックだった。




