87 お嬢様は一体?
気まずさがすぐになくなるわけじゃなかったけれど、クレアは困ったような笑顔を作りながらも、ライオと言葉を交わすようになっていた。
「クレア、ごめんね」
夕食時。
私はもう一度、クレアに謝罪していた。
「私の方こそ、申し訳ございません。ご迷惑をおかけしてしまって」
私はあえて、にやりと笑みを浮かべる。
「何を言っているの? 私は、昨日寝ちゃっててごめんねって意味だけど……もっと寝てたほうがよかった?」
クレアは顔を真っ赤にしたが、今度は隠そうとはしなかった。
頬を膨らませて怒っているようだ。
「ライオ、二人になりたかったらいつでも言って。場所なら提供するぜ」
親指を立てて、前に突き出す。
「イクミ様! 怒りますよ!」
「確かに、先ほどの約束のことを考えると、それはいい案かもしれない」
「ライオット殿下まで、なな、何を仰っているのですか!」
これぐらい元気が出てくれればいいか。
昨日はあまり食べられなかったからか、クレアはからかわれたことから逃げるように、黙々と料理を口に運んでいる。
私にできることがあるのなら、協力するよ、クレア。
* * *
夕食を終えた二人は、屋敷の庭に用意されていた馬車の前にいた。
イクミはその姿を、テラスから眺めている。
「馬鹿よね、本当に……私はやっぱり、お似合いだと思うわよ」
クレアはライオの手を支えに、馬車の中へと乗り込んでいく。
その姿を見て、イクミは満足そうに大きく息をついた。
二人が乗る馬車の周囲を、護衛の冒険部隊が固めている。
ライオの指示で、馬車はまずクレアの住む屋敷へ向けて動き出した。
「イクミ様はすごいお方ですね。これほどの方々を……」
剣術を嗜んでいるクレアの目は、冒険部隊の強さを見抜いていた。
幾つもの死線をくぐり抜けてきたかのような戦士が十人。
家々の屋根の上にも、飛び交う人影が時折見える。
イクミにとっては、当たり前の光景なのだろう。だが、クレアはこの異様な光景に恐怖すら覚えていた。
中でも、先頭を務める隊長格の男の実力は、王都の兵士ですら足元にも及ばない。
クレアは、それほどまでの差を肌で感じ取っていた。
「驚くのはまだ早いよ。グセナーレ様の奴隷は、五百を超えているとも言われている。ほら、彼らの左手の甲を見てみるといい」
ライオは窓の外を指差す。
「奴隷ですか? いくら何でも、そのようなことが……」
奴隷という言葉に、クレアは少しばかり嫌悪感を抱いてしまう。
ソルティアーノ領でも奴隷は何度も目にしてきたが、ここにいる奴隷たちとは大きく違う。
窶れた様子もなく、時折、談笑する声すら聞こえてくる。
クレアは馬車の窓に手を当て、外へと目を向けた。街灯の明かりが差すのを待ち、隣を歩く戦士の手をじっと見つめる。
ライオの言う通り、その手の甲にはしっかりと奴隷紋が刻まれていた。それを隠そうとする者は、誰一人としていない。
そして、彼らの胸元に金属プレートの名札が付けられているのを見て、クレアの口角がわずかに上がる。
名前を覚えるのが苦手なイクミの考えた名札。それは裏を返せば、彼女が一人ひとりを名前で呼んでいるということだ。同じようにこの世界へやってきた彼女らしい工夫だと思えた。
「イクミ様は、やはり素晴らしいお方なのですね」
「ああ。奴隷たちがこれほどの成果を挙げている。グセナーレ様がいなければ、一体どれほどの街に被害が出ていたのか……もはや計り知れないよ」
奴隷たちを養うという名目で始めた冒険部隊は、バナンの奴隷紋を解放してからというもの、各地の街で多くの功績を残している。
奴隷が増えるにつれて部隊長も増え、その活動範囲は王国のおよそ半分にまで広がっていた。
うろ覚えのレシピから作られた数々の料理は、料理部たちの手によって、より多くの人々に振る舞われている。
思いつきで始まった遊具は、兄であるラズバードの手によって広く知れ渡り、各地で楽しまれるようになっていた。
人々がそれだけ豊かになりつつあるのも、彼ら冒険部隊が魔物の脅威と戦っているからこそだった。
「戦争が停戦になって、十六年が過ぎた。だが、それもいつまで続くのか分からない」
「北東にある、ケイロガンド王国との戦争のことですね。私の領地でも、派遣された多くの兵士が犠牲になったと聞かされたことがあります」
戦争が停戦に至ったのは、両者の痛み分けではない。ケイロガンドで魔物が多く出現したことが原因だった。
劣勢だったルディストラ王国は停戦の申し出を受け入れたにすぎず、今の平和は一時的なものでしかない。
「着いたみたいだね」
ライオは先に降りて、クレアへと手を差し出す。
クレアは決心するように一つ息をついてから、その手を取って馬車を降りた。
二人きりで過ごした馬車の中よりも、彼のちょっとした優しさの方に胸が高鳴る。
その恥ずかしさを隠すように、クレアは部隊長のもとへ行き、軽く頭を下げた。
「送っていただき、ありがとうございました」
「いえいえ、どうか頭を上げてください」
「殿下も、道中お気をつけて。その……おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。クレア」
「では、我々はここで……ああ、そうだ」
護衛を率いていたナイルは、クレアに対して膝をつき、頭を下げる。同時に、周りにいる奴隷たちもまた、同じように膝をついて頭を下げていた。
「お嬢様のことで、色々とご面倒をおかけするとは思いますが、今後ともよろしくお願いいたします」
その言葉に、クレアは安心感を覚えていた。
奴隷たちが主人であるイクミのことを大切に思っている。それが何よりも嬉しく、同郷である彼女が間違ったことをしていないことに、心から安堵していた。
「それでは、殿下。王宮までお送りします」
「わかった。それじゃあ、また明日」
「お気をつけて」
クレアが屋敷へ入るのを見届けてから、馬車は王城へとゆっくり進み出した。
「お父様。帰りが遅くなり、申し訳ございません」
「今日は遅かったのだね。学園で何かあったのかね?」
ソルティアーノ公爵家当主、ロキュモーアン・ソルティアーノ。
クレアが今、最も信頼できる人であり……ライオから聞けないことを知っている人物でもある。
「お父様。イクミ・グセナーレ様をご存じでしょうか?」
思いがけない名前に、ロキュモーアンは目を見開いた。真っ直ぐに見つめてくる娘の視線に、深く息を漏らす。
公爵家ともなれば、その名を知らない者はいない。
「彼女は私の友人です。殿下は何かご存じのようなのですが……」
「殿下は、お前に何も言わなかったのだろう?」
「お父様、教えてください。イクミ様は、私のたった一人の友人なのです。公爵家など関係なく接してくれる、ただ一人の友人なのです」
公爵家の娘であることを少しも気にかけず、接してくれた。それが、クレアにとっては何よりも嬉しかった。
同郷ということもある。けれどそれ以上に、イクミと過ごす時間そのものが、何よりも楽しいものになっていた。
だからこそ、彼女のことを知りたいと思ってしまう。
何を隠されていて、何を背負わされているのか。できることなら、自分も力になりたいと強く思っていた。
「場合によっては、知らないほうがよかったということもあるのだぞ?」
「構いません。どんなことでも!」
「困った娘だ。しかし、殿下に悟られたらどうする? 私が秘匿していることが、知られてしまうのではないか?」
「殿下はきっと、私がお父様から聞き出すことを想定しておられますわ」
「頑固なところは、どちらから譲り受けたのだろうな……」
そう言って、ロキュモーアンはグラスに残っていたワインを飲み干した。
真っ直ぐに揺るがないその目に、クレアの子供の頃を思い出す。
ロキュモーアンは、イクミ・グセナーレについて知りうる限りのことをクレアに語った。話を聞くクレアの表情には、次第に陰りが見えていく。
不明な生い立ち。父親の存在。そして、グセナーレという家名。
知らないほうがよいこともある。父の言う通りだったのかもしれない。それでも、何も知らないよりはずっとよいと思うしかなかった。
「なるほど。そういうことですのね……」
「私が知っているのはこれぐらいだ。もういいだろう」
「お父様。イクミ様は、巷で出回っている遊具をお作りになった方だということも、今後付け加えたほうがよろしいですわよ」
「それは本当か?」
イクミと一緒に遊んだ物は、どれもが試作品のようで、決して綺麗な物ではなかった。
それでもイクミは何ひとつ隠すことなく、どうやって作ったのかをクレアに説明してくれていたのだ。
「イクミ様でしたら、きっかけがあれば、ソルティアーノ領からも何かを生み出していただけるかもしれませんわ」
「やれやれ、強かに育ったものだ」




