第三章 其の六
轟音と共に、大気が震えた。窓枠が、かたかたと衝撃で揺れた。
ただ事ではないと思い、康介は咄嗟に窓へと駆け寄った。祈りを捧げていた子供たちも、何事かとばかりに顔を上げる。
窓越しに見える教会の方の空は赤々と明るみを帯びている。
「何だあれは?」
どす黒い血のような凶兆に塗り潰されている空に、康介はポツリと呟いた。
「火事ですかね……。一体何が起こっているのでしょうか……。皆無事でいればよいのですが」
不安そうに胸元で手を組みながら、クレスタは赤色の空をじっと見つめていた。
何ともいい知れぬ不吉さを覚え、康介は何もいえなかった。
カミーユも赤々と燃える空を眺めていたが、暫くすると眉をきゅっと引き締めて席に戻った。
「さあ、皆、席に戻って。エルシール姉さん達の無事を祈りましょう。私たちは、それぐらいしか出来ませんが、誰かの為に心から祈ることはとても大切なことです」
そろそろと皆が席に座ると、再び祈りが捧げられた。それは、エルシールの為に、サーニャ姉妹の為に、コロナの為に、『神隠し』に遭った人たち全ての為に、そしてそれを解決しようと奮闘している全ての人の為に。
康介も自分の席に腰を降ろすと、再び祈る。しかし、皆の無事を強く願うほど、不安に心は塗り潰されていった。網膜に焼きついた赤い空と不安は親しく手を結び、頭には不吉な影がつき纏った(まとった)。
康介は、脳裏に過ぎる黒い影を懸命に打ち消して、一心に皆の無事を願った。ちっぽけな自分には、これぐらいしか出来ないのだから。瞼を閉じ、無心に祈った。
その時だった。突如として、康介の瞼の裏には、一つの映像が確固たる色と輪郭を持って浮かび上がってきた。いや、それは浮かび上がってきたと云うよりは、その映像は網膜に流れ込んできたといった方が合致する。
映像の場所は教会であった。そこには二人居た。否、二人と形容すべきではなかった。一人は、情熱的な紅い色の髪のコロナであったが、もう一人はヒトと呼ぶのは正しくない。ソレは、頭上に見事に捻り込まれた一対の角を掲げた『黒い巨躯』。鋼を纏った(まとった)ような隆起した肉体で、ソレは中世の絵に出て来る悪魔を連想させた。
コロナは、深紅の薔薇色の長い髪を揺らし、一気に詰め寄る。右手に紅蓮の炎を纏わせ、『黒い巨躯』に叩き込んだ。
しかし、『黒い巨躯』は難なくそれを受け止めると、コロナの華奢な腕をつかみ取り、壁目掛けて投げつけた。叩きつけられたコロナは、壁を突き破り、外に放り出された。
片膝を支柱に立ち上がろうとするコロナに、『黒い巨躯』の攻撃は容赦なく襲い掛かった。
『黒い巨躯』が腕を突き出すと、身体が赤く発光した。まるで、魔力を生み出す装置のように、身体全体から陽炎のような蒸気が立ち上った。その瞬間、手の先から業火の如き灼熱の炎が繰り出された。
コロナは手を交差させ、防御の姿勢をとる。
灼熱の炎は、周囲を薙ぎ払い爆ぜた。
防ぎきれずに、地面にぐったりと伏せたコロナに、『黒い巨躯』はゆっくりと近づく。顔面を足で踏みつけ、『黒い巨躯』は小さな身体のコロナを蹂躙した。
映像は突如、砂嵐になって途絶えた。
康介は、映像が湧いて出てきたことに、そして、その映像の中身、すなわち『黒い巨躯』にコロナが蹂躙されていることに瞠目して、椅子を跳ね飛ばして腰を浮かせた。
「コロナ!」
康介の声に驚いて、祈っていた周りのカミーユたちが顔を上げる。
「どうかしましたか?」
我に返った康介と驚いたカミーユの視線が交差した。カミーユは不思議そうに首を傾げる。康介は皆を見回したが、皆同様の表情であった。康介は、恐らくアレを見たのは自分だけなのだろうと合点した。
「驚かしてゴメン。ちょっと、気分がすぐれないから、夜風に当たってくるよ」
心配そうにしてくれる皆に一言断り、康介は席を立った。
廊下を重い足取りで歩きながら、康介は先程見た映像について考えた。
どうして、アレが見えたのか?
アレは、カミーユたちには見えなかったのか?
そもそも、あれは本当に今起こっている出来事なのか?
もし、アレが本当にコロナの身に降りかかっているのだとしたら、一刻も早くエルシールたちに知らさねばならなかった。あの映像の中には、コロナと『黒い巨躯』しか居なかった筈だ。
康介は玄関を出ると、木々が燃え盛るように赤く色染め上げられた西空を見た。この場所から到底見える筈のない、教会が焼ける光景や逃げまとう人々が目に浮かぶようであった。
――まただ。また、自分はこんな所で何も出来ないのか?
康介は自分自身に毒づく。いつも何をやっても上手くいかなかった。『優等生』を演じることも、誰かと関わりを持つことも。だから、いつしか自分では何もやらなくなり、決心もやることも中途半端で、それでいて諦めることだけは一人前だった。
だけど、彼女、コロナはいつも立ち向かっていった。剣が折れてもジャックに、勝機が見いだせれないかもしれないのに『神隠し』に、そして残酷な運命な自分自身の現実に。
先程の映像が頭を離れず、不安が募る。コロナは『黒い巨躯』に蹂躙されていた。アレは、本物なのか?康介の内には確信めいたモノがあった。アレは幻なんかじゃない、紛れもなくホンモノだ。第六感が叫んでいた。
「気になりますか?」
声に振り返ると、カミーユが静かに立っていた。
「俺は皆の無事を信じている。だけれども、気にならないといえば嘘になる」
そう答えると、康介は口を引き結んだ。自分でも動揺を隠していることが分かった。
「康介さんには、わたしはどう見えますか?」
カミーユの質問の真意は掴み難かった。エルシールたちの安否を気遣っている筈のカミーユは、極めて落ち着きを払っているように思えた。康介は有りのままいった。
「落ち着いているように見える」
「でしょうね。だけど、本当は全然そうじゃないのです。全くの逆で、今にも走って行きそうなぐらいです」
サーニャとクレスタの件で、血相を変えたカミーユを一度見ているが、今静かに佇む様からはそのような気配を微塵も感じられなかった。しかし、きっとそれは本当のことなのだろう、と康介は思った。
「もし、私が今駆けて行ったら、下の子たちはより不安を感じるでしょう。だから、たとえ行きたくても、行けないのです。康介さんも同じです。康介さんが行ってしまわれると、子供たちは、いえ、私はとても不安になります。だから、どうか康介さんにはココで大人しくしていて欲しいのです」
「俺は……」
カミーユの青い真っ直ぐな瞳を見て、康介は口を閉ざした。
康介はコロナのことが心配であったが、自分に行かないように釘を刺したカミーユを見ているうちに、彼女の言葉に従うべきだと考えが傾き始めた。
――だけど、本当にそれでよいのだろうか?
確かに、コロナたちにも孤児院に残るように命じられたが、先程の映像がどうしても頭から離れないのも事実であった。コロナの身が案じられた。
しかし、自分が駆けつけても何かが出来る確証もなく、むしろコロナがいったように足手纏いになるだけかも知れなかった。それでも、康介には、コロナの危機的状況が自分に見えたことには、何かしらの意味があるように思われた。
康介の裡に二つの考えがせめぎあった。
――自分にはどうすることも出来ないだろうという諦観と、
――何が出来るかじゃなくて、何を求めて闘うかだという決心とが。
棒のように突っ立ち、真面目腐った表情で難しく考え込んでいる康介を見て、カミーユは堪え切れずに、くすくすと笑い出した。
「なーんてね。康介さんには残って欲しいのは山々ですが、行くか行かないかはご自身が決めることだと思います。康介さんは子供ではありませんから、私がどうこういえる立場じゃありません。口を挟む(はさむ)なんて、私ったら差し出がましいですよね」
一瞬遣る瀬の無い寂しそうな顔をしたかと思ったが、すぐにカミーユはいつものように表情を優しく緩めた。
「気になるから、様子を見てこようと思う」
カミーユの言葉に、康介の心は解れた。静かであったが、力強く答える。
「分かりました。ただ、これだけは約束してください。もし、身の危険を感じたら迷わず逃げて下さい。必ず帰ってきて下さい。あ、そうそう、まだ絵に関しても色々と教わりたいことがありますし」
茶目の内にも、カミーユは康介への注意を怠らない。それは、康介自身の変化に鋭敏に気がついて、意を汲み取ったカミーユなりの、ささやかであり、そして最大限の譲歩であった。
「うん、分かった。皆の無事を確認したら、すぐに戻ってくるよ。絵も描き上げる」
康介はきっぱりといい切る。
「約束です」
送り出すカミーユに、「じゃあ、行ってくる」と応えると、康介は背を向けて駆け出した。向う先はただ一つ。
街の中心に位置するリュックブルセルク大聖堂。
禍々しい血の色に焼かれた闇夜に、康介は身を投じた。
(第三章 了)




