05 社畜は奴隷商人になる
怯える俺の頭に、爺さんの手が乗せられる。
「怯えることはない。奴隷紋を刻まれた者は、主の奴隷魔法による命令が変更されない限り、さっきのように禁じられた言葉を発しただけで、奴隷紋の力によって体が蝕まれるような激しい苦痛を受けることになる」
奴隷紋? さっき光っていた左手の紋様のことか……ここにいる人たちの左手には、不思議な紋様が見える。
だけど、爺さんは言った。ここから出たいか、と。それなのに、これじゃあまりにも酷すぎる。
爺さんは自分が今何をしたのか、それを理解しているくせに、顔色一つ変えず淡々としている。
「ならどうやって……どうすれば、話ができるようになる」
あの人のように、ここにいる人たちもきっと、ここから出たいと思っているのだろう。だが、今のままでは話をすることさえできない。
「左手にある紋様が奴隷紋。少々特殊な儀式によって刻まれた魔法陣のようなものだ。魔法のことはだいたいわかるか?」
魔法。
言葉は知っているが、使えと言われて使えるようなものではない。
そもそも、俺の世界にはそんなものはなかったのだから、わかるはずもない。
「いや、わからない。そんなものは何もわからない」
「そうか。奴隷紋を扱うには、その紋様に魔力を送り込んで命令を変更する」
爺さんが手をかざすと、獣人の左手が弱く光った。またさっきのようなことが起こるのかと思ったが、苦しむ様子はない。
「これであやつだけは、声を出せるようにした」
「貴様!! ここから出せ、出せーー!! がはっ」
襲いかかろうと一歩踏み出すと、彼女の左手が光り、体をのけぞらせて苦しみだした。
彼女がうずくまってじっとしていると、左手の光が消えた。
それでも、今にも襲いかかりそうな声を上げる彼女だったが、動くことはできず、頭を床にこすりつけて涙を流していた。
つまり、命令に従わない場合や、命令の範囲外の行動をした場合には、酷い苦痛を感じる。だから、従うほかない。
現実に、それも目の前でこんなものを見せられるのは……正直きつい。
「もうよい、黙ってじっとしていろ」
爺さんは彼女にそう告げると、俺の方へ向き直った。
「顔色が悪いな、戻るとしよう」
爺さんに抱えられ、その場を後にするが、俺はただ震えることしかできなかった。
生きるためとはいえ、こんなことに加担する自分が情けなく、俺を抱きかかえる爺さんに、ものすごい恐怖を感じていた。
さっきの部屋に戻ると、爺さんの表情や声は、まるで別人のように柔らかくなっていた。
あれだけの恐怖を感じていたのに、戻ってくる間ずっと撫でられていたせいか、少し落ち着きを取り戻せた。
だけど、こんなことを俺に任せようとする爺さんに、どう接していいのかわからなくなっていた。
「今日はこれぐらいにして、少し休むといい」
メイドにベッドの置かれた部屋へ案内される。服はメイドたちにされるがまま、寝間着に着替えさせられてしまう。
ベッドの上に横になると布団をかけられ、メイドたちは「おやすみなさいませ」と言って深く頭を下げた。
この丁重な対応に、困惑するしかなかった。何度も寝返りを打ち、なかなか寝付けなかったのは、地下での出来事が思い返されるせいだった。
* * *
目が覚めると、ぼんやりと天井を見上げたまま、しばらく何もできないでいた。
さすが子供の体といったところか、あれこれ考えているうちに眠ってしまったようだ。
意識がはっきりしてくると、昨日の出来事が頭をよぎる。
奴隷紋。
そして、魔法。
そんなものはありえない。それは俺がいた世界での話で、ここではあって当たり前。
奴隷紋による苦痛を目の当たりにしたことで、昨日のようなことを、他の場所にいる奴隷たちも受けているのだと理解できる。
命令に逆らえば、あの苦痛を与えられ、虐げられているのだ。
爺さんはあの時、話すことは許可したが、動くことまでは許可していなかった。そのため、彼女は襲いかかろうとして苦痛に見舞われた。
その痛みがどれほどつらいものか、俺には想像もできない。
奴隷紋の主人である爺さんだけが命令を出すことができ……あの紋様は、あそこにいた全員に刻まれていた。
爺さんの代理を務めること。
つまり、あの力を……俺が持つことになるのか?
「奴隷には奴隷紋が刻まれ、奴隷紋があるから奴隷……なら、どうして俺は?」
左手を上げて手の甲を確認しても、奴隷ならあるはずの刻印がない。
爺さんは、俺のことを奴隷と言っていた。孤児だったこの少女は、商人の手によってここに連れてこられた。
俺がこの体の中に入ったことで、奴隷紋の刻印に変化が生じて消滅したというのか?
ドアをノックする音が聞こえたので、上半身を起こして返事をする。
「おはようございます、お嬢様」
お嬢様?
爺さんの代理とはいえ……それで合っているのだろうか?
昨日と同じ服に着替えさせられ、寝癖のついていた髪も綺麗に整えられる。身支度をしてくれたことにお礼を言っても、ただお辞儀をされるだけで、会話らしい会話がない。
奴隷かと思ったが、左手には奴隷紋がない。
爺さんの命令だとしても、ここまで統制が取れるものなのか?
メイドに案内されたのは、昨日の応接室とは別の部屋だった。
「起きたようじゃな」
「おはようございます」
応接室というよりも執務室だろうか?
昨日とは違い、机の上には多くの書類が山積みになっている。
爺さんは俺の方を見ることもなく、ペンを持ったまま書類に目を落としている。
俺は爺さんの机の前まで進む。
「少し確認したいことがある」
「ほぅ」
「左手の甲にある紋様が奴隷紋とかいうやつだな? 奴隷というからには、例えば服従魔法とかが関係していたりするのか?」
「服従魔法か。それは違う。奴隷だから奴隷紋を刻むというより、奴隷紋が刻まれているから奴隷なんじゃよ」
それはどういう意味なんだ?
奴隷紋があるから奴隷? 烙印のようなものだろうか?
だけど、服従させる魔法ではないと……まったくわからない。
「あの紋様は持ち主によってその形が変わる。儂からお前に譲渡すれば紋様も変化する」
「譲渡!?」
「奴隷魔法は、所有する奴隷にしか効果がない」
爺さんはペンを置いて、俺の頭に手を乗せる。
「儂とてあの魔法は使いたくもない」
「だったらなんで……悪い、俺に教えてくれたんだな。奴隷を扱う上で必要なことだから。奴隷には全員アレが刻まれている。だけど俺にはない、消えたというべきか?」
爺さんはそれを不思議に思って、あの檻から出したのかもしれない。
俺がこの世界に来たことで、少女の体に変化があったから奴隷紋が無くなり、普通に会話ができているということなのだろうか?
なにがなんだか……
「すぐに理解しようとしなくてもいい。イクミがこの地に来たことで奴隷紋は無くなったと考えるべきじゃろう。だから、儂に対して平然と会話をしている。それが答えじゃろて」
こんなことに巻き込まれたが、そのおかげで少しはマシだと思うしかないようだな……
だめだ、気分が悪い。今にも吐きそうだ。
爺さんは、テーブルに置いてあるベルを鳴らす。
背中を押されてソファーに座るよう促され、あの手が背中をさすってくれていた。
やってきたメイドに水を持ってくるよう言い、運ばれてきたコップを、爺さんが俺に手渡してくれる。
「飲みなさい、少しは楽になるだろう」
あの時の爺さんと、今の爺さん。
この人はどっちの顔が本当の姿なんだ?
「ありがとう」
用意してくれた水を飲み干した。何度か深呼吸をして、少しは気持ちが落ち着きはしたけど、あんなのを俺が今後使うのか?
今は、どんな因果があって俺がここにいるのかわからないが、あの惨状を見て、自分があんな目に遭っていないだけマシだと思うほかない。
「さてイクミ。奴隷紋がないお前はある意味では自由じゃ」
「ああ、分かってる。爺さんの代わりにこの商会を盛り上げろってことだろ?」
「そう急くでない。とはいえ、ここには少ないが奴隷はおる。それらをどう使うかはお前次第じゃ」
正直に言えば、使いたくはない。
だけど、それは平和だった国にいたからだ。これだけの好条件を提示してくれたことは素直に嬉しい。甘えなのだろうけど……それでも、できる限り使いたくはない。
「まあ、好きにするといい。じゃが、半年以内に奴隷魔法を扱えるようになること。まずはそこからじゃな」
「ああ、わかっている。今の俺にはそれしかないみたいだな」
こうして俺の奴隷商人としての生活が始まった。




