第二章 其の五
詰所の入り口で康介たちを出迎えてくれたのは、銀にも似た灰色の髪に琥珀色の瞳を有つ、二十台半ばと思しき精悍な青年であった。
「やあ、君が康介君かい?」
青年は、康介とコロナを見比べると、康介の方に向き直った。
「ええ、そうです」
康介は認めながらも、名前を知っている青年に首を傾げる。少なくても初対面の筈だ。
「警戒しなくても好いよ。僕の名前は、グレイ=カルタット。此処の副隊長をやっている者だ。エルシール隊長から、君たちのことは聞いているからね」
そう云って、康介たちの緊張を解そうと握手を求めてきた。
差し出された手に、先ずコロナが、其れを倣って康介が続いて手を交えた。
「エルシールさんはどうなされたんですか?」
エルシールが出迎えてくれるものばかりと思っていたコロナは尋ねた。
「エルシール隊長は、『神隠し』の捜査の関係で居ないんだ」
『神隠し』と云う言葉に、コロナと康介は顔を曇らせた。
「そんなに、暗い顔しないくれよ。別に君たちの責任じゃないんだから。それに、エルシール隊長は剣には長けているが、魔術のことならば僕の方が適任だしね。尤も、康介君の相談に乗るのは僕じゃないけどね」
グレイは補足を附け加えながら歩き出した。
康介たちは扉を開け広げになっている部屋の前を幾つか通り過ぎると、地下へ伸びた階段を降りた。途中で慌しく駆け抜ける職員らしき人とも擦れ違い、部屋を覗くと檻に入れられた熊のように落ち着きもなく歩き回っている人を見た。随分と何かに追われている風だった。
康介がきょろきょろしていことに気が附いたコロナは、「見っともないわよ」、と脇腹を小突いた。「痛いよ」、と康介は文句を垂れた。
「まあ、まあ、二人とも止しなさい。康介君には色々と珍しいのでしょ?」
「ええ、まあ」、と答える康介。
「此処に入隊したての頃は、僕も先輩方の働き振りを見て随分と驚かされたよ。右も左も分からなかったからね。この歳になって、当時の先輩達と肩を並べるようになると、若い頃には見えなかったことも色々と見えてくるようになったけどね」
康介は、「そういうものなんですか?」、と応えた。
「そう、そう。君も後十年ぐらいしたら分かるようになるよ。案外、時間が分からないことを教えてくれることはあるからね」
しかし、康介にはそのようには思えなかった。
階段を降りきると、天井から薄暗い灯が落ちているだけであった。人の気配はなかった。随分と埃っぽいところだなと康介は思った。
「尤も最近の多忙ぶりは尋常じゃないけどね。其れは『神隠し』の所為だね」
乾いた靴音が無人の廊下に響いた。『神隠し』と云う言葉と無人の暗い廊下は互いに手を結び合い、康介の心に虚ろに跳ね返った。
三人が行き着いた先は、暗くて長い廊下とは結び附かない、こじんまりとした、みすぼらしい木製の扉を備え付けた一室であった。
扉を叩きながら、「おやっさん、おやっさん、連れて来ましたよ」、とグレイは云った。返事を待たないまま、グレイは扉を潜った。
部屋は背の高い本棚で埋め尽くされていた。壁一面は勿論のこと、本棚は何列にも渡って等間隔に聳え立っていた。本棚には、革の背表紙で誂えられた厚い本もあれば、紐で括られただけの剥き出しの紙束などが、雑多に詰め込まれていた。
「凄い量ですね」
コロナは感嘆した。
「此処は所謂資料室だよ。本の類だけでなく、この街で昔起きた事件の記録なども保管されている。詰所の地下には似たような部屋があと三つほどあるんだよ」
「へえ」、と感心したコロナは本棚を見上げた。
一見本は無造作に放り込まれているようだが、グレイが云う通り、本棚には区分を示す符が附けられており、本棚の設置順といい、本の並列順といい、程好い按配のようだ。
「お~い、こっちだ」
本棚の奥まった処から声がした。
奥の少し開けたスペースの机には、顎に野太い髭を蓄えた男が齧りついていた。
「其処にいましたか、おやっさん」、とグレイは髭の男に声を掛けた。
「最近の若い者は、年寄りを扱き使って全く成っていないわ」
髭の男は本から顔を上げた。
頭髪は所々白く色が抜け落ちて、鷲鼻の頭には丸眼鏡がちょこんと据わっている。呼び名と面から察するに五十近くだろうが、丸眼鏡の奥の目には歳を感じさせない若い活力を宿し、若者のような逞しさが言葉の端々にはあった。
「成る程、お前さんが康介とやらか」
そう云って、おやっさんは腰を上げると、康介の周りを値踏みするように円を描いたあと、
「よう来た。まあ、楽にせい」
とコロナの背中をばしばしと叩いて、椅子を引いてやった。
「あの、康介は俺なんですが……」
康介が恐る恐る云うと、
「そんなことは分かっておる。わしは若い娘の方がいいから、こうやってスキンシップを図っておるのじゃろうが。今の若い者はそんなことも分からんのか。悪いのは、お前さんの目か、それとも頭か?」
おやっさんは野太く笑った。
康介は呆気に取られ、コロナは背中から腰の方へと撫で回していくおやっさんを三白眼で睨んだ。
おやっさんは、「おおこわ」、と隙間に逃げ込む蛇のように手を引っ込めた。
「二人とも気にしないで。おやっさんは昔からこういう性格だから。昔はエルシール隊長もかなり手を焼いていたから」
グレイが康介たちに耳打ちする。
「うん、うん。エルシールも昔は好かった。じゃが、今ではちと適齢外かのう」
「そんなこと云っていますと、エルシール隊長に殺されますよ」、と苦笑するグレイ。
「違いない」、と膝を打ち、咽喉仏を見せながら野太く笑うおやっさん。
一頻り笑い終わると、おやっさんは目つきを鋭くしながら、
「さて、康介とやら、話を聞こうじゃないか」
と声を低く鳴らした。
眼光の輝きが変わりようを見て取って、康介は唾を嚥下した。眼前のおやっさんが魂ごとそっくり入れ替わったかの如く別人のように感じた。自分でも、この人の雰囲気に呑まれていることが分かった。
康介は、カミーユに貸して貰った布袋から、事の発端となった件の魔術書を取り出した。
康介たちの眼前に顕になった魔術書は、嵐の訪れる前の静けさのように、不気味なほど沈黙していた。机の上のぼんやりとした灯火に投じられた本は、新月の晩の闇夜に、静かに、其れでいて確固たる底知れぬ力強い意思を有って浮かび上がる池の水面のように、得体の知れぬ奈落を湛えて鈍い黒色を放っていた。ごわごわとした表紙を触ると、脳髄を抉るような、ぞぶりとする感触が伝わってきた。
康介は、「この本を……」、と説明しようとすると、おやっさんは黙ったまま制した。聞くよりも、実際に自分で確かめた方が早いと云わんばかりであった。
魔術書を受け取ると、おやっさんは、ぶつぶつと念仏のような独り言を呟きながら、表紙、背表紙、裏表紙を丹念に検めて、続いて頁をバラバラと繰ってざっくりと目を走らせた。それから、おやっさんは悠然と腕を組みながら低く唸り、一固体の彫像のように暫し瞑想に耽た。
四人の間には数刻の沈黙があった。
康介は、沈思に耽るおやっさんを静かに見守りながらも、思考は目の前の三人から全く離れた。極力考えないように注意を払うにもかかわらず、思考は自然と暗い世界に寄り添った。
胸中で、暗い世界が光を包み隠す仄暗い煌きを輝かせながら、不思議な力を以ってして、海中に漂う微生物のように康介を不安の深海に浮動させるのであった。沈黙を前にしてしまうと、胸裏に刻まれていた暗い世界が康介を掴まえようとする。
「康介?」
コロナの声に
「どうした?」
「どうしたじゃないでしょ。ぼーっとしちゃて」
康介が視線を上げると、三人の視線が康介に集まっていた。康介の心が憂き世に留まっている間に、おやっさんは一つの結論に達したようであった。
「う、うん、何でもない」、と康介は今しがたの考えを胸奥に畳み込んだ。
「結論から云うと、この魔術書は死んどる」
「死んでいる?」
グレイは反芻した。
おやっさんは頷きながら、「是を見よ」、と本棚から黒い背革に金文字で彩られた一冊の本を取り出して、三人の前にある頁を広げて見せた。
其処には、康介が拾った魔術書と酷似した本の図が掲載されていた。おやっさんが解説を読み上げる。
「是はグレゴリオの魔術書といってな、魔術師グレゴリオ=アナーキが残した魔術書だ。グレゴリオは様々な魔術に精通していたと云われておるが、とりわけ時空魔術において名高い」
「確かにグレゴリオと云えば、時空魔術の理論体系を組み上げた魔術師として誉れ高いです。しかし、実際に時空魔術を使える魔術師なんて一握りですよ」
グレイが相槌を打つ。
「うむ。確かに時空魔術を使える魔術師なんて数が限られておる。しかし、グレゴリオの残した業績の中で最も特筆すべきことは、一定の資質さえあれば時空間を跳躍を可能にすることが出来る魔術書を作ったことだろう」
「其れがグレゴリオの魔術書?」
コロナが訊ねると、おやっさんは首肯した。
「其の通りじゃ。生前、グレゴリオは其の魔術書を三冊だけ書いたと云われておる」
おやっさんは、グレゴリオの魔術書の頁を流しながら再び感嘆する。
「わしも現物を見るのは初めてじゃが、是は正に圧倒的な魔力を濃厚に固めた、魔術の塊と云っても過言ではない代物だ。魔術書に書かれた一文字一文字に膨大な魔力が込められておる。流石魔術の申し子と呼ばれたグレゴリオだけのことはある。しかし、重要な所が欠けておる」
そう云って、おやっさんは背表紙を康介の前に開いて見せた。
「此処に、蛇が描かれておるじゃろ」
背表紙には、斑模様の細長い紐のような体の両端に二つの蛇頭を持ち、一対の頭は首から上が互いに絡まって体全体で円を描いている、奇妙な蛇の図柄が彫られていた。見ているだけで、背筋をぞぶりと嬲られるような気味の悪い感覚が伝わってきた。
「魔術とは、世界に働きかける奇蹟だ。この本には、世界に働きかける為の魔術が文章として書かれており、其の効果を最大限に引き出す為の触媒が蛇の模様として施されている」
「成る程ね、通りで見ているだけで気持ち悪くなるわけね」
コロナが此れで納得したとばかり大きく頷いた。
「しかし、重要な部分が欠落しておる」
「重要な部分とは?」
身を乗り出すグレイに、おやっさんは蛇の目の部分を指差した。睨み合う一対の蛇の二つの目は少しばかり擂鉢状に窪んでいた。
「宝石じゃ。図柄は魔方陣の役割を果たしてるが、さらに術の効果を高めるために蛇の目には宝石は嵌め込まれていた筈じゃ。しかし、其の宝石が取れている。康介、何か心当たりはないか?」
急に話を振られて、黙って聞いていた康介は戸惑った。少なくても思いつく節は無かった。注がれる三人の視線に、答えられない自分が悪い心地すらした。
「いえ、……、思い当たる節はありません……」
コロナとグレが残念そうに溜息を吐いた。おやっさんが継ぐ。
「わしに云えることは此処までじゃ。はっきり云って、この魔術書はわしの手には余る代物じゃ。宝石が失われているとすればなおさらじゃ。代用の宝石で済ますという手もあるにはあるが、わしには一級品の宝石、其れこそ魔石を用意することなど出来ぬことじゃ」
「そうですか……」
康介は、静かに応えた。其れは、帰る手掛かりが得られなかった落胆から来るものではなく、元より帰ることの意味を半ば見出せなくなっていることから来るものだった。
しかし、俯いた康介を見て、コロナは康介が落ち込んでいるものだと思った。
「何か方法はないのですか?」
「方法か。うーん……」
食い下がるコロナに、おやっさんは低く唸った。暫くして、
「無くはない。先に述べたように、この魔術書は相当有名な代物、とりわけ学者先生の間ではじゃ。お前さん、魔術の聖地、バベル研究所を知っているか?」
「名前だけなら聞いたことはあるわ。海を渡ったユートラル大陸にあると聞いているわ」
「世界中から優れた魔術師が集まる研究所だ。其処には、グレゴリオの魔術書も保存されている筈だ。其ればかりか、魔術書を用いずとも時空魔術を使える魔術師がいるやも知れん。何らかの手掛かりかは勿論、若しかしたら元の世界にかえれるやも知れん」
「バベル研究所……」
コロナは小さく反芻した。
「何か他に質問はないか?」、とおやっさんが問うた。康介とコロンは、「いえ、もうありません」、と答えた。そして、世話になったことを丁寧に謝して、三人は資料室を辞した。
三人は暗がりの地下から、明るい光で溢れる地上へと戻った。
詰所の門前の別れ際に、グレイは申し訳なさそうにコロナたちに云った。
「今日は折角来てもらったのに、大した力になれなくて悪いね」
「いいえ、グレイさんたちには随分好くしてもらっています。其れに、手掛かりが全く得られなかった訳じゃありませんし。本当に今日は有難うございます」
「そう云ってもらうと、此方も救われた気分になるよ」
グレイはそう云って笑った。
「それにしても、おやっさんて随分特徴的な人ですね」、と云いながら、コロナは野太い髭を蓄えた初老の兆しが見え始めたおやっさんのことを思い浮かべた。おやっさんの迸る若々しさを一目見れば、彼はまだまだ現役で活躍できるように思えてならない。
「まあ、おやっさんは見たまんまの人だからね。でもああ見えて、おやっさんはデスクワーク派なんだよ」
「ええ、そうなんですか!?」
「そうだよ。剣術や魔術も一応使えるけれども、実戦には出たこと余り無い筈だね。ただし、知識も豊富だし、何よりも裏表の無い人柄だから皆に慕われている。そこが、おやっさんの魅力だね」
目を丸くして驚くコロナを見て、グレイは一段と大きく笑った。
それから、コロナたちはグレイと別れを告げた。
深々と頭を下げるコロナたちに、グレイは笑顔を絶やさず手を振りながら見送ってくれた。
孤児院に帰る途中、コロナは眉間を寄せて深刻な表情を刻んでいた。
「どうかしたのか、コロナ?」
「バベル研究所か……」
帰り際にコロナは再び其の言葉をポツリと呟いた。




