第二章 其の八
――不思議な感覚がした。
康介は、まるで自分が何もない暗い世界で宙に浮いているような心地がした。
喩えるならば、深い海の底から水面に向ってゆっくりと浮上して行くような感覚。
――不思議な力を感じた。
康介は、まるで自分が何もない暗い世界で透き通った光に包まれるような心地がした。
喩えるならば、深い海の底で煌く月光に照らし出されるような感覚。
――不思議な声を聞いた。
康介は、まるで自分が何もない暗い世界で大きなものに導かれるような心地がした。
喩えるならば、深い海の底から水面に向って魂を抜け出させてくれるような清澄な声。
康介は自分の名前が呼ばれた気がした。しかし、頭がぼんやりとしている所為か、其の言葉をはっきりと認識できない。寧ろ、自分の名前が呼ばれていることは解るのだが、言語化できないといった方が良いのかも知れない。其れは、直接頭の深いところに語りかけてくるように感ぜられた。
康介は、頷いた。
この声が聞こえるなら、其れを示して欲しいと云われたからだ。
声はさらに語りかけてくる。
声の主は悲しんでいるようだった。其れは、声の抑揚が嘆きと親和性を有していたからだ。
康介は、泣いているのですか、と問うた。
そうだ、と答える声。
何故か、と聞く康介。
リュックブルセルクに起こっている神隠しの所為だと云った。さらに続けて、貴方の力を貸して欲しいと云われた。
俺なんかが何か出来るのかと康介は自嘲した。
何が出来るかと云うのは他人が決めることではありません、貴方自身が決めることなのです、 結果は自ずから附いて来ます、と声は答えた。
康介の視界は暗転した。そもそも、康介は起きている自覚がないのだから、暗転した、と云う表現は少しばかりおかしい。只、暗転したとでも表現すべき漆黒に塗りつぶされたのだ。
其処は、仄暗い石造りの牢屋だった。
地下にあるのだろうか、窓一つ附いておらず、光は一切差し込んでいない。僅かにとうとうと燃える蝋燭の火が、広い部屋の唯一の明かりであった。
部屋の中央には、一人の少女が居た。顔は薄暗くてよく見えない。
少女は猿轡をされ、両手、両足には鉄球に繋がれた長い鎖が嵌められていた。彼女は何かを訴えようと身を捩るが、声は猿轡に殺され、只鎖がじゃらじゃらと鳴るだけであった。
瞳から一筋の涙が頬を伝わった。目を赤く腫らし、鎖の輪を嵌められている手足には赤く擦り切れた跡があった。
突如、ゆらりと影が躍った。‘其れ’は、少女の其れではない。壁際に、まるで闇に溶け込むようにして一人‘誰か’が立っている。影は、其の‘誰か’の‘其れ’であった。
‘誰か’は、小柄であった。顔は見えない。顔は見えている筈なのだが見えない。顔は漆黒に塗りつぶされている。闇より深い漆黒に。
‘誰か’は少女に近づいた。漆黒の影も滑るようにして続いた。
其処に奇妙な違和感を覚えた。
嗚呼、影だ!影が違う!!
影は、其の‘誰か’のモノではなかった。顔は漆黒に塗りつぶされているが、‘誰か’は紛れもない人間であった。然し、‘其の’影は明らかに人間のソレとは違った。
‘ソレ’は、‘誰か’よりも三回りは大きかった。頭に奇妙なオブジェがあった。角としか形容が出来ない何かだ。そして、闇の中で、二つの目が不気味に赤く浮かび上がっていた。禍々しいほどの邪気を孕んだ目。
蝋燭の灯を反射して、闇の中で鈍く何かが輝いた。‘誰か’が右手に持っていた鉈だ。鉈は血を啜って、どす黒く変色していた。
‘誰か’が、鉈を振り上げた。口元には、愉悦に満ちた歪んだ嗤いを浮かべた。
少女は身を捩り、声にならない声で必至に請願した。いや、其れは命乞いなどではなく、もっと別の何かを訴えているようだった。
‘ソレ’が嗤う。けたたましいほど鳴り響く声で。
そして、‘誰か’は鉈を振り下ろした……。
そこで映像はふつりと途切れた。
康介は、突然の映像に頭が混乱していた。
アレが神隠しの正体です、と再び声が頭の中に響いた。
康介は何も答えなかった。答えられる筈もなかった。
皆を、彼を救ってあげて下さい、貴方なら其れが出来るでしょう、と声は云った。
俺には何も出来ることなんてありません、と康介は答えた。
そんなことはありません、貴方になら出来る筈です、いえ、貴方だからこそ出来る筈です、どうかお願いです、貴方が少しばかり勇気を振り絞れば運命は変わるのです、声は康介の背中を押した。
眩しい光の粒子が滔々と流れて康介を包み込むと、康介という存在の深い裡の何かに優しく触れた。康介は、其の温かさにまるで魂が洗われ、目に見えぬ大きな力に自分自身と云う存在が掬い取られるような心地がした。
そこで視界は明転した。




