02 社畜は少女になった
そうだよ、こんな現実なんてあり得るはずもない。
何もかもがバカバカしくなった。
俺は爺さんを睨みつけ、左手を腰に当て、ビシッと爺さんを指差す。
「いいか? 奴隷が商品っていうなら、せめてこんな所に閉じ込めるんじゃなくて、買って貰えるようにもっと身綺麗にしておくべきだ。そして、その費用は必要経費であって、切り捨てるものじゃないはずだ。ただ生かすだけの最底辺の食事じゃ、見ろ! このやせ細った腕を。このままじゃまともな仕事もできず、誰も買わなくなるだけだ」
「お前は何を言っとるんじゃ?」
「よく見てみろよ、俺みたいな小汚い男を誰が買うって……」
「儂から見ればお前さんは女に見えるのじゃが」
「俺は男……だ?」
女という言葉に反応した俺は、胸から下半身まで撫で下ろす。そこでようやく異変に気づき、股に手をやるが、男なら誰にでも付いているはずの突起物がなかった。
いや、夢なんだからそんなことすらありえるよな……そう自分に言い聞かせ、夢なら覚めてくれと、額や頬を何度もバシバシと叩く。だが、痛みで涙が出てくるだけだった。
夢は本来もっと曖昧で、こんなにもはっきりと自分の思考が働くこと自体、あまりない。
そして何よりも、夢の中では痛みなんて感じないはず……だとしたら、今起こっていることは現実で、俺は女で、奴隷?
俺の目線の先にいる爺さんはとても大きい。おっさんだった俺が、少女になっている?
「なんだよここは……俺は一体?」
夢ではない事実を突きつけられた。悪夢から目覚めることは、もうない。
足から力が抜け、その場に尻餅をつく。両手で頭をかきむしる。
「さっきも言っただろう。ここは奴隷商人の館じゃと」
俺が頭を抱えてうずくまっていると、爺さんはランタンを床に置き、檻の鍵を開けて中へと入ってきた。
足から伝わる床の冷たさ。辺りを照らすランタンの揺らめく火。叩いたことによる頬の痛み。どれもこれもが現実だと告げているようだった。
「はは、なんだよ」
肩を掴まれ、爺さんの顔が目の前にあった。
他人に触れられる感覚もまた、ここがやはり現実なのだと告げていた。頭の中では、理解と絶望が渦巻いている。
爺さんは俺を少し見つめた後、何かに驚いたように目を見開き、体を仰け反らせた。
「お前の……名前は?」
俺の名前?
「建石育実。名字が建石で、名前が育実だ。俺にも状況が分からない。なんでこんな所にいるんだ? なんで子供になっているんだ? 俺は一体これからどうなるんだ!? なぁ、答えてくれよ!」
爺さんの服を掴み、問いただすが……
「まったく、騒がしい奴じゃのぅ」
両腕を掴まれて力ずくで立たされ、そのまま軽々と突き放されてしまった。
混乱しつつも顔を上げると、先に檻の外へ出ていた爺さんが、ランタンを拾い上げて手招きをしていた。
「どうした? このまま此処にいたいのか?」
今は素直に爺さんに従うべきだろうか?
抵抗したところで今の立場が不利であることに変わりはない。
これが現実なら、まずは現状を把握する必要がある。
俺は覚悟を決めて檻の外へ向かう。
それにしても、爺さんは屈んで出入りするのに、今の俺は屈む必要がないというのも嫌な気分だな。
それだけ小さな子供みたいだが、なんとも複雑な気分だ。
「俺に一体何をさせるつもりなんだ?」
「儂に付いて来なさい。分かっていると思うが、くれぐれも余計なことは考えるでないぞ」
「わ、わかった」
そう言った爺さんに睨まれ、全身の毛が逆立つほど身震いしてしまった。
子供になったことで、自分よりも大きな人間からの威圧に、恐怖心を植え付けられる。それと同時に、嫌な記憶が一瞬よみがえってしまった。
大きく息を吐き、平静を取り戻す。
こんな細い体では、いくら年寄り相手とはいえ逃げられるはずもない。体の感覚がまだつかめていないのか、足元がおぼつかず、何度か転びそうになっていた。
「手を貸すか?」
「ありがとう」
爺さんに促されて檻から出ることはできたが……薄暗いこの場所には、遠くに見える一つだけの松明が灯されている。俺が閉じ込められていた檻の他にも、いくつも檻があるのが確認できた。
俺がいた場所がかなり暗かったのは、一番奥の檻だったからか。
松明が置かれている所までやってくると、檻の中の様子がはっきりと見えた。が……俺はその中を見るべきではなかった。
虚ろな目をした者もいれば、爺さんを今にも殺しかねないほど睨みつけている者もいた。
爺さんが奴隷という言葉を使い、俺に対して商品とはっきり言い切った。そこにいる人たちは、紛れもなく奴隷なんだろう。
少女になった非現実を受け止めながらも、それでもどこかで、ここが地球であることを望んでいた。だが、地球ではない可能性を見出してしまう。
地球の総人口は約六十億と言われている。その中には多くの人種がいる。
だが、それだけ多くの人種がいても、猫の耳を持つ人間などいない。
それなのに……爺さんを睨みつけている人の頭には、猫のような耳が付いている。
そういう被り物があることはわかっているが、そんな物をわざわざここで付けているはずもない。
なによりその姿を見て、一つの単語が頭をよぎっていた。
高校生の頃から一緒だった友人。彼は、ゲームやアニメが好きで俺によくその話をしていた。
その話に出てきたキャラの中に、獣の特徴を持つ人間……『獣人』がいた。
当然のことだが、それは空想のものであり、そんな人種は地球上に存在しない。
奴隷制度がこれほど当たり前にまかり通っていることもない。
「何をしている?」
立ち止まる俺に、爺さんが呼びかけてきた。すぐに後を追う。
階段を上り、爺さんが扉を開けると、長い廊下には絨毯が奥まで続いていた。
爺さんはランタンの火を消し、小さなテーブルに置くと、先へ進み始める。
この廊下はランタンが必要ないほど明るく、壁の所々に明かりが灯っている。爺さんが持っていた火のランタンとは違い、まるで電球のように揺らぐことのない光だった。
奥まで続く廊下の長さだけでも、一軒家の三倍はありそうだ。家というよりも、屋敷がしっくりと来る。
これだけ大きな屋敷の地下に、奴隷を監禁している……確か、奴隷商人の館と言っていた。なら、爺さんがこの館の主人になるのだろうか?
ここにある内装がこの世界の普通だとするなら、別世界というのも今では否定する気も起こらない。窓のガラスに映る自分の姿からして、俺は俺ですらなくなっている。
この背丈なら小学校高学年と言ったところか?
子供の目線なんて、今更思い出せるようなものではない。
そんなことよりもだ、どうしたものか。
地球でないことを前提にすれば、ここがどこかもわからない。
奴隷が当たり前にある世界なら、過酷な毎日が待っているかもしれない。できることなら普通に働けて、そこそこまともな生活をさせてくれるのなら別にいいが……こんな体の俺に何ができる?
案内された部屋に入ると、爺さんは自分の対面にあるソファーに座るよう、俺に促した。
「さて、お前さんは一体何者なんじゃ?」
この部屋は応接室だろうか?
俺は向かい合わせに座るが、この部屋にある見慣れないものが気になっていた。
爺さんが使っていると思われる、あの大きな机……まさかとは思うが、あれは全部木でできているのか? これだけ大きく分厚い机なら、たいていは合板が使われているものだ。木目もしっかりとしているし、側面にある装飾にも手が込んでいる。
廊下でもそうだったが、この部屋の窓もガラス張りで、窓の外は完全な漆黒に染まっていて、真夜中だとわかる。
カーテンが備え付けられているのに閉められておらず、どの窓を見ても外からの明かりすら見えない。
この屋敷が何かに覆われているのか、それとも、周りには建物がまったくないのかもしれない。




