第二章 其の六
詰所から帰ったあと、康介はコロナからバベル研究所のことを訊かれたが、「エルシールさんとの約束もあるので、もう暫くは此処にいる積りだ。其れからのことは追々考えたいと思う」、とだけ返答しておいた。しかし、エルシールとの約束を持ち出したのは、本心を誤魔化すだけの単なる都合の好い云い訳に過ぎなかった。
康介には、自分の取るべき道が分からなかった。ベッドの上で天臥して、グレゴリオの魔術書を眺めながら考えた。
黒光りする魔術書は何も語ることはなかった。只、沈黙を守るばかりであった。すると、黒い魔術書は、恰も審判の天秤のように思われてきた。
――何を君は悩んでいるのだ?既に私はサイを君に投げ返した筈だ。しかも、公明正大にだ。これからの決定は、全て君自身の責任において為されるべきなんだ。
康介は、自分自身に対する詐術を以って、魔術書と睨みあうことに不毛さを見つけ出した。考えることに嫌気が差した康介は、バベル研究所に行く算段を調べることで、其れを放棄することにした。
バベル研究所へ行くにはどれくらいの日数が掛かるのかなどを、カミーユにそれとなく尋ねてみた。カミーユは、「最低でも百日ぐらい掛かるかしら」、と快く教えてくれた。カミーユが「バベル研究所に行く積りなんですか?」、と訊いてきたので、康介は、「コロナがそういう話を少ししていたから」、と適当にお茶を濁した。
グレイから聞いている筈のエルシールからは何も問われることはなかった。其れは康介の自主的な出方に最大限の配慮をしてくれた誠実さであった。このエルシールの誠実さと云うものは、年齢性別に関わり無く兄弟姉妹を須らく等しい者として接していたことからも窺知された。
--
其れから数日間は、大きな出来事はなかった。
家に居ることの多かった康介は、消極的ながら孤児院の子供たちと交流して親睦を深めた。
「一緒に遊ぼうよ」、と子供たちに急かされ、当初、康介は見よう見真似に子供たちの遊びに附き合った。しかし、不器用であった康介は、子供たちにすぐさま飽きられるようになった。
隠れん坊で隠れれば五分とたたずに見つかり、鬼ごっこで鬼をすれば顎が上がり足が縺れる様であった(勿論子供たちに地の利があったり、大所帯であると云うこともある)。落ち込む康介を見て、子供たちが気を利かして、「康介お兄ちゃんは何か得意なことある?」、と訊いて来た。
康介には、子供の頃から続けていたことがあった。其れは絵を描くことであった。人物画から風景画まで、康介のレパートリーは多岐に渡っていた。
まだ明るい世界の下に庇護されていた物心附く時分、康介は兄と共に両親に連れ立たれ琵琶湖へ旅行に行ったことがあった。
「みて、みて、すごい!」
鈍行列車に揺られながら見る琵琶湖は、大海のように康介の眼前に無限の広さで横たわり、地平線の彼方にすら対岸は見えなかった。
無邪気にはしゃぐ康介を見て、兄は、「此れは実は湖じゃなくて、海なんだぜ。莫迦な奴を騙すために、大人が嘘を吐いているんだ」、とからかった。戯言を真に受け止めるほど純真だった康介は、其れが嘘だと後日分かったときに、兄と大喧嘩した。
一悶着はさておき、康介は其の時に見た光景に心を打たれて、親にねだってスケッチブックと色鉛筆を買って貰い、記念写真を眺めながら、琵琶湖を自分が納得するまで何枚も描いた。
それ以来、康介はことある度に、有象無象をスケッチブックに収めるようになった。そして、知らず知らずの内に、絵が上達していった。
引き籠ってからも、気晴らしに絵を描くことは続けていた。ネットの中でディスプレイ越しに、康介は様々な風景や人物と無言で対話した。描く時間だけはごまんと持ち余していた康介は、存分に描くことができた。描きたいときに描き、飽きたら描くのをやめた。
康介にとって描くことは、自分が最も信頼を置いている自己表現手段であり、唯一無二の自己を曝け出すことができる事象であった。描くというコトは世界のカタチを、、原初の本能に従い、自分の心の中にある白い無地のキャンパスに写し取ることであった。云わば、世界の美しいことも、楽しいことも、悲しいことも、、辛いことも、あらゆる事象を自己の心で噛み砕いて筆で翻訳することに外ならなかった。
だから、康介は絵を描くときだけは、生まれたままの自然な姿になれた。
しかし、自分の絵が他人に認められる自信がなかった康介は、子供たちに問われた時に答えるべきか迷った。けれども、子供たちが興味深々に見上げてくるのを見て、「スケッチブックと鉛筆を用意してくれるかな」と応えた。
カミーユが自室から取って来て康介に渡した。受け取ると、康介は隠しながら(此れは少々照れている)、ものの十分ほどでカミーユを描き上げた。彼女の特徴を良く捉えた絵で、被写体であるカミーユ自身も、康介の絵に驚いた。
「本当に私そっくりですね」
カミーユは手放しで褒めた。
子どもたちは、「私も描いて」、「私にも絵の描き方を教えて」、と康介を囲んだ。
かくして、康介の美術教室が開かれた。康介は、子供たち全員の似顔絵を描くとともに、簡単な絵の描き方を教授した。好奇心に打ち勝てないメイなどは、「早く見せて」、と康介の絵をせがむほどの盛況ぶりを見せた。
此のように、暫くの間はセレスタ家は安泰に包まれて大事は起こることがなかった。
--
しかし、其れは、詰所を訪ねてから一週間ばかり経った日に起こった。
其の日は、朝から慌しかった。皆が落ち着いていなかったが、とりわけ末っ子のメイなどは、朝からそわそわしぱなっしであった。
朝食の前に、康介とコロナ、そしてカミーユは、エルシールに呼ばれた。
其の日は祝日であったが、エルシールは外せない所用があると云うことで詰所に行かねばならず、彼女の朝の身支度は平日と何ら変わるところがなかった。
「三人を呼んだのは外でもないのだけれども、今日のミサのことでお願いがあるの」
エルシールはパンを一枚咥えながら云った。
リュックブルセルクでは、街の中央に位置するリュックブルセルク大聖堂にて、月に一度ミサが執り行われることになっていた。
「貴方たちには悪いけれども、皆で行って貰えないかしら」
昨日のカミーユの話では、定期ミサの日は、広場に駄菓子や玩具などの露天商が立ち並び祭り宛ら賑やうらしい。子供たちが朝から落ち着きがないのは、其の所為であった。
「具体的には何をすれば好いのかしら?」
コロナが尋ねた。
「何って程でもないわ。皆と教会に行って、其のあと、子供たちを広場で遊ばして欲しいの。詳しいことはカミーユが知っているわ。普段なら私も行くのだけどね」
「目の届く範囲で下の子たちを遊ばせれば良いのです。ただし、メイとか勝手に何処かに行ってしまいがちなので注意が必要です」
カミーユの説明に、成る程、其れは大変そうだと康介は頷いた。
「お姉ちゃん……」
其処に、萎れた顔でクレスタが入ってきた。
「サーニャが熱を出してしまったみたいで、今日のミサに行けそうにもないんだ」
クレスタが切り出した話に、うーんと考え込むエルシール。
「じゃあ、私とクレスタが残ります。折角の機会ですから、コロナさんと康介さんにミサに行ってきてください。一見の価値はあります。あと、子供達の面倒をお願いします」
カミーユが提案した。
確かに、リュックブルセルク大聖堂には、カミーユの案内で二日前に一度足を運んでおり、道順は頭に入っていた。しかし、子供たちの世話が出来るものかどうか。
「好いわ。そうしましょう」
康介の心配を余所に、コロナは速決した。「愚図愚図考えていても始まらない。勧めてくれているのだから、此処は素直にカミーユに従いましょう」、と云うのがコロンの弁であった。
康介は心配したが、コロナは「何とかなるでしょう」、と云った。
「じゃあ、決まりね。コロナちゃんと康介君には子供達の面倒をお願いするわ。カミーユにはサーニャの看病をお願いするわ。クレスタ、貴方はコロナちゃんたちと一緒に行って頂戴。サーニャの看病はカミーユだけで大丈夫でしょう」
「わ、わたしも残るわ。サーニャのことが心配だから」
クレスタは、少し慌てた様子で答えた。
「あら、そう?分かったわ。じゃあクレスタ、カミーユの云うことを良く聞くのよ」
エルシールは、「じゃあ宜しく」、と云い残すと、ミルクを飲み干して慌しく出て行った。
かくして、カミーユとクレスタはサーニャの看病に当たり、康介とコロナは子供たちと一緒にミサに行くことになった。




