85 お嬢様は見た!?
* * *
この屋敷の主であるイクミは、夕食に招待したにもかかわらず、帰りの道中でクレアの背中に背負われたまま眠ってしまっていた。
起こそうとするルビーに、今日あった出来事を考えれば、このまま休ませてあげてほしいと二人は話す。
話を聞いたルビーは、イクミを預かり寝室へと向かった。
応接室に案内された二人の前に、ティーカートを押したルビーが再びやってくる。
「お嬢様が、お誘いしたにもかかわらず、大変失礼なことを致しました。夕食の準備が整うまで、こちらで少しお待ちください」
ルビーは二人に対し、深く頭を下げる。
このまま帰してしまっては申し訳ないと、屋敷ではすでに二人のための夕食の準備に取り掛かっていた。
クレアはルビーがお茶を淹れる手元を眺め、ライオはそんなクレアを見ている。
「あまり時間はかからないと思いますが、何かございましたら、そちらのベルを気軽にご利用ください」
ルビーは扉の前で一礼し、静かに部屋を出ていった。
ぱたん、と扉の閉まる音が、やけに大きく響く。
イクミが眠ってしまったことで、こうなることを想定していなかった二人は、少しだけ緊張していた。
あの日以来、クレアはライオの顔を見られていない。
用意された紅茶に口をつけ、カップの中で揺れる紅茶を見つめる。
彼女はライオに恋をしている。だけど、それは叶わないこと。
それゆえに、何度も婚約破棄をお願いしていた。
「グセナーレ様の屋敷は初めてだったが……その、普通だな」
話題を作ろうにも、滅多に使われることのない応接室には、ソファーとテーブルしかない。
飾り気のない部屋で、ただ二人は座っている。
クレアからは、何も返ってこなかった。
学園であれば、いつもイクミが間にいて、気まずさを感じる暇もなかった。
イクミがいないだけで、こんなにも話ができなくなるとは、ライオは思ってもいなかった。
沈黙は食事の支度が整うまで続き、ルビーは二人を食堂へと案内すると、淡々と給仕をしていく。
メイドたちも同様で、その静けさが、クレアにはかえって居心地の悪さを感じさせた。
いつもよく食べるクレアの皿も、今日に限って量が控えめにされている。
「美味いな。私のところの料理人よりも上かもしれない」
メイドたちはその言葉に、軽く頭を下げる。
だが、浮かない顔をしているクレアを見て、その表情は寂しそうなものへと変わっていった。
会話の少ない食事を終えた頃、イクミが目を覚ましたと知らせが入った。
二人は、イクミの執務室へと案内される。
「ここが、グセナーレ家の執務室。思っていた以上に立派だね」
壁一面が書棚になっており、本以外にも書類がきっちりと並んでいた。書棚のガラスも綺麗に磨かれ、隅々まで管理が行き届いている。
対照的に、窓際の大きな机には書きかけの書類が何枚も無造作に置かれ、横のワゴンには何十枚もの書類が積まれていた。
その奥には、夜風の入るテラスへと続く窓が開いている。
「そのようですね」
ライオは物珍しそうに書棚の背表紙を眺めて歩き、クレアはソファーの端に浅く腰かけたまま、膝の上で指を組んでいた。
何度も訪れているクレアにとって、今さら目新しいものはない。
「クレアは、ここによく来ているのかい?」
その言葉に、体がびくりと動いてしまう。組んでいた両手をしっかりと握りしめ、クレアは意を決して立ち上がった。
「クレア?」
「このような場で申し上げることではないのですが……婚約破棄の件を、どうかお願いいたします」
深く頭を下げたまま、クレアは動かない。
何度も聞いた言葉。だけど、今度の言葉はライオの胸に深く突き刺さる。目を見開き、何度も首を左右に振る。
ライオにとって、クレアは特別だった。
考えがまとまらない。ただ、クレアを手放したくないという思いだけが、心の中で強くなっていく。
「殿下!?」
気づけば、ライオはクレアを抱きしめていた。
力強く、二度と離したくないとでもいうように。
「以前君が言ったように、確かに親の都合で婚約者になった。だが、どうすれば私の思いは君に伝わる」
ソルティアーノ公爵家は、王国の中でも大きな権威を持っており、加えて現国王の友人としても広く知られていた。
二人がまだ七歳の頃に、互いを婚約者として決められていた。
クレアにとって、両家の婚約そのものは問題ではない。それでも、ライオの思いだけは、どうしても受け止めるわけにはいかなかった。
「離してください」
「いいや、離さない。クレア。私にとって君はかけがえのない存在なのだ。君が好きなんだ」
震える彼女の手を掴み、ライオは視線を合わせようとするが、クレアは目をぎゅっと閉じたまま開こうとしない。
「殿下、お願いですから……あなたには、ふさわしい方がいらっしゃるのです」
「君には、そんなことは言わないでほしい」
ライオが踏み込むほど、二人の溝は広がっていく。それでも、ライオは諦めたくなかった。
そっと名前を呼ぶと、クレアがようやく目を開ける。潤んだ瞳が、すぐ目の前にあった。
「ごめんね、待たせ……失礼しました」
* * *
扉を開けた先で、まさか二人が抱き合い、今にも口づけしそうなほど顔を寄せ合っているところに出くわすなんて、予想もしていなかった。
慌てて回れ右をしたのだけど、まだ疲労が残っていた足がもつれ、倒れそうになったところをルキアに支えてもらって助かった。
ライオには確か婚約者がいたよね?
それなのにあんなことをしているということは、クレアがライオの婚約者ってこと?
いや、だったらいいって話じゃない。つまり私、二人の邪魔をしたってこと?
「イクミ殿、大丈夫でしたか?」
「お嬢様が重ね重ね失礼を致しました。ですが、こちらはお嬢様の執務室でございます。よろしければ客間にご案内いたしますが、いかがなさいますか?」
ルビーの言葉に、ライオは顔を真っ赤にしている。
クレアは両手で顔を隠し、その場に蹲っていた。
「結構だ。申し訳ない。場を弁えるべきだった。きょ、今日はこれで失礼する」
「クレア……えっと、大丈夫?」
「わ、私も失礼します!」
それはうん、私が悪かったけど……テラスから飛び降りて大丈夫なの?




