第二章 其の三
「康介、康介、大丈夫?」
康介は、誰かに体を揺すり起こされた。
「あ……」
心配そうにコロナが澄んだ金色の瞳で覗きこんでいた。
「良かった、気が附いて。随分魘されていたみたいだけど、大丈夫?」
「う、うん」
バツが悪そうに、康介は頷いた。
嫌な夢を見た、と康介は思った。
学校であった出来事、そして其れに続く一連の事柄や其れに関わる掲示板の書き込みは、康介が打ち捨ててきた過去であった。あの日以来、康介に対する嫌がらせは、増加の一途を辿り、陰湿さを極めていった。そして其れに呼応するように、掲示板に書き込まれる暴言も悪意の塊と化していった。次第にエスカレートする嫌がらせを目の当たりにして、康介にはクラスの学友、否、人間の仮面を被った者全てが口裏を合わせているように思われた。
康介の足は、自然と学校と云うものから離れていった。家族に、初めは体調不良を訴えていたが、次第に装うまでもなく、康介は本当に体を崩すようになった。ある朝、康介は玄関で眩暈を起こして気を失った。其れは、極度に神経を摩滅させた結果であった。
それ以来、康介は学校に行かなくなった。そして、件の出来事は、康介にとって閉じ込めたい過去であった。しかし、忘れようとすればするほど、却って捨ててきた世界は暗い手を伸ばし、康介を苦しめるのであった。暗い部屋に閉じ篭っていると、時には記憶が薄れていくように感ぜられたが、霧のように薄くなる度に自分の存在意義と虚飾の人生について自問しなければならず、其の都度今度は自己弁護の為に暗い世界を持ち出さなければならなかった。そして、暗い世界は康介の脆弱な精神を益々蝕むのであった。
康介は、自分の繊細で脆弱な精神と、其れに照応する軟弱な肉体しか有ち合わせていないことを常に悲しんだ。とは云え、其れを撥ね附けるだけの何事にも動じない強靭な精神を有つとは、康介にはきわめて難しいことのように思えた。
「ね、本当に大丈夫?」
沈んだ康介を見て、コロナは再び尋ねた。体を強張らせて、口をきゅっと結んで受ける康介は、コロナの目に余るものであった。
康介は、「大丈夫、ちょっと嫌な夢を見ただけだ」、と答えた。
其れは明らかな嘘であった。康介自身も、そしてコロナにも、其れは嘘であることは自明であった。其の言葉を以って、これ以上の追及を避けたいだけの、康介の云い訳に過ぎなかった。
「そう、分かったわ。じゃあ、私からは何も聞かないわ」
それ以上は、コロナは何も問わなかった。黙ったまま、康介から離れた。表情からは、コロナが納得したのか判然としなかった。少なくても、得心はしていないように思われた。
一種の後ろめたさに、康介は胸を締め付けられる思いをした。自分の発したコロナを突き放した物云いに一抹の罪悪感を覚えた。
しかし、コロナに大して気にしている素振りは無かった。
「わたし、カミーユの部屋で着替えてくるわ。寝具も返さないといけないしね」
、と云い残して、コロナは部屋を去ろうとする。
「コロナ!」
「ん?」
康介はコロナを思わず呼び止めた。
コロナは、窓から差し込む朝日を浴びた薔薇色の髪を靡かせながら振り向いた。
呼び止めながらも、言葉が絡まり、康介は何と云っていいのか上手く云い表せなかった。もどかしさが胸中に浮かび上がり、「ゴメン、何でもない」、と謝るような一言は尻すぼみに消えた。「じゃあ、又後で」、とコロナは細い笑みを残して部屋を去っていった。
部屋に一人残された康介は、拳をぎゅっと堅く握り締めた。




