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第二章 其のニ

 其れは、入学式から一ヶ月ばかり経った日であった。


 一ヶ月もすれば、生徒は新たな学校生活に馴染み始め、性格の似た物同士が寄り集まって、幾つかのグループが出来上がる頃でもある。しかし、生来の吃り的性格から、康介は未だに人の輪に入ることが出来なかった。無論、話しかけられれば、それなりに適当な返事を応えてはいたが。


 ある日、康介が学校から帰宅すると、鞄の中に見慣れぬ紙切れが紛れ込んでいることに気が附いた。其処には、『To 藤宮 http://www.nanjyou……』と、自分の名前と何処かのURLが書かれているのみだった。

 康介は眉を顰めた。康介はURLに覚えはなく、又誰かに其のHPを紹介して貰ってもいなかった。誰が、何の目的で、鞄の中に忍ばしていたのか、康介には見当もつかなかった。

 康介は、パソコンを立ち上げ、ブラウザを起動させると、紙切れに書かれたURLを打ち込んでいった。Enterを押すと、すぐさま簡単なページが顕れた。


 墨で塗りつぶされたような完全な暗色背景に、毒々しい赤色で文字が切り抜かれていた。只其処には、一番最上段に大きく『裏南條』と書かれ、その下に『1―A』、『1―B』、……、と全ての学年とクラスが並んでいるだけであった。そして、各クラスが書かれた処からは、別のページにリンクが張られていた。

 此処に来て、康介は、虫の予感とでも云うべき、嫌な予感がした。其の感覚は、入学式のとき、隣の男子生徒と視線を交えたときに感じた其れと同種であった。康介は、恐る恐る、自分のクラスである『1―D』にカソールを重ねた。マウスを握る手が震えた。

 ――嫌な感じがした。

 ――見ないほうが好いと思った。

 ――きっと見てしまうと後悔する。

 頭の片隅で第六感とも呼べるモノが警鐘を鳴らしていた。


 そして、康介は『1―D』を左クリックした。

 ページが読み込まれるまで固唾を呑んで待つ。ページが切り替わるまでの僅かな時間が、まるで永久のように感ぜられた。


 そして、其のページは康介の目の前に顕になった。

 其れは、初めのページと同様に背景が完全な暗闇色のページだった。しかし、其れは所謂匿名掲示板であった。見る者を抉るような赤色の文字で、見るに耐えない馬事暴言が延々と書き連なれていた。

 「名無しの1―Dさん:ID:321HJI45 康介てヤツ本当にムカつく」

 「名無しの1―Dさん:ID:ED85WA41 いつもスマシてんな。まじであれ見ていると吐き気がする」

 「名無しの1―Dさん:ID:ASKI39XL KWSK」

 「名無しの1―Dさん:ID:I896RPBA 一番の余裕ってヤツ?」

 「名無しの1―Dさん:ID:P8G563WA オレ、この前せっかく声かけてやったのに、ああ、とか抜けた返事するだけでシカトするんだぜ」

 「名無しの1―Dさん:ID:RT56ZPQ7 康介は逝ってヨシ」

 「名無しの1―Dさん:ID:ASP1AQ23 よし、今度から皆でムシしようぜ」

 「名無しの1―Dさん:ID:21QHG5F3 キター」

 「名無しの1―Dさん:ID:AQPHGTFC OK。リョーカイ」

 「名無しの1―Dさん:ID:SP2385AD WKTK」


 康介の背筋に悪寒が走った。

 ――何なんだよ、是は?一体何だと云うんだ?

 康介はページをスクロールさせながら、掲示板に書かれている内容を突き刺して読んだ。其処には、康介に対する呪詛が記されていた。

 康介は混乱した。どうして、このような謂われなき中傷を浴びせられなければならないのか、全く理解できなかった。少なくても、康介自身は他人に対して何か暴言を吐いた覚えはなかった。少なくても、積極的に他人に何かを働きかけた覚えもなかった。

 康介にとって、是は余りにも残酷な仕打ちだった。是は余りにも非道な云い掛かりだった。


 只康介には、先ず呆然とする感情が波押し寄せ、後から悲しみと云う感情が衝いた。

 康介は、ブラウザも終了させることも能わず、泣け崩しに顔面を覆った。理由もなく、ぼろぼろと涙が零れた。是ほどまでに、自分の感情が高まったの始めてだった。そして、是ほど自分の感情が昂ることを驚きを以って知った。


 ――どうして、自分は今泣いているんだろう。

 今まで、ずっと心の奥底で自分は一人ぎりだと感じていた。喩え、学友から奇麗事を露天商の宝石のように並べられても、教師から激励の言葉を其れに値する俊才のように頂いても、両親から褒め言葉を活花の評定会のように貰っても、康介は今まで其れらに何ら感想を抱くことはなかった。

 齟齬とも冤罪とも云える罪なき罪を突き附けられ、初めて康介は自分が生きることに臆病で不器用な人間なんだと強く感じた。心の奥底では分かっていた筈だが、其れを認めることを怖れ、今まで努めて考えないようにしていた。要するに、幼少の頃からおぼろげに予感し、且つ怖れを抱いてきた、自分自身と絶対多数の他者との特異的な差異性を強く認めなければならなかった。


 康介は、そのままベッドに突っ伏した。

 気が附くと康介は朝を迎えていた。

 この頃、両親は海外出張に出払っており、大学に進学した兄と二人暮しであった。

 兄は時折帰宅しない日があり、この日も帰ってきていなかったようだった。

 康介はトーストを齧り、そのまま誰とも顔を会わせることなく、学校に向かった。


 クラスルームに着くと、其処は普段と変わらない見慣れた風景だった。

 席に腰を卸すとき、康介は隣の生徒に、「おはよう」、と挨拶した。隣の生徒はちらりと康介の方を向いて、そっけなく、「おはよう」、と返すと、机の上に広げた一時間目の教科書にそそくさと取り組み直した。

 全てが何時も見られる朝の景色だった。気のあった者同士が、適当な机に集まって昨晩のテレビ番組など朝の会話を楽しんでいた。別の者は予習に余念がなかったり、宿題を未だ済ましていない者は仲の好い奴に拝んでいた。普段と変わらぬ学友達の所作に、康介は、昨日の出来事は一部の人間が企てた仕業で、単なる杞憂なのだろうかと思った。

 しかし、其の考えを通すには、全てが余りにも不自然なぐらい自然に感ぜられた。まるで、悪意ある企てを密かに秘匿するべく、態と自然に振る舞っているように見えた。交わす他愛もない会話も、浮かべる笑みも、ほんの僅かな仕草さえもが、予め定められた筋書きに法っているかのようだった。周囲の学友たちが、偽りの仮面を被っているようだった。


 しかし、其れは康介の杞憂ではなかった。

 夕日が西空を茜色に染め上げる頃、康介は図書館での勉強を終えて、帰宅の途に着こうとした。康介は、正面玄関の自分の下駄箱の前ではたと立ち止まった。下駄箱の中から、登下校に履いている運動靴が消えていたのだ。

 一瞬何かの間違いかと思い、慌てて下駄箱に書かれた名前を確認する。しかし、鈍い鼠色をした金属製の下駄箱の名札入れには、はっきりと『藤宮康介』と表されていた。明らかに、誰かが康介の靴を故意に隠したのだと悟った。

 康介の背中を冷やりとした悪寒が撫でた。脳裏には、昨日、掲示板で見た文句がまざまざと甦った。目の前で起きている事実を否定したかったが、何らかの偶然だと自分に云い聞かせれば云い聞かせるほど、其の事実は打ち消し難いものとなった。


 混然としている康介の傍を、クラスメイトが通り掛かった。クラブ活動に精を出していたのだろうか、肩に大きなスポーツザックを掛けていた。

 康介が訊ねた。

 「なあ、俺の靴知らないか?」

 「さあ?」

 男子生徒は、興味なさげに、首を一寸傾げただけだった。「今から俺塾に行くから」、と一言云い残して帰った。

 唖然とする康介を残して去って行く男子生徒。康介は、酷く惨めな気持ちになった。

 康介は俯きながら、校舎の中へと戻った。見つかるかどうか分からなかったが、靴を捜すためである。


 一旦、クラスルームに向かう。

 とぼとぼと重い足取りで歩く康介は、夕焼けに沈んだ窓の外の景色を見た。すっかり花を散らし青い葉を天に向けて聳える桜の木も、疎らな人影が見えるだだっ広いグランドも、赤く映える色で塗りつぶした空も、何もかもが溶け合うようだった。境界は溶け合い、全てが曖昧に感ぜられた。そして、自分自身の人生も虚飾で縁取られた無意味なモノに感ぜられた。


 それから、康介は自分の教室を始点として、手当たり次第に教室と云う教室を覗いて靴を捜した。

 しかし残念ながら、日が沈んで月と星が昇る時刻にもなっても、康介は手掛かりすら得ることは出来なかった。校舎の中には、既に夜が流れ込んでいた。


 心細さと諦観に支配され、康介は上履きのまま家に帰ろうかと思った。そのとき、不図康介の頭にある一ヶ所が浮かんだ。其処は、康介は未だ調べていない所だった。

 半信半疑ながらも、否、確信めいた予感を持って其の場所に足を向けた。

 其処は、自分の教室にも近い場所、一年生の教室が並んでいる廊下の突き当たりにあった。

 ぎぃぃと扉を軋ませて、康介は淋しい夜の闇に踏み込んだ。


 其処は、男子トイレであった。

 そのまま康介は中へ進んで、個室の便座の中を覗き込んだ。

 溜められた水に、一足の運動靴が突っ込まれていた。放り込まれていた靴を取る。滴る水を切り、内側を確認する。其処には、『1―D、藤宮康介』と書かれていた。

 康介は、何も感じることはなかった。只、嗚呼やっぱりと理解していたことが空虚な心にすとんと落ちただけであっった。


 康介は、洗面台で濯いだ靴をティッシュペーパーで一拭きして、片手にぶら下げながら帰宅することにした。鞄に詰め込もうかとも考えたが、ぽたぽたと垂れる水滴を見て止めることにした。教科書やノートが濡れるのを嫌ったからである。


 誰にも会うことなく、康介は学校を後にする。

 ぽつぽつと等間隔に並ぶ街灯の下を、康介は一言も発せず歩いた。人気が失せた辺りには、康介の地面を擦る靴音だけが虚しく響いていた。康介が学校を一瞥すると、校舎は得体の知れない化け物のように、黒く塗りつぶされた姿をのっそりと暗闇に浮き上がらせていた。

 腕時計で時刻を確認すると、既に八時を廻ろうとしていた。道に整然と門を構える家々の軒下には、冷たい明かりが灯されていた。


 康介が自宅に着くと、既に兄は帰宅していた。

 居間の前を通りかかる。知性の欠如した笑い声が、テレビから流れていた。兄はバラエティ番組でも鑑賞しているようだった。

 「随分遅かったな?」

 ソファに身を沈めた兄は、振り返ることもなく、気安い声を投げかけてきただけであった。

 康介は、「あ々、ただいま」、と小さく呟いて、自室がある二階へと上がった。兄もそれ以上何も追窮してくる気配はなかった。二階へ上がる折に、テレビの笑い声に混じって、兄の品のない哄笑が聞こえてきた。


 部屋の電気を消した暗闇の身を投じ、康介は自分を抱きかかえて天井を見上げた。完全な暗闇、何も見えるモノはなかった。檻に閉じ込められたような重々しさに押し潰されそうになる。四肢は切断され、感覚は喪失し、光も届かぬ深海に沈み込むように感ぜられた。降り積もる澱の中、深遠な慟哭の淵に立たされた康介は、只声を殺して咽び泣くことしか許されなかった。 もはや涙はなけなしであった。

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