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第二章 其の十二

 康介の脳裏で何かが警鐘を鳴らしていた。


 ――止めておけ。それ以上進めば、取り返しのつかないことになるぞ。


 最早、康介は半ば理生を失いかけていた。否、正確には、思考其のものを失いかけていた。彼は、一種の焦燥感と義務感から突き動かされていた。だからこそ、理性は、警鐘と云う形を以って叫び続けていた。


 康介が、『黒い影』が消失した角に来た時だ。不意に足が動かなくなった。否、動かしたくても、動かせないのだ。彼は立ち竦んだのだ。


 其処には、『黒い影』は存在していなかった。

 然し、其処には『ソレ』が存在していた。


 なだらかに続く上り坂に、『黒い獣』としか形容できない、大型の狼を二三回り大きくした、全身が黒く塗りつぶされた獣が低く唸っていた。鋸のような鋭い歯を剥き出して、康介を威嚇している。滴る唾液は、まるで強酸でも含まれているかのように、地面に垂れると白煙を上げていた。


 「何なんだよ、アレ……」

 おぞましいほどの敵意に、康介は思わず後退りした。

 康介は直感した。

 先程の『黒い影』とは異なり、目の前にいる『黒い獣』は殺意を凝集したモノだ。アレは、呼吸と同様に、全身から殺意を放っている。アレは、厳密な意味で生物とは呼べない。生物を殺すためだけに造られたイキモノだ。


 「康介さん……、ひゃっ」

 小さな悲鳴に、康介は振り返った。クレスタだった。

 「クレスタ、建物の陰に……」

 康介が云い終わらないうちに、ソレは一切の予備動作抜きで突貫してきた。ソレは正しく黒い稲妻。一度地面を蹴って大きく飛び上がると、大口を開けて肉を噛み切る為の尖った歯で齧り附こうと、康介に襲い掛かってきた。

 康介は反射的にソレを避けた。最早何も考えてはいない。初撃をかわす為に、受身も何も考えず、只真横に飛んだ。

 着地と同時に、蹴り飛ばされた石ころのように、ごろごろと転がった。頭を庇うべく、咄嗟に頭を抱きかかえた。視界が、世界が回転した。

 次撃を避けるべく、康介は立ち上がった。最早、其れは原初の防衛本能。頭の中で理解できたのは、理屈ではソレの攻撃に追いつけないコトだけだ。狼に襲われた鹿が、生き残る為に取る行動原理と同じだ。

 康介の勘は当たっていた。すぐさま、ソレが迫ってくる。

 ソレは低く重心を落とし、飛び掛ろうと構えた。


 ――其の時。

 「此れでも喰らえー」

 クレスタが、大きく振りかぶって、石を投げた。其の石は、少女が投げた物としては、見事な直線の軌跡を描き、『黒い獣』の背中に命中した。

 然し其れは何らダメージを負わせることは出来なかった。只、クレスタは『黒い獣』の怒りを買っただけだった。

 「グルルルゥゥゥゥ――」

 『黒い獣』は低く唸り、旋回して、次の目標をクレスタに定めた。

 「クレスタ、逃げろ!」

 「キャァァァァ――」


 康介の叫びも虚しく、『黒い獣』はクレスタを殺さんと宙を舞った――。


 クレスタの悲鳴が響き渡った――。


 康介は見ていられず、目を逸らした――。


 「キャン、キャン、キャン、キャン」

 次の瞬間、狗の鳴き声のような悲鳴が上がった。

 康介が恐る恐る目を開けると、其処には、

 ――地面に倒れ伏した『黒い獣』と、クレスタを護るようにして一人の男が立ちはだかっていた。

 ――其の男は、酒場でコロンと剣を交えた、ジャック=ロイスターであった。

 「雑魚が、粋がってるんじゃねぇ」

 ジャックは冷徹な眼差しで『黒い獣』を睨み附けた。

 『黒い獣』はのろのろと立ち上がると、威嚇しながら、ゆっくりとジャックを周回する。


 「下がっていろ、お前たち」

 ジャックは、康介たちにそう指示すると剣を抜いた。太陽は厚い雲に覆われて周囲が薄暗くなっていたにもかかわらず、剣先は月下に靡く白鳥のような美しい刀身を晒していた。

 構えるでもなく、ジャックは其の切っ先を悠然と下ろす。

 『黒い獣』は間合いを計るかの如く、ゆっくりと円弧を描いている。


 暫く沈黙が降りた。

 そして、頭角を突き出した雲の頂に紫電が走るや否や、『黒い獣』は全身の毛を逆立たせてジャック目掛けて一躍した。其れは見ている者に身震いさせるほどの覇気の塊だ。

 然し、一抹の躊躇いも見せせずに、ジャックは踏み込んでいた右足に重心を落とすと、一気に剣を振り上げ、『黒い獣』の首を刎ねた。

 胴から切断されたソレは宙を高く舞い上がり、頂点を迎えたソレは再び地上に落下する。

 ジャックが横に一閃し、落ちるソレを二分割にする。

 静なる裡に始まり、緊迫した動は急峻を駆け上がったかと思うと、再び静なる裡に落ちた。刹那の出来事であった。

 三分割されたソレは偽りの生命活動を停止し、ザラザラと音を立ててと崩れていく。


 「すごい……」

 康介は感嘆した。

 「……」

 ジャックは、風塵に帰する其れを鋭い眼光で只見下ろしていた。

 「あ、有難うございます」

 陰から出てきたクレスタがペコリと頭を下げ、康介も其れに倣った。

 「もしかしたら、魔術師が関与しているかも知れんな……」

 「?」

 ジャックはポツリと漏らす。そこに、

 「康介!クレスタ!」

 呼び声に振り返ると、コロナが坂道の下からやって来た。


 コロナは、ジャックが仕留めた土塊を認めると、敵意とでも云うべき不快感を露わにした。

 今までに見せたこともないほど、険しい表情。其れを一瞥すると今度は、「二人とも大丈夫?」と訊いてきた。

 「ジャックさんに危ないところを助けて貰ったんだ」

 康介が答えると、コロナはジャックに向き直り、奥歯にモノが詰まったようでありながら、「有難う。一応礼だけは云っとくわ」と云った。まだ、酒場での一件を根に持っているらしかった。


 「改めてお礼を云わせて下さい」

 康介がお辞儀をしようとすると、ジャックはつまらなそうに手を振った。

 「気にするな。このお譲ちゃんから少し頼まれただけだ。それに、俺自身、『神隠し』には興味があるんでね」

 康介が驚いてコロナを見ると、

 「酒場で暇そうにしていたから、事情を説明して手伝って貰ったの」

 コロンは肩を竦めた。剣の腕を見込んで頼んだのだろうが、コロナにとっては本望ではなかったのだろう。

 「じゃあな」

 ジャックは、手をひらひらさせながら立ち去った。


 見送ったあと、康介ははっと気が附いた。

 「コロナ!サーニャのことなんだけど」

 云いかけた途中で、コロナは大きく頷いた。

 「分かっているわ。攫われたのでしょう?私が此処に来たのも、特異な魔力を感じたからよ。アレは使い魔ね」

 眉根を寄せながら、既に形を失った土塊を見遣った。地面に撒かれた砂は、風でサラサラと運ばれていっている。

 康介には使い魔と云う言葉に馴染みがなかったが、大体の見当は附いた。黒い獣も黒い影も単なる尖兵に過ぎず、本当の黒幕は別に居るのだろう。

 しかし康介は、それ以上に、コロンの云ったことに引っ掛かりを覚えた。コロンは「特異な魔力を感じた」と今云わなかったか?魔力を感知して此処に来たならば、黒い影を追跡することが出来るのではないのか?


 「コロナ、ひょっとしてサーニャの居場所が分かる?」

 コロナは頭を振った。

 「無理ね。既に魔力の気配は消えているわ。一定の上級者にもなれば、魔力の気配を消せるのよ。相手もそれなりの手練のようね」

 淡い希望に違いなかったが、あっさりと否定されると康介も落胆の色を隠せなかった。


 歪んだ嗤いを浮かべた黒い影。思い出すだけでも、康介は身の毛が立ったが、サーニャの身を案じることの方が重要だ。手当たり次第にでも捜すべきかもしれなかったが、黒い獣との一戦で随分時間を浪費してしまい、今からだと到底見つけ出すことは困難だった。


 不図クレスタの言葉が思い出された。クレスタは、「サーニャが囮になるんです。そして、『神隠し』の正体を暴くのです」と云っていなかったか?どういう意味を含んでいたのか?

 康介が、クレスタの方を見ると、クレスタも何か云いたげに康介の方を見た。何処か落ち着きのない様子で、此方を覗っていた。まるで、話を切り出す機会を狙っているかのようであった。

 「クレスタ、ひょっとして君……」

 康介が聞こうとした時だった。


 頬を叩く冷たいモノがあった。雨だ。康介が見上げると、鉛色の空から糸のような細切れの雨が振り出した。

 「振り出してきちゃったか。雨の匂いはしていたんだけどね」

 コロナが独りごちる。深紅の薔薇色の髪をばさばさと揺らしながら、「う~ん、う~ん」と唸っている。どうすべきか迷っているようだった。

 今は霧雨だが、何時本降りになるとも限らない。それ以上に、エルシールさんに事の顛末を報告した方が好いのではないかと思った。

 康介が進言しようとすると、コロナが渋々しながら、

 「残念だけど捜索はひとまず打ち切りにして、孤児院に戻りましょう」

 、と先に云った。コロナはクレスタにも、「とりあえず一旦帰りましょう。詳しい話は其処で聞くわ」と云った。コロナは、努めて冷静を装いながら、言から棘を抜いている風体であった。

 「分かった」

 クレスタは小さくそれだけ呟いた。


 康介は、鉛色の空を見上げた。圧し掛かるように重く垂れ込む分厚い雨雲は、まるで康介たちの行く末を暗示しているようだった。

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