06 お嬢様の名前
何かの因果によってこの世界に、それも少女の体に乗り移った俺は、奴隷商人として生きていくこととなった。
あの頃の俺は、助かりたい一心で爺さんに話をしたまでは良かったのだが……それがどうしてこんなことになっているんだ?
夜遅く、俺は一人だった。
窓の外は月明かりで、テラスに置いてあるテーブルが見えるほど明るかった。
爺さんの指示通り、この屋敷を任されることとなった。
とはいえ、俺の身分は不明のまま。何度も見る鏡に映った自分の姿は、着せられている服のせいもあって、どこぞの貴族令嬢にも見えなくもない。
そう思わせてしまう原因の一つは、奴隷商人の代理であるはずの俺が、この世界の知識の勉強はともかく、貴族社会で必要となる作法などを朝から夜まで叩き込まれていることだ。
「俺が引き受けたのは……奴隷商人の肩書と譲り受けたこの屋敷」
みすぼらしかった少女が、貴族としてのマナーを覚える必要があるのかよくわからない。
俺の飼い主である爺さんにそんなことを聞こうものなら、また貞操をネタにからかわれるのは目に見えている。
勉学だけであれば会社の仕事より大変ではないが、俺の体は幼い少女のものであるため、少しばかりついて行けないこともあった。
勉強は座って行うものばかりではなく、一番の問題はダンスレッスン。これがとにかくつらい。
あんな檻に閉じ込められていたのだから、痩せ細った体に体力などあるはずもない。
そもそも、俺自身、ダンスがめっぽう苦手で……何度指摘されても上達しているとは思えない。
自分の体が女であることに戸惑いもしていたが、二週間も経てば自然と違和感は薄れていく。
メイドたちへ向ける言葉は度々指摘されるが、敬語を使わないように心がけることでなんとかなっている。
「そこまでなら問題はなかったのだけど……」
一ヵ月が過ぎた頃……今まで世話をしてくれていたメイドたちとは別に、俺専属の侍女が二人つけられた。
彼女たちの名前はルビーとトパーズ。
宝石に因んだ名前の通り、瞳と髪の色は赤と黄色。
侍女が二人つけられたが、俺の隣にいるのはいつもルビーだ。勉学や貴族マナーも、ルビーが代わりに教えてくれる。
ルビーの印象は見た目通り。いつも澄ました顔をして、発せられる言葉からも、真面目すぎるほどだ。
最初こそその口うるささに、隣にいてくれるのはトパーズがいいと何度思ったことか……
清楚で優しそうに見えるトパーズ。しかし、かなりの曲者だった。
指摘の嵐に嫌気が差した俺は、ルビーとトパーズを交互に付き添わせることを提案した。それが大きな間違いだったことは、わずか一日で理解する。
俺はまだトパーズのことを知らなかった。
交代したその日の午後、昼食を食べていた俺は誤ってフォークを落とす。
トパーズは、新しいものを用意してくれるまでは良かったのだが……「はい、あーん」と差し出してきたのだ。
嫌々ながらもそれを口にすると、「おいちぃですかー?」とふざけたことを言われる。げんなりしていると、なぜかトパーズの顔はみるみる笑顔になっていった。
それからというもの、トパーズは事あるごとに俺を抱き上げ、頭を撫で、まるで幼子をあやすように扱ってくる。中身は三十四のおっさんだというのに、「よくできましたねー」と褒められたときの屈辱は言葉にできない。
しかも、俺が嫌がれば嫌がるほど、その顔はどんどん嬉しそうになっていく。
はっきり言ってしまえば、とんでもない問題児……
「さすがに……勉強を頑張ったご褒美だと、高い高いをされたのは衝撃的だった」
そんな彼女に対して、俺は屋敷の管理を命じ、距離を置くようにしたところ、よく働いてくれている。たまにちょっかいをかけられる程度に収まっている。
身の回りの世話は、ルビーがいつも隣で見てくれている。それなりに指摘は多いが、トパーズが普段から隣にいないだけ平和だと言える。
奴隷商人の代理になるには奴隷紋を扱う必要がある。そして、奴隷魔法と呼ばれるものは、魔力を使って命令を行う。
しかし、魔力は俺にとって未知なる力。何度説明されても理解できない俺に、ルビーの提案で、魔力を感知するところから始めることになった。
ルビーに魔力を循環させてもらっても、変化がさっぱり分からなかった。魔力を感じ取れない俺は、ルビーから色々と教わるが、何の成果も得られない。
体内に流れる魔力を感じろと言われても、何を言っているのか理解できなかった。
そんなやり取りが数日続いた後、何時間も瞑想するだけの時間が始まる。あれは苦痛でしかない。
そんなことがあったりもしたが、地道な努力の結果、四ヵ月の間、死に物狂いで魔法を学び、ようやく奴隷魔法を扱えるようになった。
与えられた期間はギリギリだったが、爺さんから言われたとおり、半年の条件を満たすことができていた。
その頃になると体に変化が見られ、痩せ細っていた体にも、少しずつ肉がつき始めていた。
まるで頃合いを見計らったかのように、ふらりと訪れた爺さんは、この屋敷の全権を俺に押し付けた。地下にいる奴隷たちは譲渡され、使用人たちはここからいなくなり、この屋敷にはルビーとトパーズだけが残る。
爺さんがここを離れるときに、俺の頭に手を乗せて……
『今日から、お前の好きにすればいい』
そう言って、爺さんは屋敷から出て行った。
二人に聞いてもいつ帰ってくるか分からないらしい。
あまり屋敷にいる人ではなかったけど、半年という期間で、俺の努力が実を結んだ。
でも、この結果が良かったのかは分からない。
爺さんのいない今は、俺がこの屋敷と、残っている奴隷たちを守っていく。
俺は再び、机の上にある資料に目を通していた。
残されたものを確認するだけで、時間はあっという間に過ぎていく。
気づけば、窓の外が白み始めていた。
「お嬢様……おはようございます」
「ルビーか、おはよう」
俺はいつの間にか爺さんの養子にされていた。俺に二人の侍女が与えられたとき、初めてお嬢様と呼ぶ意味が分かった。
最初こそ抵抗はあったが、呼び方を改めさせるのは不可能なので、今は慣れている。
以前、この少女の名前を爺さんに聞いてみたが、結局教えてもらえないままだった。今となっては気になるほどでもない。
俺の記憶は俺だけのもので、少女の記憶はなく、この体は孤児となって売られた奴隷だ。
あったとしても、良い記憶なんてまずないだろうし……少女の記憶がない分、奴隷商人への嫌悪感まで引き継がずに済んでいるだけマシだと思っている。
俺の名前はこれまでと変わらなかった。
だけど、この世界での名前はイクミ・グセナーレ。
なんでもこの屋敷、つまりグセナーレ家の次期当主らしい……なんでそんなことまで決まっているのかも謎だ。俺は、家族のことも、グセナーレ家のことも、何一つよく分かっていない。
ただ、分かっているのはここが奴隷商人の家ってことぐらいだ。
そもそも、爺さんも侍女の二人も、そういうことを聞こうとしても、適当にはぐらかされて何も答えてくれなかった。
子供の姿をしている俺には、教えてくれないのも無理はないと諦めている。
「なかなかにいい天気だな。今日から俺の出番か」
「お嬢様。以前から再三にわたり申し上げておりますが、ご自身のことを『俺』などという言葉は慎んでください。でないと……」
「分かっている。あ、いや、わ、私の出番だな……出番ですね」
俺はルビーに言葉遣いをよく注意される。
だいぶマシになったと思うのだが、たまに無意識に出てしまうと毎度怒られる。
この程度で済むのならまだいいけど。
あまりにも悪ふざけが過ぎた場合、ルビーの睨みは本当に怖い。殴られるとかはまったくないのだけど、無言の圧力と言うか……蛇に睨まれた蛙の気持ちが少しだけ分かった気がする。
「着替えてからさ、放置してきたこの屋敷の中を見回るかな」
「かしこまりました」
今日から、俺がこの屋敷の新しい主。とはいえ、特別何かをしろと言われているわけでもないから、今後何をしていくのかが課題になっている。
クローゼットの中に並べられた洋服。その中にあるいつも着ていた一着を掴み取るが、すかさずルビーが俺の手からそれを奪い取り、そのまま床へ投げ捨てる。
「ええっと?」
いつもであれば、ルビーが着替えを手伝ってくれる。
それが普段。いつものことだった。
お嬢様こと俺に対して、ルビーは間違いは指摘するが……こういう反抗は一度もなかった。
「何か?」
何かって、何をしているのか聞きたいのですが。
それから、俺が手にした服は次から次へと床に捨てられる。それはなぜか……俺が取ろうとする服は全部ズボンだったから。
スカートを手に取ると……
「かしこまりました、お手伝いいたします」
「ルビーさん。お願いです、許してください」
「観念してくださいませ。トパーズ、あなたも手伝いなさい」
「お嬢様ー。ほらほら、お着替えですよー」
トパーズ!?
さっきまでルビーしか居なかったのに、どこから湧いて出た!
突然背後から現れたトパーズは、俺を羽交い締めにする。
突然のことで手足をばたつかせたが、今の俺はひ弱な子供。いくら暴れたとしても、この状態から抜け出すことはできそうにもない。
無駄だと分かっていても、俺が逃げたくなるのは当然のことだった。
問題となっているのはクローゼットの中の服だ。俺が気づいていないと思っているのか、少しずつ入れ替えられている。何度かあのような服を着せられたが、俺の好みに合うものはまったくない。
だとしても、ルビーとトパーズがいる時点で、俺に勝ち目があるとは思えない。
背後から、やけに楽しそうな声が聞こえてくる。
「さあさあ、お着替えですよー。お嬢様は良い子ですから、ちゃんとじっとしていられますよねー?」
こいつが一番の問題児、トパーズ。
何かにつけて俺を子供扱いし、隙あらば抱っこしようとし、寝る前には絵本を読み聞かせようとしてくる。俺が困った顔をすれば、それはもう幸せそうに目を細める。その困った行動を挙げれば、きりがない。
「ほらほら、暴れないの。ああっ、お嬢様の嫌がるお顔、今日も最高ですね」
「トパーズ、子供扱いするな!」
「お嬢様! いい加減、大人しくしてください」
服を着替えるだけで、結局ルビーからの威圧とトパーズの悪ふざけ。朝から最悪の気分だ。
魔力制御の授業では、ドレスのような服だとどうしても汚れるため、今まではズボンを履いて生活をしていた。
しかし、その授業が終わり、奴隷魔法を使えるようになったことでズボンを禁止されるとは思ってもみなかった。
これまでにも何度かスカートは履いたけどさ、やっぱり慣れないよ、これは……




